関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2297 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」3 徳川本隊と共に関ヶ原へ

<<   作成日時 : 2018/06/09 11:39   >>

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 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。
 B「9月15日の未明に『いつれも』青野ケ原を出て、関ヶ原へ出陣した」という要点について、次のように指摘されています。
 「9月15日未明の時点では、徳川本隊も赤坂から青野ケ原へ移動(陣替)していた、ということを意味する。つまり、『いつれも』というのは、家康方の先手の諸将と家康が直率する徳川本隊を指すと考えられる。よって、9月15日未明の時点では、先手の諸将と徳川本隊は青野ケ原で合流していたことになる」、「青野ケ原から関ヶ原への距離は約8、5qであるので、9月15日未明に青野ケ原を出た先手の諸将と徳川本隊は、9月15日早朝には関ヶ原へ着陣したと考えられる」と。
 もっとも、今後の検討課題についても示されています。すなわち、「先手の諸将すべてが関ヶ原へ出陣したのか、或いは、先手の諸将を関ヶ原へ向かう諸将と山中(石田方本陣が布陣していた)へ向かう諸将と二手に分けたのか、という点」だと。
 白峰氏の見解によれば、三成方が関ヶ原方面に移動したのは、家康が攻撃しようとした南宮山の毛利勢と挟撃するためであったというわけですから、南宮山の吉川広家が家康に屈服して兵を動かさなかったというのは、三成方の大きな誤算だったということになります。
毛利勢が南宮山に布陣したのは、戦う意思があまりなかったという捉え方がよくされています。三池純正氏の「義に生きたもう一人の武将 石田三成」(宮帯出版社)の中では、「後詰部隊としての布陣である」ものの、「南宮山は宗教上聖なる場所で」、「南宮山という神の鎮座する聖なる場所は攻めてはいけない場所であり、それだけに逃げ込むには最も安全な場所」と指摘されています。すなわち、毛利勢は南宮山に「逃げ込」んだという捉え方であり、その根拠の一つとして、9月12日付の増田長盛宛の石田三成書状の中に、南宮山に布陣した「長束正家、安国寺は思いのほか引っ込み思案である」という記述が挙げられています。
 もっとも、この三成書状については、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の中で、「正直なところ、これが三成の書いたものそのままとはとても思えない」と記されていますし、白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(『歴史群像』2017年10月号所載)の中で、「偽文書の可能性が極めて高い」と指摘されており、私も同意見です。南宮山に陣取った時点では、大垣城の後詰として戦う意思はあったのではないでしょうか。
 

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