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zoom RSS 受贈御礼 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」1 三成の実像2295

<<   作成日時 : 2018/06/07 18:22   >>

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 白峰旬氏から、ご論考「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)をご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。
 白峰氏からはこれまでにもいろいろとご論考をいただき、その新見解にはいつも目を開かされる思いがして、
新たなことを学ばせてもらっています。
 通説では、藤堂高虎は山中に布陣していた大谷吉継と戦ったとされていますが、白峰氏の同論考では、藤堂高虎が大谷吉継と戦った場所は関ヶ原であり、その後、山中へ転進し、山中に布陣していた三成と戦ったと指摘されています。
 同論考で記載内容が検討されている「藤堂家覚書」とは「伊勢津藩(藩主は藤堂家)の関係史料であ」り、「寛永18年(1641)の時点における藤堂家家臣の聞書や書付をもとに編纂された内容である」ことから、「関ヶ原の戦いに参戦した藤堂家家臣の中で、寛永18年の時点で存命中であった者は一定数は存在したと考えられる。その意味では、後世の編纂史料(二次史料)ではあっても、信憑性がない荒唐無稽な内容の軍記物などとは性格を異にするものである」と指摘されています。
 確かに、年数が経っていますから、記憶違いということもあるのかもしれませんが、実際に戦いに参加した人々の「聞書や書付をもとに編纂された」ものですから、信憑性はある程度高いと思われます。そういうことで言えば、細川ガラシャ夫人の最期を48年後に語った侍女の霜女の覚書とは少し違う気がします。なにしろ、この場合は霜女一人だけの記憶ですから。
 さて、同論考では、記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されています。
 まず@「家康は9月14日の昼に赤坂へ着陣した」点が挙げられています。
 9月14日に家康が赤坂に着陣したというのは通説ですが、白峰氏の同論考では、それを示す一次史料として「9月14日付丹羽長重宛西尾吉次・同藤兵衛連署状」の「内府も昨日13日きふへ着陣被申候、則今日赤坂表へ被相働候」という記述が挙げられています。
 「きふ」は岐阜ですが、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」〔藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所織豊期集成』【思文閣出版】所載〕の中で、慶長5年9月「13日岐阜在」とあり、その典拠は同日付の丹羽長重宛家康書状です。
 

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