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zoom RSS 三成の実像2310 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」6 日新斎の「いろは歌」が強靭な精神を培う 

<<   作成日時 : 2018/06/22 15:59   >>

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  BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、「島津家は九州統一をするつもりはなく名誉を守っただけだった」という新名一仁氏の見解が取り上げられていましたが、その続きです。
 戦国島津家が名誉のためなら死をも厭わないという強靭なメンタリティーを持っていたのは、島津四兄弟の祖父の島津日新斎の作った「いろは歌」が大きな影響を与えていたというのが新名氏の考えであり、島津義弘の子孫で精矛(こわしほこ)神社の宮司である島津義秀氏も同様のことを語っておられました。すなわち、「若い時代から歌で覚えさせることで非常に短時間で領土内に流行ったわけです。この子供たちが5年10年するなかでいくさの中で育つと義を守る集団ができ、心が一つになっているということが何よりも最強の島津軍団を形成してゆく」と。
 義秀氏は「いろは歌」の一部を番組で披露されていましたが、「迷悟もどき」という曲名で、「己のエゴを捨てなさい。仏を信ずる心はさらに西方浄土へ悟りの境地へ向かうのである」という内容でしたが、曲調といい歌の中身といい心に沁みるものがありました。
 「当時はいくさの時代で、気持ちが一つにそろわないと全滅するので、一人一人の気持ちがちぐはぐにならないよう己のエゴを捨てなさい。薩摩に対する思い、島津に対する忠誠心が不動になる」と義秀さん自身が解説していました。
 この番組のゲストで解説者の桐野作人氏は、これはらのことに関して、次のようにコメントされていました。
義秀氏が島津四家の一つである加治木島津家の子孫の方で、薩摩琵琶の名手として薩摩では有名であること、中世の人々は自分がどう見られるかを意識しており、いくさの場合でも鉄炮で撃たれても矢が刺さっても痛くないと、部下の前では気丈なところを見せるのが大事で、それが「外聞実儀」ということ、新名氏の見解通り、義久は三州統一でいいと満足していたものの、肥後から援軍要請が来たので、自分の味方になる者を救わないのは外聞に関わることで、それが肥後、筑前、筑後、豊後へという形でどんどんひろがっていったこと、島津家は戦いでくじを活用し、誰といつ戦うかもくじで決め、関ヶ原の戦いの後、誰を跡取りにするかをくじで選び、義弘の息子の忠恒が選ばれ、その血筋が幕末の斉彬にまでつながっていくことなど。
 「いろは歌」については、昨年7月末から8月初めにかけてオンライン三成会の人々と島津攻めの際の三成の足跡を訪ねる旅をしましたが、義久が晩年を過ごした舞鶴城(国分新城)跡に行きました。そこに義久の詠んだ、伊呂波(いろは)歌碑も建っていました。日新斎のいろは歌にあやかったもので、義久の伊呂波歌として次のようなものが碑に刻まれていました(拙ブログでもその時に紹介しましたが)。
 「天道はふたりの親に孝あるをまもるへきとのちかひとそきく」(「へき」は「べき」、「そ」は「ぞ」の意)
 「人のよき人のあしきをみてハわか身をみかくへき鏡ともせよ」(「わか」は「わが」、「みかく」は「みがく」、「へき」は「べき」の意)。


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