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zoom RSS 三成の実像2305 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」1 中央突破でなかった島津退き口

<<   作成日時 : 2018/06/17 10:20   >>

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 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていました(島津氏に関する他氏の新見解も紹介されていましたが、それについては後述します)。すなわち、島津義弘は徳川本陣を中央突破せず、別の形で退却したと。
 その根拠として二点挙げられていました。一つは、圧倒的な兵力差であり、わずかな軍勢しかいない島津勢が大軍の家康本陣に突っ込むのは不合理であり考えにくいという点。島津軍は1500人であるのに対して、家康本陣は3万人を超えており、屈強な島津兵でも突破するのは不可能だったと説明されていました。
 もう一つは、島津家家臣の覚書の記載であり、「神戸五兵衛覚書」では、「猛勢の真ん中へ義弘が入っていった。大敵を討ち捕らえ猛勢の真ん中を切り明けた」と記載されており、「家康本陣」だと書かれていないこと。また「山田晏斎覚書」には、「家康の本陣が見えたので一大事かと思ったが、佐和山方面に動いたので何事もなかった」という記載があること。
 これらの記載から、義弘の部隊は猛勢の中を切り開いた後、家康の本隊を目撃したが、お互いの進路が違ったため、戦わずしてやり過ごしたことがわかり、渡邊氏は、島津の部隊は家康の本陣に向かったかもしれないが、家康本隊の前か後ろをすり抜けて逃げたと説明されていました。
 もっとも、島津退き口が家康本陣の中央突破でなかったとしても、井伊直政や福島正則らの猛将の追撃をかわすため、すさまじい武勇が発揮されたことは確かであり、実際に甥である島津豊久や家老たちが犠牲となって義弘を守り抜き、薩摩に辿り着いた時には、1500人の兵がわずか数十人になるほどの激戦を繰り広げたということも述べられていました。家臣たちの義弘に対するこういう忠誠心は、義弘の行動から生まれていたことも指摘され、そのことを義弘の子孫である島津義秀氏が語られていました。すなわち、義弘は家臣からの人望があつく、義弘は傷ついた侍を膝枕にして傷口に薬を塗ってやると、その侍は傷口が回復して元気になったという話があること、家に伝わっている話では義弘は「金草医術」という、傷口から化膿する破傷風を止める薬を使っていたと聞いていること。また義弘はいくさの際、家臣たちと焚火を囲んで語らい、同じ釜の飯を食べることを好んだこと、家臣に子供が生まれると、その誕生を一緒になって喜んだこと、義弘と家臣たちとの関係はこのように極めて近しいものだったので、義弘が85歳で亡くなった時、家臣13名が殉死したこと、戦国島津の強さは上下関係の厳しさではなく、主君と家臣を結ぶきずなであったかもしれないということも述べられていました。
 

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