関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2306 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」2 中央突破でなかった島津退き口2

<<   作成日時 : 2018/06/18 11:04   >>

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 激しい地震の揺れに見舞われ、ガスの安全装置が働き、停まりました。阪神・淡路大震災の時以来です。詳しい状況が徐々に明らかになっていますが、被害が拡大しないよう願うばかりです。 
 さて、BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていましたが、その後、ゲストで解説者の桐野作人氏がその説について追加解説をされていました。
 すなわち、島津側の史料を見ると、敵の影がすくない時があったが、それは家康側が、宇喜多秀家や三成ら総大将格を攻撃していた時ではないかと思われ、島津勢はその間隙をついて、飛び出して逃げて行ったと。
 また義弘が堺に着いた時には、80名ぐらいになっていたが、それは義弘を守っていた家臣たちの数だけであり、逃げる途中ではぐれた者が多数おり、最終的に故郷に戻ってきたのは半数近くいたことをも、桐野氏は指摘されていました。
 また島津勢は三成方に属したにも関わらず、ほとんど唯一戦後に本領安堵されていることについて、島津が外交術にたけていたこと、地理的に離れていて、家康が攻めにくかったこと、家康方の黒田如水、黒田長政、井伊直政、福島正則らが島津家を助けてほしいと嘆願したが、それほど敵将からも愛されていたこと、その例として朝鮮の役でも撤退する時、最後まで残り、しんがりを務め信頼されたことが挙げられていました。
 番組では、関ヶ原の戦いにおける義弘勢の布陣位置について、通説通りの描き方がされていました。はっきりそうだとことは述べられていませんでしたが、示されていた地図の位置から云えば、三成が陣を置いたとされてきた笹尾山の南に当たるところです。
 しかし、白峰旬氏も高橋陽介氏も島津義弘は関ヶ原ではなく、山中に布陣したという見解が示され、そうなると、島津退き口のルートも異なります。この点について、白峰氏の「通説打破!関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像』2017年10月号所載)には、次のように記されています。
 「高橋陽介氏は、この『島津の退き口』について島津義弘は山中から牧田へと撤退したことを指摘し、通説のイメージにあるような『中央突破』ではなく、『敵中突破』だと指摘されている」と。
 確かに、高橋氏の見解通り、島津隊が関ヶ原の小池ではなく、それよりずっと南に位置する、従来は大谷吉継が陣を置いていたとされる山中に布陣していたとすれば、牧田への撤退はより現実味があったような気がします。島津隊の布陣場所が高橋説の通りなのか、今後のさらなる研究に期待します。
 

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