関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2313 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」3 谷徹也氏「総論」3 伏見の三成屋敷

<<   作成日時 : 2018/06/26 19:02   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「石田三成の人物像」では、三成の屋敷についても考察が加えられています。
 三成は、大坂城、聚楽第、伏見城それぞれの近辺に屋敷を与えられていたと述べられていますが、聚楽第の屋敷についてはどこにあっかのかなどという具体的な言及がありません。私自身は、聚楽第付近には、三成は屋敷を持っていなかったのではないかと思っています。聚楽第周辺に三成の屋敷があったという形跡がないからです。むろん、聚楽第の中で、三成は秀吉に近侍して政務は執っていたでしょうが。聚楽第の三成屋敷については今後検討すべき課題だと思われます。
 谷氏の同書には、伏見の三成屋敷は、木幡山伏見城の本丸の西にあった「治部少丸」という曲輪、郭外の南部に下屋敷があったと記されています。郭外の南部の下屋敷というのは、家康の上屋敷の南に隣接したもので、私は上屋敷ではなかったかと思っています。三成の下屋敷は、伏見城のずっと西側の、現在「治部町」と呼ばれる場所にありました。この屋敷のことは、谷氏の同書では触れられていません。
 「治部少丸」については、谷氏の同書で、次のようなことが記されています。
 すなわち、「慶長3年5月の大雨によって、『石治南の石かけ(石垣)』が崩れており、矢部健太郎氏はこうした脆弱性から、伏見城は権威の象徴であり、戦闘を想定した城ではなかったと評価している。ただし、その構造からは、軍事的要素も多分にうかがいうる。『治部少丸』は元和元年(1619)の伏見城破却時にも同様に呼ばれており、石垣の一部は藤堂高虎に下げ渡された」と。
 矢部氏の見解に反して、伏見城が単に「権威の象徴」ではなく、堅固な城だったということは、次のような点から云えるような気がします。
 北に巨大が堀があったということ、七将による石田三成襲撃事件の際、三成は「治部少丸」に立てこもって反撃しようとしていたこと、関ヶ原の戦いの前哨戦である三成方による伏見城攻めの際、なかなか落ちなかったこと(三成方の士気が高くなかったということもあるのかもしれませんが)。
 治部少丸の名前が、関ヶ原の戦いの後、抹殺されることなく、伏見城廃城時にも残ったことから、現在でもこの付近の地を「治部少丸」と呼んでいるのでしょう。「治部少丸」の石垣の一部が藤堂高虎に下げ渡されたという記述が、元和5年に比定される11月16日付の藤堂高虎書状にあることが、谷氏の同書の「註」に記されています。

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