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zoom RSS 三成の実像2303 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」9 湯浅五助の討死

<<   作成日時 : 2018/06/15 10:32   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の 中で、「藤堂家覚書」にも「藤堂姓諸家等家譜集」にも、藤堂仁右衛門(藤堂高刑)が大谷吉継家臣の湯浅五助を討ち取ったという記載があるものの、後者の方がより具体的なことが記載されていることが明らかにされ、その部分が引用されています。
 高刑が馬上の五助に弓を射かけさせ槍で三十合戦い、馬より落とし、地に伏した五助を三四回刺して首を討ち取って、献上すると、家康は「五助は天下の硬漢、誰が之を獲ったか」と訊くと、高虎は実況を具申し、家康が称嘆したというような内容です。
 この話には、五助が吉継の首を埋めて隠したとか、どこに隠したのか訊かれたのを答えなかったことを家康がほめたという、広く知れ渡っている話は出てきません。後で潤色された可能性もあるのかもしれません。
 白峰氏の同論考の「おわりに」として、全体のまとめが記されていますが、その最初に次のようなことが書かれています。
 「『藤堂家覚書』の関ヶ原の戦い(本戦)に関する記載内容から、9月15日早朝に家康方の藤堂高虎と石田方の大谷吉継が戦ったことが明確になった。そして、家康家臣の村越兵庫の討死の記載から、9月15日早朝に徳川本隊も関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったことがわかる」と。
 藤堂隊が大谷隊と戦ったこと、家康本隊も関ヶ原に来ていたというのは通説通りですが、その戦いの場所が山中ではなく、関ヶ原であったという白峰氏の見解を、「藤堂家覚書」の記載が裏付けているわけです。
 まとめには、「また、『藤堂姓諸家等家譜集』など藤堂家の関係史料により、藤堂玄蕃の討死の状況から考えると、藤堂高虎はその後、山中へ転戦して、石田三成と戦ったことがわかる」と記されていますが、藤堂高虎が三成と戦ったとするのは、白峰氏の新見解です。
 このことに関して、「藤堂高虎は先手の上方衆の一人であったことから、藤堂高虎と同様に、関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったあと、山中へ転戦して石田三成の軍勢と戦った他の部将(先手の上方衆)もいた可能性が考えられるが、この点の検討は今後の課題としたい」と指摘されています。
 他の家康方の豊臣方恩顧の武将たちが、山中に転戦していたとするなら、福島正則も三成隊と戦った可能性もあるわけで、そうだったのかどうか今後の研究に期待したいと思います。前にも拙ブログで述べたことですが、大河ドラマ「天地人」では、正則が三成のところに乗り込んできたという描き方がされており、それはおかしいということを述べましたが、それは通説に従っての見解であり、三成が笹尾山に布陣していなかったとすれば、全く見方が変わってきます。

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