関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2312 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」2 谷徹也氏「総論」2 名前と花押

<<   作成日時 : 2018/06/25 18:50   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「石田三成の人物像」では、三成の名前について考察が加えられています。
 まず読み方については、「江戸時代から『ミツナリ』と『カズシゲ』の二説が存在した」が、「若い時の署名が『三也』であることから、『成』は『也』と共通する『ナリ』と読むのが妥当だと考えられている」(渡辺世祐氏『稿本石田三成』)、「『三』の方はというと、三成から偏諱をもらったと思われる相馬三胤が関ヶ原の戦いの後に『蜜胤』と改名していることが注目され、こちらも『ミツ』と読む可能性が高い」と指摘されています。
 実名が「三也」から「三成」に変わった時期について、谷氏の同書では、次のように指摘されています。
 「ある時点で『三也』から『三成』に切り替えたわけではなく、当初は音の通じる『也』と『成』を併用しており、天正13年下旬以降にそれらを『三成』に統一したと考えるのが現状では妥当と思われる」と。
 このことについて、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)では、賤ケ岳の戦いの直前の、天正11年3月13日付の、諜報活動を命じた称名寺宛ての書状では「三也」と記しているのに対して、同年8月付の仙石秀久宛ての書状では、「三成」と署名していることから、「『三也』から『三成』への改名は、天正11年4月の賤ケ岳合戦直後のようである」と記されています。
 この太田氏の指摘は谷氏の同書でも触れられていますが、「天正13年9月段階でも『三也』との署名が確認できる」と指摘され、その書状は「巻末の石田三成発給文書目録稿を参照するとわかるように」と記されている通り、9月11日付の二通の連署状です。
 三成の花押についても言及されています。「最初期の三成発給文書に見られる花押型は、中央部横線が跳ねない点において、後の三成の花押型とは区別することができる。よって、前者をT@型とし、後者をTA型とする。T@型の終見は(天正11年)6月28日付の書状であり、TA型の初見は(天正13年)3月11日付の書状である。この後、中央左下部の特記が下方向に貫通するという細部変化が生じるためこれをTAa型とするが、TA型との境界の時期(天正17年3月〜11月)には微妙な例が数点見られ、TAa型が支配的になった後(同年11月〜)も僅かながらTA型花押の存在が確認できるため、年代確定の基準としてはやや正確さを欠く」と指摘されています。
 天正13年3月11日といえば、三成が雑賀攻めに従軍する直前であり、また天正17年は北条攻めの前年で、三成の島津家や上杉家との取次、関東の武将たちとの書状のやり取り、美濃国への検地などに当たっています。花押の変化が、三成の地位の変化に応じたものかどうかは、今後の検討課題だと思われます。

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