関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2316 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」6 谷徹也氏「総論」6 千利休事件

<<   作成日時 : 2018/06/29 12:09   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「豊臣政権における石田三成」の中で、千利休事件についても言及されています。
 昨日付の拙ブログ記事に記したように、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(思文閣出版)の中で、「時慶記」の記述から天正19年「2月中旬までには帰京していたようである」と指摘されています。大徳寺の利休の木像のことが問題になった時期について、川口素生氏の「千利休101の謎」(PHP文庫)の中で、次のように記されています。
 すなわち、「山門に安置された木像が雪駄履きであったことから、天正19年の年初頃から利休を批判する声が巻き起こります」と。
 この頃には、三成は上方にはおらず、東北の一揆の鎮圧に赴き、その帰りでしたから、三成が利休事件を画策できるはずがありません。しかも、大徳寺の春屋宗園は三成の参禅の師でしたから、三成自身が自ら進んで大徳寺を罪に問うようなことをしたとは考えられません。
 もっとも、利休が堺に追放されたのは2月13日のことであり、この時には三成は上方に戻っていた可能性はあります。利休が京の聚楽屋敷に戻されたのは2月26日であり、切腹されられたと伝わるのは2月28日のことですから、このことに三成が関わっていたということはありえますが、あくまで秀吉の命令を受けてのことだと思われます。
 谷氏の同書でも取り上げられていますが、利休事件に三成が関与しているとの噂があることを示す「兼見卿記」の天正19年3月8日条の有名な記述があります。すなわち、「3月8日には、利休の妻(宗恩)と娘が三成に蛇責めの拷問を受け、絶命したとする噂が京都で広まっている」と。
 実際は宗恩は生き残っています(そのことは谷氏の同書でも触れられています)し、川口氏の同書では「蛇責め云々とは到底事実とは思えません」と指摘されています。
 谷氏の同書には、この噂に関連して、京都町人の木下宗固の島津氏に宛てた書状が新たな史料として掲載されています。その内容に関して、「宗恩は三成に、三名の娘は万代屋宗安室が小西行長に、紹悦室が玄以に、もう一人が福原長堯に預けられて糺明を受けた。理由は大徳寺の和尚たちが逃げたためと記されており、その事情を知っているものと見做されたのであろう」と記されています。
 大徳寺については、「大徳寺の長老衆は、2月25日に利休の首と木像が聚楽大橋に架けられた時点で、同罪として磔刑にされるべきところを、大政所と秀長後室の取り成しによって助命されていた」と指摘されています。大徳寺を許すことは、大徳寺に恩義を感じている三成にとっても同じであったでしょうし、三成が大徳寺のために尽力したことは容易に想像がつきます。そうでなければ、関ヶ原の戦いの後、三成が処刑された後、遺骸を大徳寺が引き取ることはしなかったに違いありません。利休事件に関しても、三成は秀吉と利休・大徳寺の間で板挟みになって苦労していたのではないでしょうか。


 

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