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zoom RSS 三成の実像2265 「特別研究集会」44 奥井氏「伏見城跡調査成果」4 指月伏見城の石垣

<<   作成日時 : 2018/05/07 10:34   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、私が2015年に行われた現地説明会に参加した発掘調査についても、説明されていました。それは最初の伏見城である指月伏見城内の発掘調査です。この現地説明会については、拙ブログで前述しましたが、奥井氏の報告では「寺沢広高の屋敷地推定地」であり、「西面する石垣(東側の石垣)と東面する石垣(西側の石垣)の2時期の石垣などを確認」したと説明されていました。2時期というのは、指月伏見城の時代と木幡山伏見城の時代です。当初の堀を造成した時期の石垣は1期の豊臣期指月屋敷のものですが、その石垣が指月伏見城にも使われたものの、慶長大地震によって当初の堀の機能が停止したこのではないかと推定されていました。従来、指月伏見城時期の石垣は発見されていませんでしたが、初めてそれが発見されたということで、画期的な発見でした。
 3期の木幡山伏見城の時期に堀跡の埋め戻しが行われましたが、この時期に規模の小さな堀が改めて築かれて、武家屋敷の境の堀が造られた可能性があるとも指摘されていました。もっとも、屋敷の境の堀が造られたのは徳川期木幡山城期の可能性もあるとのことでした。武家屋敷拡大に伴い堀が埋め立てられ新たな石垣が造られ、それも発掘調査で発見されたわけです。山田邦和氏作成の豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図によると、この発掘調査が行われた場所には、確かに寺沢広高の屋敷がありました。
 2016年にもっと大規模な指月伏見城時期の石垣が発見されましたが、この発掘調査について、奥井氏の報告では次のように説明されていました。
 「東面する石垣と堀を確認。石垣は最大7段の石が残存し、長さ14.5メートル以上、高さ2.8メートル以上。濠底には水成堆積を確認し、最終埋没土からは、多量の土器・陶磁器類の他、木製品、瓦なども多数出土」(特別研究集会資料集)と。
 この発掘調査が行われた場所は、上述の調査が行われた場所の西に当たり、一番西の部分は、南北の大和街道(国道24号線)に面しています。上記の山田氏作成の城下町推定復元図によると、山中長俊屋敷の周辺になります。
 その北側の、指月伏見城の北西隅に当たる場所の発掘調査についても、次のように報告されていました。
 「山中山城守長俊の屋敷地推定地。国道24号線と立売通の南東交差点付近で石垣の北西隅を確認する。指月城に関連する石垣の北西隅と考えられる」と。
 指月伏見城があった北西隅の土地が、木幡山に新たな伏見城が建った時、山中長俊に与えられたわけです。

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