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zoom RSS 三成の実像2266 「特別研究集会」45 奥井氏「伏見城跡調査成果」5 指月伏見城の北側

<<   作成日時 : 2018/05/08 11:11   >>

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 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、指月伏見城のすぐ外側の地点の調査結果も説明されていました。
 指月伏見城の北側の、東西の真ん中付近の地点(JR桃山駅の南に当たります)の調査結果について、次のように記されています。
 「浅野但馬守の屋敷地と商家街推定地。大名屋敷の南端部と立売の商家とみられる建物跡〔礎石群〕を確認。また火災に伴う焼土層を挟んで、桃山時代の遺構面を2面確認。築地状遺構を境に南北で様相が異なる。下層南側で大規模な落ち込みを確認」と。 
浅野但馬守は浅野長晟(ながあきら)のことであり、浅野長政の子で、幸長の弟に当たります。後に幸長が亡くなったため、家督を継ぎ、和歌山藩の藩主になります。豊臣期木幡山伏見城下町推定復元図(山田邦和氏作成)では、この場所は確かに浅野長晟の屋敷地になっています。「大規模な落ち込み」は堀に当たるのでしょうか。もしそうなら、伏見城を堀が取り囲んでいた可能性もあるような気がします。 
 その東側の地点でも発掘調査が行われていますが、その調査結果は次のように記されています。
 「立売通の路面と北側溝、立売通に面した町家、町家と武家屋敷の境界を示す石垣の痕跡を確認」と。
 ここは上記の伏見城下町推定復元図では、浅野幸長の屋敷跡に当たります。その復元図では、立売通の両側は町屋の地域になっており、そのすぐ北側に西から鍋島勝茂、浅野長晟、浅野幸長などの屋敷が立ち並んでいました。通りの南に面する町屋の地域の南側にも武家屋敷がありました。
 JR桃山駅の北側の前田利長の屋敷地推定地でも発掘調査が行われ、その結果について次のように記されています。
 「屋敷内上段に位置する。直径1.8〜2.1メートルと直径0.8〜1.0の壺堀地業を伴う構造物と伏見城期の大規模造成土を確認。地山は確認できず」と。
 前田利長の屋敷のすぐ隣が父の前田利家の屋敷ですが、指月伏見城のすぐ北にあり、すぐ登城できる位置にありました。再建された木幡山伏見城でも、大手筋に面していましたから、東に歩くと大手門から城に入れました。
 二人の屋敷が隣り合っていたことについては、前田利家の小姓村井勘十郎の「利家夜話」に記載があることが、寒川旭氏の「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)に記されています。
 すなわち、「地震の時には、大納言殿(前田利家)と越前守殿(長男利長)の屋敷が上下に隣り合っていたが、地震の直後に庭に出て、互いに声をかけ合った」と。
 また「利家夜話」には、利家は小姓を城に遣わして秀吉の安否を確かめた後、「その日、利家が一人で城に出かけると、秀吉は機嫌が良く、抱いていた秀頼を利家に渡した」という記載があることも記されています。

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