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zoom RSS 三成の実像2311 寒川旭氏のインタビュー記事 慶長伏見地震と大阪府北部地震

<<   作成日時 : 2018/06/23 18:48   >>

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 21日の朝日新聞夕刊に、「慶長伏見地震から学ぶものは」という題する、地震考古学者の寒川旭氏のインタビュー記事が載っていました。
 まず今回の大阪府北部地震について、「大阪府周辺の活断層のうち、『有馬ー高槻断層帯』『上町断層帯』『生駒断層帯』の三つが交差する複雑な場所で起きた」と指摘されています。
 1596年の慶長伏見地震については、「このうちの有馬ー高槻断層帯が」「最大級の活動をしていた」こと、「豊臣秀吉が築いた伏見城(京都市伏見区)の天守閣の上半分が崩れ、二ノ丸も倒壊し300人余りが命を失ったとされる」こと、「従来、慶長伏見地震は狭い範囲の地震とみられてきたが、近年、新史料の発見や遺跡の発掘調査が進み、大きな被害をもたらした地震だったことがわかってきた」ことが述べられています。
 その大きな被害の実態については、寒川氏の「秀吉を襲った大地震」(平凡社新書)の中で具体的に記されていますし、拙ブログ記事でも以前取り上げました。
 新聞記事では、その被害について次のように記されています。
 「(6世紀前半の継体天皇の墓の可能性がある)大阪府高槻市の今城塚古墳では墳丘の直下に断層があり、墳丘の7割程度が地滑りを起こしていた。神戸市の須磨寺に残された記録には寺が被害を受け、兵庫の町並みも残らず倒れて燃えたと記される。淡路島でも洲本城が崩壊するなど広い範囲で被害があったようだ」と。
 今回の地震でも、被害は広範囲に及びましたが、慶長伏見地震の被害はさらに深刻なものがありました。当時はそれほど耐震化がはかられていませんでしたから、当然と云えるかもしれません。今回の地震で、伏見城跡付近の被害としては、模擬天守である伏見桃山城の瓦が一部落ちましたが、その程度で済みました。
 慶長伏見地震で、謹慎していた加藤清正が、兵を引き連れていち早く登城したのを、秀吉がほめ、謹慎を解いたという「地震加藤」の話は有名ですが、創作だという見解が、鳥津亮二氏らによって示されています。地震前後に清正が謹慎中だったという事実は一次史料には見られないこと、その原因とされる清正が三成の讒言によって朝鮮半島から引き戻されたことについても、和平交渉のために日本に戻されたのであって、三成が讒言したわけではないこと、地震が起こった時に、清正が兵を連れて登城することは謀反と見なされ考えにくいこと、地震が起こった時には、清正は京か大坂で明の勅使を迎える準備をしていたと思われることなど。
 三成自身も地震の直前、堺で明の勅使の接待に当たっており、地震の時には伏見にいなかった可能性もあります。むろん、その場合もすぐに伏見に戻っているはずですし、実際、復旧に当たっています。

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