関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2278 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」6 大坂の陣の備の人数帳との比較2

<<   作成日時 : 2018/05/20 21:16   >>

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 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、その続きです。大坂の陣の二番備については、次のように記されています。
 「二番備は中備(なかぞなえ)にあたり、他の備に比較して組数は最も多い。しかし、馬乘(騎馬クラスの武士)と鉄炮足軽の合計数で比較すると、一番備が204人、二番備が180人、福島正勝の旗本備が216人、跡備が63人であり、一番備、福島正勝の旗本備よりは数が少ない。二番備の性格としては、先鋒である一番備の後衛であると同時に、福島正勝の旗本備の前衛ということになる」と。
 福島正勝の旗本衆は次のように記されています。
 「組数は4組であり、一番備の5組、二番備の6組よりも少ないが、馬乘(騎馬クラスの武士)と鉄炮足軽の合計数は216人であり、他の備と比較して最も人数が多い。上述したように、馬乘(騎馬クラスの武士)の数についても、他の備と比較して最も人数が多く、福島正勝を強力にガードする目的のためと考えられる。この備は旗本備であるから、福島正勝の直属部隊という性格を持つ」と。
 旗本衆が備の中心であることがわかりますし、強力な親衛隊という意味合いだったでしょう。この旗本衆の後ろにさらに跡備があります。
  こういう備の構成は、関ヶ原の戦いにおける三成隊でも同様だったのではないかと思われますが、敗者の常とは云え、詳しいことはわかっていません。むろん、戦いが激しくなれば、こういう構成も崩れてきます。
 坂本雅央氏の「【改訂版】平群谷の驍将 嶋左近」の中で、次のようなことが記されています。
 「戦いがたけなわとなった頃、三成は笹尾山を降りて前線の嶋・蒲生陣へと現れた。ここで戦況を分析した三成は高野越中・大山伯耆に二千の軍勢を預け、東軍勢の側面を攻撃しようとこころみる。(中略)彼ら(家康方)は一斉に進軍して高野・大山隊を押し戻し、勢いに乗って三成の設けた二重柵の前へと殺到していった。負傷した嶋左近や、左近と共に先鋒を務めた蒲生備中は、もはや大砲によって攻撃するしかない方法はないと進言、三成もこれを受け入れて本営から大砲五門を柵内まで運ばせた。そしてこれを東軍勢に発砲、敵がひるんでいる隙に蒲生備中・舞兵庫・北川十左衛門らが兵を率いて突撃を敢行した」などと。
 むろん、これらの記述は編纂史料や軍記物などによるもので、笹尾山に三成が布陣したことをはじめ、内容は再検討する必要があります。この記述が正しいとしての話ですが、ここに出てくる二千の兵というのは、旗本衆に当たる兵でしょうか。二番備も含んでいるのでしょうか。
 

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