関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2309 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」5 九州統一のつもりはなく名誉を守っただけ 

<<   作成日時 : 2018/06/21 19:10   >>

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  BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、「島津家は九州統一をするつもりはなく名誉を守っただけだった」という新名一仁氏の見解が取り上げられていました。すなわち、義久が家督を継いだ時に使命として与えられていたのは、もともとの薩摩・日向・大隅を統一することであり、それ以上戦闘を継続する必要はないというのが義久の考えだったものの、島津家が大友宗麟や龍造寺隆信などを攻め九州統一まで迫ったのは、島津家の名誉メンツを保つためだった、中世の武士にとってメンツを保つというのはなめられたら殺すということであり、それを実践したのが戦国島津家の家風だった、たとえ島津家を上回る軍事力を相手が持っていたとしてもね、名誉を守るために合戦を挑んだと。
 そう考える根拠てして、二つ挙げられていましたが、その一つは島津家家臣の日記の記載であり、「上井覚兼日記」には、お家の名誉を気にする記述があり、「勝部平右衛門聞書」には、他国での評判を重要視する記述があり、これらのことから島津家は領土欲しさではなく、名誉や評判を基準に外交戦略を決めていたことがわかると説明されていました。島津家の敵だった武将が従属した場合、その部将が別の大名から攻められた場合、島津家はメンツをつぶされたと捉え、どんなに強い敵でも戦いを挑み、売られたけんかを買い、それに勝ち続けることで、結果的に九州全土に広がる大勢力になったと。こういうふうになし崩し的に勢力が広がったのが実態だと、新名氏は述べられていました。
 二つ目の根拠は、島津勢の必死の戦術であり、お家の名誉を守るためなら命を捨てることも厭わないという兵が多くいたことが挙げられていました。それを象徴するのが「釣り野伏(のぶ)せ」という危険な戦法であり、まず少数のおとり部隊が前線に出て、敵の本隊に突撃し、敵を挑発しながら撤退し、誘い込んだところで隠れていた伏兵とともに一斉にたたくというもので、おとりの部隊は全滅を覚悟して実際多大な被害を受けるので、当然自己犠牲の精神がないと成り立たない非常に危険な戦法で、名誉のために死ぬのを恐れないと新名氏は説明されていました。それを示すものとして、島津四兄弟の三男歳久が戦いで左腿を貫通する大怪我をした際、「当たり所がよく痛くなかった」という「山本氏日記」の記述、猪に噛まれたが痛くなかったという「上井覚兼日記」の記述、他の日記にも痛くなかった記述が見られることが挙げられ、痛いはずなのにあえて痛くないと言うのは、それが武将個人にとってメンツを保つことだと説明されていました。
 ところで、関ヶ原の戦いの「島津 退き口」に関しては、高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」の中で、「軍記物等に見られる『捨てかまり』・『釣り野伏』といった戦術を一次史料によって確認することはできない」と指摘されています。関ヶ原の戦いの退却戦の際、島津隊がこういう戦術を実際に取ったかどうかは今後の検討課題だと思われます。

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