関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2280 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」8 細川家の首注文との比較

<<   作成日時 : 2018/05/22 21:12   >>

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 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の註の中で、細川家の首注文との比較もされています。
 すなわち、「細川家の首注文では、細川家(正確には細川忠隆の軍勢)全体での討ち取った首の合計に関する記載があり136(ただし、実際に計算すると135になる)と記されている」ので、「関ヶ原の戦いで討ち取った首の数では、福島家の方が細川家よりも多いことになる」と述べられています。
 このことについて、「福島正則が石田方の軍勢が布陣した山中攻めの先手(さきて)であったことと関係するのかも知れ」ず、「福島正則は先手であったため、敵との戦いが激戦になり、結果的に敵の首を多く討ち取った、と考えることもできる」と指摘されています。
 福島隊が討ち取った首の数は207人ですから、細川家の約1.5倍になります。
 福島隊が先手であったことを示すものとして、慶長5年(1600)9月17日付の吉川広家自筆書状案が挙げられています。
 忠隆は忠興の長男ですが、関ヶ原の戦いの直前、細川ガラシャが大坂城に人質に入るのを拒んで細川屋敷で自刃した時、同じ細川屋敷にいた忠隆の妻の千世が、姉の豪姫(宇喜多秀家の妻)の勧めで隣の宇喜多屋敷に逃れたため、戦後、忠隆は忠興にそのことを咎められ、千世を離縁するよう言われましたが、それに応じなかったため、忠興によって廃嫡されてしまいます。
 しかし、関ヶ原の戦いの際は、忠隆は忠興と行動を共にし、忠興の後継者として目されていました。関ヶ原の戦いの際の細川隊の動員人数について、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)によると、5100人と推計されています。推計の数字は、「石高をもとに、一万石につき三百人の軍役人数を基準数値として推計した」ものです。もっとも、白峰氏の見解によると、この時点において、細川忠興は「すでに石田・毛利連合政権により改易されていたが、動員人数はもとの石高をもとに推計した」と記されています。忠興は丹後宮津17万石でした。
 従来の説では、細川忠興隊は黒田長政隊などと共に笹尾山にいる三成に対峙していたとされていますが、その布陣図は、白峰氏によって後世の創作だという見解が示されており、細川隊の陣地がどこであったか、他の武将の陣地も含めて、今後、一次史料の見直しなどから改めて検討すべき研究課題と思われます。三成が山中に布陣していたという白峰氏の見解、三成が松尾の自害峰に布陣していたという高橋陽介氏の見解に従えば、細川隊をはじめとする家康方軍勢は、通説よりずっと南の方に陣を置いていたということになります。
 

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