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zoom RSS 三成の実像2317 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」7 谷徹也氏「総論」7 千利休事件2

<<   作成日時 : 2018/06/30 11:53   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「豊臣政権における石田三成」の中で、千利休事件について、島津氏に宛てた京都町人の木下宗固の書状が新たな史料として掲載されていることは前述しました。その中に「宗恩は三成に、三名の娘は万代屋宗安室が小西行長に、紹悦室が玄以に、もう一人が福原長堯に預けられて糺明を受けた」という記述があること、及び「兼見卿記」に三成が利休の妻子に蛇責めを行って殺したとする噂について、次のようなことも指摘されています。
 「福原長堯は三成の妹婿であり、三成関係者が中心となって事件に対処した」、「兼見卿記」に記されている噂について、「妻子の拷問が全て三成によって行われ、実際にはその後も存命した宗恩らが死んだと尾鰭が付いていることには注意が必要である。秀吉による処罰を快く思わない人物が少なからず存在し、そうした悪評の代表者として三成の名が真実味をもって語られたことは確かと言える。ここから、当時の人々に共有されていた三成像の一端を知ることができよう」と。
 これらの史料から見る限り、三成が事件の糾明に当たったのは確かだと思われます。奉行として秀吉の命令を受けて事の対応に当たったことから、悪いことをしたのは三成だという噂が広がったと言うことも考えられます。さまざまなことに対して、秀吉の命令を受けて厳しい態度で臨んだことから、三成が冷徹な人物だと捉えられたという面があったことも否定できません。しかし、三成は秀吉の命令を忠実に実行したわけではなく、自分の裁量で救いの手を差し伸べてもいます。こういう見解は、谷氏の同書で、利休事件の他にも、古渓宗陳の失脚、天満本願寺牢人事件、秀次事件、二十六聖人殉教について詳しく論じられた後のまとめとして示されていますが、このことは改めて後述します。
 利休事件前後の三成の動きについて見てみますと、前年の天正18年11月12日に、利休は三成・佐竹義宣・万代屋宗安を招いて茶会を開いていますし、その1ヶ月後には利休は三成の兄の正澄を茶会に招いていますから、この時点で利休と三成の関係は悪かったとは考えられません。
 年末に東北で一揆が起こったという報が入り、三成は12月16日、急遽、東北に向けて出発します。三成が上方に戻ってきたのは翌年の2月中旬であり、その間に、利休の理解者であった豊臣秀長が亡くなり、利休への糾弾が始まりました。利休事件の原因は未だに特定されていませんが、大徳寺の山門の利休の木像も問題になったのは確かです。三成は上方に戻って来て、利休への糾弾が始まっていることに大いなる衝撃を受けたのではないでしょうか。しかも、大徳寺は三成と関係の深い寺ですし、その後、三成は秀吉の命令のもと、事件関係者への尋問を続けながら大徳寺に迷惑がかからないように努めたように思われます。

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