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zoom RSS 三成の実像2308「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」4 進取の気風が島津の強さ・武者鉄炮

<<   作成日時 : 2018/06/20 00:28   >>

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 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で紹介されていた、「島津義弘は『鬼島津』ではなく人心掌握の達人だった」という太田秀春氏の見解ですが、義弘が人心掌握に成功したのは、異国とのコミュニケーション能力にたけていたためであり、それは義弘の育った環境によるものであると説明されていました。
 戦国時代初頭、薩摩は国際的な貿易港で、朝鮮の人々が住む高麗町があり、「唐湊」などの地名が示す通り、中国との往来がきわめてさかんだったこと、さらに義弘が15歳の時、宣教師のフランシスコ・ザビエルが上陸するなど、国際的な環境で異文化への好奇心がはぐくまれていったこと、実際、義弘が朝鮮半島へ渡った際、朝鮮原産の花々に感動し、シャクヤク、ボタン、ハスなどを日本に持ち帰ったり、またすぐれた陶芸技術を持った朝鮮人の陶工を連れ帰り、それが薩摩焼を生み出したりしたことなど。
 太田氏は、異文化の中から新しいものを取り入れてゆくという「進取の気風」が島津の強さの1つだったと述べられていました。さらに島津の新しいもの好きが、戦い方に生かされていた例として、鉄炮をいち早く取り入れ、馬上の武士までが自在に撃てるほどの訓練を積んでいたということが挙げられていました。
 この太田氏の見解に対して、この時の番組のゲストである桐野作人氏が次のように補足解説されていました。
 島津家では、新しいものに対する好奇心だけではなく、自分たちがいかに有効に活用してゆくかという知的作業をしており、鉄炮の場合で云うと、軍制にきちんと位置づけ、足軽が鉄炮を撃つという他の大名家と違って、島津家では、足軽は鉄炮を撃たず武士が撃つという武者鉄炮という方式を取っており、こういう戦い方がさまざまな戦いで有効に機能していたこと。
 また小さい頃に敵にはさみうちにされた分家に養子に出され、最前線に立たされ、島津4兄弟のうちで一番苦労していること、その中で家臣や家族を大事にすることを身をもって知っている人物であること、愛妻家で現存するだけで20通近く妻に対して書いた書状が残っていること、その書状の中で妻が出てくる夢を見たが、目の前にいるかと思ったがいなかったとか、朝鮮半島で苦労し歯も抜け白髪が増えたため、国に帰ったらあなたは私だとわからないかもしれないとか記していること、義弘には側室がいなかったことなど。
 番組では触れられていませんでしたが、桐野氏の「関ヶ原 島津退き口」(学研新書)の中で、義弘が関ヶ原の戦いで三成方についた理由として、島津家の家督を継いだ自分の息子の忠恒夫人の亀寿の存在が大きく、彼女が人質に取られていたからだと指摘されています。亀寿は義久の三女であり、島津攻めで島津家が秀吉に降伏した時、三成が人質として受け取りに行った女性です。義弘と三成は島津攻め以降、結びつきを深めましたが、亀寿のために三成方に就いたというのは、義弘らしいと云えるかもしれません。

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