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zoom RSS 三成の実像2307「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」3 義弘は人心掌握の達人

<<   作成日時 : 2018/06/19 10:02   >>

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 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、「島津義弘は『鬼島津』ではなく人心掌握の達人だった」という太田秀春氏の見解が紹介されていました。
 太田氏は鹿児島国際大学の教授ですが、2002年にオンライン三成会の人々と朝鮮の役の跡を訪ねて韓国に行った時、ソウルで留学中の太田氏とお会いしたことがあります。その時、一緒に夕食を取りながら朝鮮の役や倭城に関するお話をいろいろうかがい、伊達政宗の倭城についての論考など、いくつかいただきました。いかにも新進気鋭の研究者という好印象を受けました。
 さて、太田氏の見解ですが、朝鮮の人々から義弘は鬼島津と呼ばれていなかったと指摘されています。「鬼島津」というのは、江戸時代になってから見られる言葉であり、創作だと思われること、朝鮮出兵から百年以上経過した日本側の史料である「和漢三才図会」に、「島津は異国の人に鬼島津と呼ばれた」という記述があり、それが「鬼島津」の初見であり、朝鮮王朝側が編纂した史料である「宣祖実録」には、「石曼子」(島津)と書かれているものの、「鬼島津」とは記されていないこと、また朝鮮半島では「鬼」と云えば、「幽霊」や「恨みを抱いて死んだ人の霊」という意味であり、「鬼島津」と呼ばれるはずがないことなどが根拠として挙げられていました。
 「鬼」が「幽霊」の意味で用いられるのは、中国でも同じであり、私も漢文の授業で「鬼を売る」という話を教材で取り上げたことがありますが、その場合も「鬼」は「幽霊」の意味でした。
 義弘が人心掌握の達人だったことを示すものとして、義弘が行った還住政策によって朝鮮の住民が城の周りに集まってきて、年貢を納め交易を行い、やがて島津軍に入る者も出て、島津軍の還住政策は一定の効果をおさめたことが挙げられていました。番組では、義弘が治めていた海南県の地図も紹介され、義弘の取った政策が具体的に述べられていました。当初は、海南の人々は島津軍を恐れて周囲の山々に逃走しましたが、そこで義弘は人々を安心させるために、乱暴狼藉を働いた日本人を文書で報告させて罰を与え、次に「島津之人」と書かれた札を配り、この札を持っていれば、危害を加えないことを固く約束したことによって、住民の多くが城下町に戻ったと説明されていました。朝鮮側は日本の三大攻撃目標を定めたが、先鋒となった加藤清正と小西行長に加えて島津義弘が選ばれているので、朝鮮側は相当義弘のことを警戒し叩こうとしていたことがわかると太田氏は指摘されていました。
 還住政策は住民を呼び戻すという秀吉が命じた政策ですが、他の大名の場合はほとんど失敗していたということも述べられていました。
 

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