関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2264 「特別研究集会」43 奥井氏「伏見城跡調査成果」3 伏見城落城

<<   作成日時 : 2018/05/06 11:01   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていましたが、3期の木幡山伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で、焼失します。この点について、「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表の中で、次のように記されています。
 「慶長5年(1600) 8月 石田三成方の西軍、伏見城を攻め落とす。本丸・松の丸・名護屋丸以下が焼亡」と。
 実際に伏見城が落城したのは8月1日で、その時、三成は大坂城にいました。三成が伏見城攻撃に督戦に来たのは7月29日のことで、30日には大坂城に入っています。
 従来の言い方では、三成方を西軍と呼びますが、私は白峰旬氏の見解に従って、西軍という言い方はふさわしくないと思っており、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」を出して以来、公儀は三成方に移ったと見ていますので、豊臣政権側、豊臣公儀方と表現するようにしています。
 豊臣公儀方の最後の総攻撃の様子については、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」の中で、在京公家・僧侶などの日記の記述をもとに次のように記されています。
 「伏見城の落城に至る最後の総攻撃の状況は、火矢を使用して、松の丸→本丸の月見櫓→千畳敷・櫓→天守というように順番に焼き討ちにして攻めていった。時間的には、子の刻(真夜中の12時頃)に攻め入って、午の刻(昼の12時頃)に焼け果てたとしているので、総攻撃は真夜中に開始され、伏見城の火災は約12時間に及んだことがわかる」と。
 落城の様子については、これも拙ブログで前述したように、次のような記載が白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載についての時系列データベース」の中にあります(抜粋)・
 「城はすべて焼けた」(義演准后日記)
 「六十余州の諸侍が3ヶ年普請に苦労した(伏見)城が、およそ三時(約6時間)ばかりで滅んだ。或いは、金物以下、或いは、結構な道具類もばらはらになった。(こうしたことは)夢の如くである」(同日記)
 「(伏見城は)すべて焼けた」(言経卿記)
 これらの記述からすると、伏見城は大部分焼け落ちたものと思われます。
 奥井氏の報告では、徳川家康が翌年に伏見城を再建し、元和9年(1623)に廃城となるまでが4期だと、説明されていました。「伏見城関連出来事」の年表には、「慶長6年(1601) 3月 伏見城復旧工事開始。家康、大坂城から伏見城に移る」と記されています。もっとも、3月23日に伏見に移った家康が、伏見城復旧までしばらく住んだのは、向島城か家康上屋敷ではなかったでしょうか。

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