関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2285白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」3

<<   作成日時 : 2018/05/28 18:11   >>

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 大津城攻めにおける立花宗茂の感状は、「10月10日付で立花家臣に対して一斉に発給し、一部例外的に10月11日付で発給し」(白峰旬氏「「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」)、それより10日後に江上合戦が起こっていますから、この感状の発給は、家臣に対して次なる戦いに向けて家臣たちを鼓舞する意味合いもあったのかもしれません。実際、この「感状を与えられた立花家家臣で、10日後の10月20日の江上合戦で戦死したケースがある」と白峰氏の同論文に記されています。
 白峰氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」の註の中で、「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦い(本戦)に至る、同年の日本国内の争乱状態について、慶長という元号を付して、『慶長庚子の大乱』、或るいは『慶長庚子の大兵乱』と呼称することを提唱したい」と述べられていますが、それは関ヶ原の戦い後の江上合戦や東北での戦いも含めてのことだと思われます。そういう大規模な戦いになったのは、白峰氏の見解通り、三成が三奉行、大老の毛利輝元、宇喜多秀家と結んで豊臣公儀を形成したため、家康が政権の正統性を奪われたからですが、正当性がない側が勝利したのは壬申の乱でも同じです。朝廷側の大津京の大友皇子が、朝廷を去り出家した大海人皇子に敗れたのですから。主戦場が関ヶ原(山中)だったというのも奇縁です。
 さて、白峰氏の「慶長5年10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)ですが、感状の書止文言は「『恐々謹言』が12例、『謹言』が5例、『候也』が8例、『者也』が5例であ」り、「4種に分かれている」ことが指摘されています。これに対して、大津城攻めの感状は、「『恐々謹言』(ただし、『候也』が1例、書止文言なしが2例ある)であった点とは大きく異なってい」て、「同じ立花家家臣に対する感状であり、時期的にも2ヶ月程度の差しかないにもかかわらず、大津城攻めの感状と江上合戦の感状でこうした書止文言の違いが見られることの原因については今後検討すべき課題である」と記されています。
 白峰氏の同論文では、史料として佐田清兵衛尉宛の感状が挙げられており、次のように内容が紹介され、解説が加えられています。
 「この度の江上表での一戦において、佐田清兵衛尉の親父である(佐田)平右衛門尉が戦死したことについて、忠義の次第は誠に比類がないと賞し、そのことを中間の小右衛門が届けたことについて軍忠としている。この場合、父が戦死しているので、戦死した本人(父)に対しては感状が出せないため、子の佐田清兵衛尉に対して感状を出したのであろう」と。
 この感状の書止文言は、「謹言」です。

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