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zoom RSS 三成の実像2299 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」5 脇坂らの裏切りに関与?

<<   作成日時 : 2018/06/11 10:37   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 E「その後、藤堂高虎は大谷吉継、脇坂安治、小川祐忠、平塚為広の四人の部将の軍勢と戦ったが、脇坂安治と小川祐忠は高虎の事前の調略によって石田方を裏切った。」
 F「そのため、藤堂高虎は大谷吉継の軍勢と一線をおこなうことになった。」
 こういう記載内容の要点について、次のように指摘されています。
 「9月15日早朝の時点で、関ヶ原を戦場として、家康方の藤堂高虎は石田方の大谷吉継が戦ったことが明確にわかる。そして、石田方でありながら裏切った部将として、脇坂安治と小川祐忠の名前を記しているが、通説で同じく裏切った部将とされている赤座直保、朽木元綱の名前は記されていない点は注意すべきであろう。脇坂安治と小川祐忠の裏切りについては、藤堂高虎の調略によるものとしているが、この点に関しての真偽は不明である」と。
 「藤堂家覚書」の記載からすると、脇坂も小川も関ヶ原エリアにいたことになります。また通説では脇坂や小川は最初は傍観していたとされていますが、この記載が正しいとすると、最初は藤堂隊と戦い、その後、三成方を裏切ったことになります。
 以前にも拙ブログでも取り上げましたが、2015年に開かれた「大関ヶ原展」で、8月1日付で脇坂安治の息子の安元に宛てた家康書状が展示され、図録に次のように解説されています。
 「本状によると、脇坂安治は上杉攻めに向かう徳川方の軍勢に息子の安元を参陣させようとしたが、石田三成に阻まれてかなわず、やむなく引き返して石田方の武将と行動をともにしたことを、徳川家康が山岡道阿弥(景友)を通じて聞いた旨が記されている。家康は脇阪父子に対して備えを固くするよう指示している。
 (中略)合戦後、小川・赤座らが改易されたのに対し、脇坂家は本状によって所領を安堵される。本状は脇坂家が当初から家康とよしみを通じていたことを示す重大な書状であり、御家存続をなし得た家宝として、今も脇坂家で大切に保管されている」と。
 脇坂と小川の戦後の扱いの違いは、こういう書状の有無が大きかったのかもしれません。もっとも、赤座も改易されているのに対して、朽木は本領を安堵されましたから、こういう戦後処理の違いがどのようなことから生じているのかについてや、「藤堂家覚書」に彼らの記載がないことについては、今後の検討課題だと思われます。彼らの裏切りに藤堂高虎が関与していたかについても同様です。
 

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