関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2262  中野等氏「石田三成伝」 99 伏見城再築城に関する書状

<<   作成日時 : 2018/05/04 11:14   >>

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 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長2年3月7日付で長盛・正家・三成・玄以、宮部継潤の連署状が取り上げられていることを拙ブログで前述しましたが、この指示に応じた3月10日付の徳川秀忠書状も取り上げられています。この書状は、次のように現代語訳されています。
 「辻切・盗賊人などの件で送達された『御掟』の書き付けならびに御添状、詳らかに拝見し、趣旨を諒解しました。御指示の通り堅く申し付けます」と。
 2月・3月に出された三成等奉行衆の連署状や秀忠書状について、次のように解説されています。
 「秀忠のすみやかな対応から、上方在住であったことが確認される。おそらく他の諸大名と同様に、伏見築城に動員されていたのであろう(中略)。築城に伴って、多くの労働力が伏見やその周辺に殺到することになるが、彼らのなかにはいわゆる無頼の輩も含まれよう。こうした危惧を前提として、治安維持を徹底する目的から、三成ら奉行衆は、彼らの責任として、武家奉公人や下人など諸大名の管下にある者たちの編成を命じたのである」と。
 中野氏の同書には、さらに青木一矩宛の3月26日付の増田長盛・石田三成・前田玄以連署状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。
 「秀吉の御意として書状を送達します。先年聚楽廻りで与えた侍屋敷については、今般すべてを召し上げることとなりました。あなたの屋敷についても早々に明け渡してください」と。
 この連署状について、次のように解説されています。
 「秀吉の意向として、聚楽付近に存在した侍屋敷は、ことごとく没収することとなった。(中略)『侍屋敷、何も被召上(めしあげられ)候』という以上、他の諸大名についてもすみやかな退去命令が出されたことになる。聚楽近辺の武家屋敷の遺構を、再築城する伏見城の用材として転用する意図でだされたものであろう」と。
 ちなみに、三成の屋敷は聚楽第やその周辺にはありませんでした。むろん、政務は聚楽第内で執っていたものと思われますが。大坂城でも、城内には三成の屋敷らしきものはなく、城の北の備前島に屋敷がありました。しかし、伏見城では治部少輔丸という曲輪が与えられましたが、それは他の奉行衆と同様でした。それだけ、奉行衆の地位が上がったという証拠であり、伏見城が政治の中心であったことがわかります。
ちなみに、青木一矩は、秀吉の従兄弟と云われていますが、父方の従兄弟か母方の従兄弟か見解が分かれています。この書状が発せられた時は越前府中に領地を与えられており、後に関ヶ原の戦いの際は越前北ノ庄の城主になっていましたが、三成方に就き、戦後すぐに病死し、領地は没収されてしまいます。

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