関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2284 白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」2

<<   作成日時 : 2018/05/27 20:42   >>

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 立花宗茂が関ヶ原の戦いに参戦していたら三成方は負けなかっただろうということが、「秀吉の野望と誤算」(文英堂)の中で笠谷和比古氏によって唱えられています。家康方の小早川秀秋や毛利秀元ら南宮山の動きが変わっていただろうというのが、その根拠です。もっとも、秀秋に関しては、最初はどちらに付くか逡巡していたという前提のもとですから、最初から秀秋は裏切っていたという最近の白峰旬氏や高橋陽介氏の見解に従えば、その前提は崩れてきます。
 笠谷氏によれば、南宮山の秀元らも立花宗茂や島津義弘が朝鮮半島の時のように激しい戦いを相手に仕掛ければ、傍観はできないと云います。もっとも、白峰氏や高橋氏の新説のように、三成方が山中に布陣していたとするなら、南宮山から戦いの様子はよく見えなかったかもしれません。また三成方が鶴翼の陣形を取っていたとか、家康が秀秋に問い鉄炮を放ったとか、笠谷氏の説はこれも従来の捉え方が踏襲されています。
 このように立花宗茂一人で情勢が変わったというのは考えにくいとしても、宗茂を含めて大津攻めの軍勢一万五千人が加わっていたら、情勢が大きく変わった可能性はあります。実際、この戦いで戦っていたのは、三成、宇喜多、小西、島津、吉継であり、家康方と比べて兵力数はずっと劣っていましたから、そこに彼らが加われば、大きな加勢になったでしょうし、大津攻めには毛利元康ら毛利勢が多く加わっていましたから、南宮山に知らせが届き、南宮山の毛利勢も呼応していたかもしれません。歴史に「もし」は存在しませんが、そうことを考えてみる
のも歴史の愉しみかもしれません。
 さて、白峰氏の「慶長5年10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)ですが、感状が発給された日付について、「12月2日付で立花家家臣に対して一斉に感状を発給した」と記されています。6日付、12日付がそれぞれ1例あるものの、写しの文書なので、「日付を誤写した可能性が高い」と指摘されています。大津城攻めの感状は、以前にも触れたように、「10月10日付で立花家臣に対して一斉に発給し、一部例外的に10月11日付で発給した」と指摘されていました。
 この12月2日という時期について、「立花宗茂は、家康への釈明を目的として大坂へ向かい、12月12日頃には着坂して黒田長政と面談しているので、上坂する前の在国している時期に、家臣に対して一斉に感状を発給したと考えられる」と記されています。
 小西行長、安国寺恵瓊、三成が処刑されたのは10月1日ですから、この情報は宗茂に伝わっていたはずで、江上合戦をしたものの、これ以上家康方と戦うのは得策ではないと考えたのかもしれません。

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