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zoom RSS 三成の実像2261「特別研究集会」42 奥井氏「伏見城跡調査成果」2 中野氏「三成伝」98 再建

<<   作成日時 : 2018/05/03 11:05   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていましたが、慶長の大地震によって、指月伏見城は崩壊し、2期が終わりました。
 「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表には、「慶長元年(1596) 閏7月 鳥羽・伏見を震源地とした慶長大地震が起こり、伏見城全壊。直後より木幡山に伏見城再建工事が開始される」と記されています。
 大地震が起こった時には、三成は伏見城にいなかった可能性があることは拙ブログでも触れました。この点について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で「閏7月に入ると、明・朝鮮の使節が海路を堺に到着する。当然、三成もその対応に従ったと考えられる」と記されています。地震が起こったのは閏7月12日です。
 伏見城の第3期は、慶長2年からで、「木幡山を中心として新たに城を築きはじめる」と説明されていました。
 これが木幡山伏見城ですが、三成がこの普請に大きく関わっていることが、中野氏の同書に記されています。
 すなわち、「伏見城を再建するため、同年(慶長元年)12月には諸大名に対する課役の指示が下される。慶長2年になると正月11日付で、三成は長束正家・増田長盛・徳善院前田玄以ら奉行衆とともに、近江国芦浦観音寺に対して連署状を発し、伏見城の普請用材を搬出するように命じている」
 「三成は正月24日には秀吉の京屋敷造営のために入京しているが(『言経卿記』)、基本的には伏見にあって、築城の指揮を含む政務に従っていたと推察される」と。
 さらに「3月1日を期して普請工事が開始され」、それに先立って「日用取(『日傭取』とも、日雇【ひやとい】を業【なりわい】とする者)の停止を令する」2月15日付の増田長盛・長束正家・石田三成・前田玄以連署状が出されますが、その連署状が中野氏の同書で取り上げられています。これは堀尾吉晴に宛てたものですが、近江坂田郡の西上坂村の上坂正信に充てても出されており、「小身の秀吉直臣をも対象としたことがわかる」と指摘されています。
 この連署状の内容から、「この日用取の禁令は、前年(慶長元年)に出されていたものの再令であることがわかる。また、奉行衆が、農民の逃亡と耕地の荒廃を非常に危惧していたこともわかる」と指摘されています。
 また3月7日付の長盛・正家・三成・玄以に宮部継潤を加えた連署状も取り上げられていますが、「『御掟』およびその令達をつげる書状」で、「一連の指示は、辻切・摺【すり】・盗賊などの取り締まりなどの取り締まりのため、武家奉公人については五人組、それより下層の下人については十人組を組織して、相互監察を強めようとするものであ」り、「犯罪防止のための『五人組』『十人組』編成の指示は、伏見築城に関わって発令された可能性が高い」と指摘されています。
 これらの書状から、三成ら奉行衆が伏見城再建に中心的な役割をはたしていたことがわかります。
 

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