関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2287白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」5

<<   作成日時 : 2018/05/30 17:59   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

江上合戦は、前述の通り、立花宗茂の軍勢と龍造寺家・鍋島家の軍勢との戦いでしたが、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年8月5日頃の時点においては、伊勢方面軍として龍造寺高房・鍋島勝茂隊9800人が参加していました(白峰旬氏「新『関ヶ原合戦』論」【新人物ブックス】所載の「石田・毛利連合軍の諸将と動員人数」『真田家文書』)。
 安藤英男氏編「石田三成のすべて」(新人物往来社)の「西軍武将事典」の「〔付〕初め西軍、後に東軍」の中に「鍋島勝茂」の項に次のような一節があります。
 「関ヶ原役には、初め西軍に属して伏見城攻めに加わり、ついで毛利秀元、長宗我部盛親、吉川広家、長束正家らと伊勢の安濃津城を攻めて陥した。関ヶ原で東西決戦の日には、福島正則の長島城に対する押さえとして、北伊勢の野代に在陣していた。関ヶ原で味方が大敗したと聞くや、東軍に変わって帰国し、父と共に毛利秀包の籠れる久留米城を攻め取り、ついで立花宗茂を柳川城に攻めた」と。
 関ヶ原合戦を境にして、三成方から家康方に寝返ったわけです。
 さて、白峰氏の「慶長5年10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)の中で、感状における着到文言の有無について検討されていますが、着到文言がある感状の一例として、「立花宗茂が、12月2日付で家臣の小野鎮幸に対して出した感状」が取り上げられています。
 その感状の中の「或手負、或戦死之衆、着到銘々令被見感入候」という文言について、「江上合戦の際の『或手負、或戦死之衆』について(立花宗茂へ家臣から出された)『着到』を(立花宗茂が)銘々披見して、これを賞する、という意味である」と説明されています。
 また「この場合の『着到』とは、江上合戦の際に、手負いをした者、戦死した者のリスト(それぞれ人名と被疵〔手負い〕・戦死の種別が記されていると考えられる)を指すと考えられる。その意味では、この場合は『着到』とは、合戦前に提出される着到状というよりは、合戦後に上申された軍忠状に近いものであったということになる」と指摘されています。
 さらに「それを披見して、宗茂は後述する、軍忠一見状(合戦手負注文)を出したのであるが、宗茂が小野鎮幸に対して出した軍忠一見状(合戦手負注文)には宗茂の『袖判』(花押)が据えられている」ことも述べられています。
 他の感状も検討した上で、「感状に着到文言がある事例は立花家中でも大身家臣にほぼ限定されると見なしてよかろう」と指摘されています。またその理由について、次のように考察されています。
 「大身家臣であれば、戦いの際、一定程度の数の麾下の者を率いて参戦したと思われるので、そうした参戦した麾下の者について、その被疵や戦死などの状況を記した『着到』を立花宗茂に出したため、宗茂から出された感状には着到文言が記されたのであろう」と。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2287白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」5 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる