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zoom RSS 三成の実像2304 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」10 秀秋の裏切りの記載なし

<<   作成日時 : 2018/06/16 10:14   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の最後は次のように結ばれています。
 「『藤堂家覚書』の関ヶ原の戦い(本戦)」に関する記載部分には、小早川秀秋の裏切りについての記載がないが、この点の理由の検討についても今後の課題としたい」と。
 「藤堂家覚書」は、藤堂家家臣の働きを記載するのが中心でしたから、秀秋の裏切りによって勝利がもたらされたという事実には触れたくなかったのかもしれません。このあたりは今後の研究に俟ちたいと思います。
 通説では、秀秋は正午前後に裏切ったとされていますが、白峰氏や高橋陽介氏は一次史料の分析によって最初から裏切ったという見解を示されています。大谷吉継隊が家康方軍勢と秀秋が挟撃されて壊滅したという見解も共通しています。また三成方本隊が布陣したのは山中エリアであったというのも同じです。ただ、大谷隊が布陣した場所については、関ヶ原エリアであったというのが白峰氏の見解、山中の松尾であったというのが高橋の見解です。また三成方が関ヶ原方面に移動した理由について、家康が南宮山を攻めようとしたため、三成方が関ヶ原方面に移動して南宮山の毛利勢と共に家康方を挟撃しようとする作戦を取ろうとしたからであったとするのが白峰氏の見解ですし、秀秋に謀反の動きがあったため、それに備えるためであったというのが高橋氏の見解です。三成方の関ヶ原方面への転進が、松尾山に入った秀秋の怪しい動きを牽制するためであったという見解については、中井俊一郎氏がかねてより主張されており、その見解はオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも掲載されています。
 高橋氏は通説に反して、大谷吉継が大垣城に入城しており、関ヶ原方面に移動する時も一緒だったと主張されていますが、白峰氏はそれに否定的見解を示され、その証左として、8月27日付、9月5日付、9月9日付で大垣城在陣諸将が連署して出した禁制に吉継の署名がないことが挙げられています。
 白峰氏の同論考の「嶋左近」についての「註」には、2015年1月に二通の嶋左近書状が発見されたことが記されています。この書状については、拙ブログでもその時に取り上げましたが、その書状の調査を担当した村井祐樹氏の見解も「註」で紹介されています。すなわち、「その書状から実名が『嶋左近清興(きよおき)』(『島』ではない)であることや、豊臣秀吉に臣従することとなった常陸佐竹氏との交渉に当たっていることがわかった」と。
 またこの二通の嶋左近書状については、「歴史人」2016年11月号、図録「石田三成と西軍の関ヶ原合戦」(長浜市長浜城歴史博物館)に紹介されていることも記されています。

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