関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2277 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」5 大坂の陣の備の人数帳との比較

<<   作成日時 : 2018/05/19 21:17   >>

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 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、「関原首帳」には「福島家の備の編成が記されていない」からです。
 それによると、「福島家の備は、一番備、二番備、福島正勝の旗本備、跡備の4つの備から成立している。組数については、一番備が5組、二番備が6組、福島正勝の旗本備が4組、跡備が3組である」と指摘され、それぞれの備の性格について考察されています。
 もっとも、「大坂陣備人数帳の末尾の記載によれば、福島家の家臣は大坂の陣に出陣した人数以外に、江戸、広島、三原にもいた、としているので、大坂陣備人数帳に記されている家臣が福島家の全家臣でないことは明らかである」とも記されていますから、兵の規模としては関ヶ原の戦いの方が大きかったのかもしれません。もっとも、福島正則は関ヶ原の戦いの後、大幅加増されていますから、動員数は大坂の陣の方が多かったという可能性もありますが。福島正則自身、大坂の陣の際は、豊臣家恩顧の大名ということで徳川家に警戒されたため、江戸に留め置かれました。
 そういうことを踏まえた上で、まず大坂の陣の一番備については、次のように記されています。
 「一番備は先鋒(先手【さきて】)として最初に敵と交戦するため激戦が予想されるので、@一番備全体の指揮官は3人もいて他の備より指揮官の数が多い、A馬乗(騎馬クラスの武士)の数は、二番備、福島正勝の旗本備よりもやや少ないが、鉄炮足軽の数は他の備に比較して最も多く(鉄炮足軽が100人以上いるのは一番備だけである)、最初の交戦段階で火力で優位に立って敵を制圧する意図が伺える」と。
 一方、関ヶ原の戦いの三成隊については、軍記物や編纂史料に頼るしかありませんが、嶋左近と蒲生頼郷(喜内、備中)が先鋒の指揮官を務めていたと思われます。左近も頼郷も馬に乗っていたことは、それらの史料には記されています。左近については、「黒田家譜」に次のような記載があることが、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)に次のように記されています。
 「長政の家臣である白石正兵衛、菅六之助などが、足軽を引き連れて右の方の少し高いところへ走り上がり、かねてから選んでおいた鉄砲の上手い者五十人に隙間なく撃たせたので、島左近の兵は多く撃たれて、左近自身も鉄砲に当たって落馬した」と。
 蒲生頼郷の方は、安藤英男氏編「石田三成のすべて」の「石田三成家臣団事典」の「蒲生郷舎」の項に「最後に味方の潰えるのを見て、馬上にて大敵の中へ乗り入れ、その勢いに味方は半時ばかり盛り返した。馬が深手を負うたので歩行(かち)立ちとなり(後略)」などと記されています。出典は「古今武家盛衰記」「関原軍記大成」です。

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