関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2293 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」6 従来通りの関ヶ原の戦いの描き方

<<   作成日時 : 2018/06/05 11:50   >>

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 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、関ヶ原の戦いの経緯は今までの通説通りの描き方でした。すなわち、戦いが始まって三時間、一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋が裏切り、さらに脇坂、赤座、朽木らも裏切ったことから、三成方は総崩れになり、戦いは六時間で終わったというふうに。これに対して、白峰旬氏によって秀秋は開戦当初から裏切り、戦いはもっと短い時間で決着がついたという見解が示されていますし、高橋陽介氏も同意されています。しかも、戦いの主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったという説も唱えられています。
 三成が処刑される前、湯を求めたところ、それがなく、その代わりに柿が差し出されたものの、三成は「柿はたんの毒ゆえ、要らぬ」と断ったのに対して、警護の者が「何を申す。もうすぐ首を斬られる者が毒を気にしてどうする」と言って笑った時、三成は「大義を抱く者は、最後まで命を惜しみ、本懐を遂げようとするものだ」と言い放ったという「茗話記」の記述も番組では改めて紹介されていました。そして、命ある限りは家康を討って秀吉の恩義に報いたいという気持ちのあらわれだと説明されていました。三成の気持ちを恩義だけで説明するのは問題だという気がしますが、豊臣政権の中枢を担っていた者として(関ヶ原の戦いの前は、七将に襲撃事件の責任を取らされて奉行職を解任されていましたが)、その体制の維持のためには家康を排除することが絶対条件だと思ったのでしょう。
 ところで、この逸話について、拙ブログでも以前紹介したように、「中村武生とあるく洛中洛外」(京都新聞出版センター)の「三成はどこで湯を欲したのか」の中で、三成が引き回されたルート及び湯を欲した場所が推定されています。もっとも、この逸話が「上質の史料ではありません」とことわった上でのことですが。それによると、京都所司代跡碑が建つ徳川初期の奥平信昌屋敷跡推定地が出発点です。今の二条城の北東隅に当たります。そこからおそらく堀川通を北上して、一条通を東に進み、室町通をずっと南下して、松原通を東に進んだと云います。寺町松原から河原町六条あたりは当時人家がなく、湯が求め難かったのはこの付近だったというのが推定結果です。
 徳川幕府が作った「徳川実紀」で、三成が家康に逆らったために逆賊と記されていることも番組で紹介されていましたが、江戸時代に書かれた書物はほとんどそういう扱いでした。「徳川実紀」は、徳川史観で描かれたものであり、自分たちに都合のいいように書かれており、しかも江戸時代後期に編纂されたものですから、その内容はしっかり吟味する必要があります。関ヶ原の戦いで言えば、小山評定で福島正則が率先して家康に味方して三成を討つべしと言い出したところ、各武将がそれに賛同したということが「徳川実紀」に記され、それが通説となって、小説やドラマで当たり前のことのように描かれていますが、このことに関して、白峰旬氏によって小山評定はなかったという見解が示されています。
 
 
 

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