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zoom RSS 三成の実像2282 「古田織部美術館」の展覧会の紹介記事2 新発見の高山右近書状・織部の肖像画の解説

<<   作成日時 : 2018/05/24 12:53   >>

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 4月4日付の朝日新聞記事に掲載されていた、「古田織部美術館」の展覧会「織部はキリシタンか?」ですが、展示されていた新発見の高山右近の書状は、次のような内容です。
 「書状は、1614年に江戸幕府による禁教令でマニラへ追放される直前に、お灸の付け薬を贈られたことに対する右近からの礼状だ」と。
 この書状は2月20日付のもので、長崎に赴く途中で記されたものだと思われます。右近がマニラに着いたのはこの年の12月のことです。この年は大坂冬の陣が起こった年でした。右近は翌年の1月6日にマニラで死去しますから、豊臣家の滅亡は知りません。
 織部がキリシタンであったかどうかについての、宮下玄覇(はるまさ)館長の見解は次の通りです。
 「織部はキリシタンではなかったと考えられるが、キリスト教が流行する中で、何らかの影響を受けていた可能性はある。現代の日本で、キリスト教信者ではないのに、クリスマスを祝うような日本人の特性が当時もあったことを示しているのではないか」と。
 古田織部を主人公にした、山田芳裕氏の漫画「へうげもの」は、三成の描き方が悪く、冷徹な無表情な人物として描かれていますし、織部としばしば対立していました。三成の描き方のおかしな点については、拙ブログで以前、何度か触れました。三成と織部の関係については、確かな史料の検討によって改めて見ていく必要があると思います。利休と三成の関係が悪くなく、三成が茶の湯やキリスト教に理解を示していたという立場に立てば、織部との新たな関係も見えてきます。
  3年前に開催された「大関ヶ原展」で、古田重然【しげなり】織部像が展示されていました。展覧会の図録に、次のように解説されています。
 「茶人としても知られた武将の古田織部重然の肖像。豊後国岡藩主中川家にゆかりのある高流寺に伝来したもので、織部の末裔で同藩の家老を務めた古田廣計の賛がしたためられている。
 千利休の高弟であり、利休亡き後はその茶道を受け継ぐとともに、独自の気風を挿入し、その美意識は『織部』の名を冠した好みとして茶器や庭園などに発揮された。織部の名は、天正13年(1585)に従五位下織部正に叙任されたことによる。
 武将としての織部は、織田信長・豊臣秀吉に仕え、三万石余を領有した。関ヶ原合戦では徳川方について戦っている。大坂夏の陣の後、織部は豊臣方への内通を疑われ、自刃している」と。
 三成が従五位下治部少輔に任じられたのも、同じ天正13年のことです。
 

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