関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2302 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」8 大谷を攻めたのは南宮山下

<<   作成日時 : 2018/06/14 11:05   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 K「家康は藤堂高虎の忠節に対して、帰陣の後、褒賞として伊予半国を与えて高虎は合計20万3千石になった」という要点について、次のように記されています。
 「『内閣文庫蔵諸侯年表』における『津・藤堂家』の項によれば、藤堂高虎は慶長3年(1598)に伊予国において1万石を加封されて合計8万石になり、慶長5年10月18日に12万石を加封され伊予半国を与えられて合計20万石になった、という記載内容と合致する(ただし、3千石の誤差はある)」と。
 白峰氏の同論考には、「藤堂姓諸家等家譜集」における「藤堂新七郎家」(藤堂良勝)の記載が取り上げられ、その内容について次のように指摘されています。
 「藤堂新七郎(藤堂良勝)が『あさがけの首』を取った話は記されていない。しかし、藤堂高虎の軍勢が大谷吉継と戦ったことがわかり、大谷吉継を攻めた場所(位置)について『関ヶ原』=『南宮山下』としている点は注目される。つまり、大谷吉継が布陣した場所は『関ヶ原』であり、位置的には『南宮山』の下としているので、石田方の諸将が布陣した山中でなかったことは明白である」と。
 大谷隊が南宮山下の関ヶ原に布陣したというこの史料通りだとするなら、大谷隊が現在の松尾の不破関資料館付近に布陣したとする高橋陽介氏の説とは異なります。高橋氏の説では、大谷隊の陣のすぐ西側に三成隊や宇喜多隊・大西隊が布陣したとされていますが、白峰氏の説では、大谷隊は関ヶ原、三成ら本隊は山中と、布陣した場所が全く違います。
 大谷隊が石田方本隊の一番東に布陣した理由について、高橋説によると、大垣から一番最後に移動したからだとされています。通説では、大谷隊は北陸方面から移動し、9月3日頃、山中に布陣したとされていますが、高橋説では、大谷隊は大垣城にいて三成方軍勢の主力本隊と共に関ヶ原へ転進したと主張されています。一方、白峰氏の見解では、大谷隊は三成方軍勢の主力本隊と合流せずに、大谷隊だけが東方に進出しすぎて、関ヶ原エリアにいたため、家康方軍勢の攻撃を最初に受け、さらに背面より小早川秀秋にも攻められて壊滅したと主張されています。もっとも、大谷隊が9月15日までどこにいたのかという問題や9月15日に実際どこに布陣したのかという問題は今後再検討すべき課題だいうことも示されています。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2302 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」8 大谷を攻めたのは南宮山下 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる