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zoom RSS 三成の実像2315 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」5 谷徹也氏「総論」5 「宗湛日記」の扱い

<<   作成日時 : 2018/06/28 15:50   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「石田三成の人物像」に、「茶会記・演能記録にみえる三成・正澄」と題する表が掲載されていることを、昨日付の拙ブログ記事で記しましたが、その典拠の一つに、「神屋宗湛茶会日記」が取り上げられているものの、その記載内容については、取捨選択されています。
 「神屋宗湛茶会日記」は、博多の豪商の神屋宗湛が記したものですが、宗湛と三成は親しい関係にあり、共に博多復興に尽力しています。この日記について、谷氏の同書では次のように指摘されています。
 「中野氏の『石田三成の居所と行動』では採用していない。その理由は、『宗湛日記』の史料的価値について疑問が多いことにある」こと、芳賀幸四郎氏は「豊臣秀長・秀保や山中長俊・石田正澄などの呼称が遡及して記されていることを指摘し、同書には後に手が加えられていると見做した。また、天正20年の名護屋への出陣以前に石田三成らを饗応したという記事や小早川秀俊(秀秋)の祝言の日程が誤っている点などを大きな疑問として、宗湛の記憶違いや後世の作為とみている。なお、文禄2年5月にも名護屋で三成らに振舞をしたとされるが、三成はこのときには釜山にいるため、明白な謝りである。よって同書は扱いに注意すべき史料であり、そのままでは利用し難いのが現状である」こと。
 私が「宗湛日記」の記述に疑問を持ったのは、千利休切腹事件の直前に、三成らが博多にいて宗湛の茶会に臨んでいたという記述です。この記述について、白川亨氏の「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で次のように紹介されています。
 「卯2月5日朝(天正19年) 宗湛数奇
  一、増田右衛門(長盛)殿、石田治部(三成)殿、大谷刑部殿」
 「卯2月11日晩        宗湛数奇
  一、備前宰相(宇喜多秀家)、御相伴五人」
 こういうことから、白川氏の同書では、三成は「3月初旬でなければ、大坂城に帰着できないであろう。恐らくその後、肥前名護屋に赴いたであろうから、3月下旬以降でなければ帰坂できない、三成には完全なアリバイが成立する」と指摘されています。
 一方、中野氏の「石田三成の居所と行動」(思文閣出版)の中で、「時慶記」の記述から「2月中旬までには帰京していたようである」と指摘されています。「宗湛日記」の記述が間違いであることがわかりますが、いずれにせよ、三成が利休の木像のことなどが問題になった時には、上方にはおらず、関東にいましたから、三成が利休事件を画策したとは考えられません。

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