関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2267 「特別研究集会」46 奥井氏「伏見城跡調査成果」6 毛利輝元屋敷跡

<<   作成日時 : 2018/05/09 11:15   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 伏見城下の三成上屋敷や下屋敷の発掘調査もしてほしいところですが、私有地などの問題もあって、なかなか難しいのかもしれません。伏見城内にあった治部少輔丸は、現在は桃山御陵内にあるので発掘調査は無理でしょうが、それでも本丸跡にある明治天皇陵とは距離的に離れているので、できないことはないと思うのですが。
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、府立桃山高校構内の発掘調査についても述べられていました。
 「毛利安芸守の上屋敷や蜂須賀阿波守の屋敷地推定地。安土・桃山時代の大規模な礎石建物が検出。調査地西半分で最大2メートルの大規模な造成土と、遺構面を2面確認。屋敷地の西側には、南北方向の石垣や堀が想定され、これに伴う大規模造成土の一部が確認されたものといえる」(特別研究集会資料集)と。
 毛利安芸守は毛利輝元、蜂須賀阿波守は蜂須賀家政のことですが、豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図(山田邦和氏作成)によると、毛利輝元上屋敷のすぐ南に蜂須賀家政の屋敷があり、毛利輝元上屋敷のすぐ西隣に毛利輝元下屋敷があります。
 屋敷に石垣や堀があったということであれば、防備も備えた本格的なものであったことがわかります。慶長4年に起こった七将による石田三成襲撃事件の際は、三成は伏見城内の治部少輔丸の屋敷にたてこもり、毛利輝元らと結んで、七将に対する反撃計画がありましたから、その時は毛利輝元屋敷も緊迫した状況にあったのに違いありません。毛利輝元屋敷は治部少輔丸の500メートル程西にありましたし、蜂須賀家政の屋敷が輝元上屋敷のすぐ南にあったことに加えて、毛利輝元下屋敷のすぐ北が七将の一人である福島正則屋敷がありましたから、余計緊張感は走っていたでしょう。
 この調査地の北北東の位置にある伏見区島津で行われた発掘調査について、奥井氏の報告では次のように説明されていました。
 「島津右馬頭〔初代佐土原藩主 島津以久〕の屋敷地推定地。伊達街道に西面する石垣と、屋敷地内の雛段造成に伴う石垣の抜き取り痕跡を確認。丘陵緩斜面地に対して、雛段状の造成を行う。平坦面を造成するに際して、厚さ0.3〜0.5メートルの土を入れ、上面には化粧土として灰白色砂土が敷かれる」と。
島津以久は、大隅国の清水城主でしたが、天正19年に種子島に移ります。豊臣期木幡山伏見城の城下町推定復元図(山田邦和氏作成)には、島津以久の屋敷は掲載されていません。徳川期になって作られたのか、最近の研究成果によって、豊臣期から存在したことが明らかになったのかはよくわかりません。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2267 「特別研究集会」46 奥井氏「伏見城跡調査成果」6 毛利輝元屋敷跡 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる