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zoom RSS 三成の実像2279 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」7 大坂の陣の備の人数帳との比較3

<<   作成日時 : 2018/05/21 18:08   >>

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 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、その続きです。大坂の陣の跡備については、次のように記されています。
 「この跡備は、他の3つの備と比較して、@馬乗(騎馬クラスの武士)の数が最も少なく、福島正勝の旗本備の馬乗の数のちょうど半分の数である。A鉄炮足軽は全くいない、B知行合計は、他の3つの備のそれぞれの知行合計の約半分の石高である、C組数は最も少ない、D組に所属しない上級家臣(備の全体を統括する指揮官はいない)、という点が指摘できる。この点から考えると、備としては最も規模が小さく、特に鉄炮足軽が全くいないということは、後方からの敵の攻撃を想定していないということを示すものであろう」と。
 福嶋家の備の構成は、一番備、二番備、旗本備、跡備というものですが、跡備の規模・人数が少なかったのは、大坂の陣の特殊性があったからかもしれず、普通はもっと多かった可能性はあります。大坂の陣の際は、豊臣家に味方する大名がおらず、後方から攻められることは考えなくても済んだからです。関ヶ原の戦いの場合も、白峰氏の見解に従えば、三成隊は山中で宇喜多秀家隊・島津豊久隊らと共に先備であり、二番備として島津義弘などがいましたから、三成隊も後方からの攻撃に備える必要はなく、跡備は手薄だったのかもしれません。
 白峰氏の同書では、島原の乱でも秋月藩(黒田家)は先備、旗本備、後備、殿備の4つの備であったという笠谷和比古氏の研究、肥後熊本藩の加藤家の分限帳である「加藤侯分限帳(慶長十四五年之比)」には一番手、二番手、三番手、後備の4つの備が記されていることから、「一つの大名家が出陣する場合は、石高や人数の多寡に関係なく、4つくらいの備の編成というのが標準的であったのかもしれない」と指摘されています。
 むろん、関ヶ原の戦いと大坂の陣や島原の乱では十数年以上の開きがありますが、備の編成などはあまり変わりないという気がします。
 また、「合戦時に整然と兵科別編成が出来て兵科別に戦った」という通説に対して、そうであれば「首帳の記載や大坂陣備人数帳の記載は当然兵科別になっているはず」なのに、「首帳の記載が兵科別になっていない」と指摘され、「この時代における兵科別編成の有無を検討する」必要性が唱えられています。
 兵科別編成ではなかった例として、大坂陣備人数帳では、「一番備、二番備、福島忠勝の旗本備の各鉄炮足軽は、それぞれの備で鉄砲隊として単独で編成されているのではなく、20人単位、30人単位、50人単位で、600石〜3600石の武士にそれぞれ付属する形で記載されている」ことが挙げられています。
 三成隊も福島隊などと同様の編成ではなかったかと思われます。

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