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zoom RSS 三成の実像2298 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」4 一番首

<<   作成日時 : 2018/06/10 10:23   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 C「その途中、藤堂新七郎(藤堂高虎の家臣・藤堂良勝)は先手の上方衆の軍勢にまぎれて、『あさがけの首』を取ったが、これは『諸手一番首』であった」という要点について、次のように指摘されています。
 「この話は、藤堂新七郎が藤堂隊から単独で離れて先行し、抜け駆けをして敵の首を取った、という意味なのであろう。とすれば、この時点(9月15日早朝)ですでに敵(石田方の軍勢)と遭遇していたことを示している」と。
 D「そのため、高橋金右衛門(藤堂高虎の家臣ヵ)にこの首を持たせて家康へ進上した」という要点について、次のように指摘されています。
 「9月15日早朝の時点で家康自身も関ヶ原に出陣していたことを証左になる」と。
 家康が関ヶ原に出陣したというのは当然のことのように一般的には認識されていますが、高橋陽介氏はBSーTBSの番組「諸説あり 関ヶ原の戦い 第二弾」では、家康は赤坂にいたまま関ヶ原の桃配山には出陣していなかったという新見解を示されていました。その根拠として2つ挙げられていました。一つは、9月17日付の吉川広家自筆書状案の中で、関ヶ原方面に向かった家康方の先陣は福島正則、黒田長政、加藤嘉明、藤堂高虎と記されており、徳川家の武将や家康の名前はないこと、「舜旧記」にも、先陣は福島正則、細川忠興、加藤嘉明と記され、徳川勢の名前はないこと。もう一つは「慶長年中ト斎記」の中に、南宮山の毛利勢と田中吉政の小競り合いを家康を見ていたという記述があるものの、桃配山からはその小競り合いは見えず、赤坂から見ていたと考えられること。
 「藤堂家覚書」の記述は、こういう家康の居所に関する高橋氏の見解を打ち消すもので、家康が関ヶ原方面に出陣していたかどうかは、なお検討が必要だと思われます。
 「慶長年中ト斎記」に関しても、後年に記されたものですから、その記述は正しいかどうかも検証が要ります。「ト斎記」には三成方の関ヶ原方面の転進は、秀秋の「謀反」のためだったと記されていますが、このことについても検証が必要かもしれません。
 藤堂新七郎が討ち取った首というのは、どの隊の者でしょうか。「藤堂家覚書」のこの後の記述には、「藤堂高虎は大谷吉継、脇坂安治、小川祐忠、平塚為広の四人の部将の軍勢と戦った」とありますから、このいずれかの隊の者だったのでしょう。白峰氏の見解によれば、三成隊ら本隊は山中に布陣していましたから、新七郎が「抜け駆け」をして首を取ったのは関ヶ原エリアであったと思われます。

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