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zoom RSS 三成の実像2318 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」8 谷徹也氏「総論」8 古渓宗陳配流事件

<<   作成日時 : 2018/07/01 11:08   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「豊臣政権における石田三成」の中で、古渓宗陳の失脚について論じられています。
 、この件について、谷氏の同書では、「大徳寺の古渓宗陳は、天正寺の造営をめぐって三成と対立し、天正16年5〜9月頃に筑前に配流されたとされる」という通説が紹介されています。
 映画「利休にたずねよ」では、三成が大徳寺の山門に置かれた利休の木像のことを問題視し、古渓宗陳と対立する場面が描かれていましたが、三成が利休事件を画策したことと云い、宗陳が三成と対立していたことと云い、通説に従った描き方になっています。
 谷氏の同書には、天正寺建立の財源に関する史料として「総見院古文書」のほか、新たな史料として天正16年3月8日付の宗陳宛の前田玄以・増田長盛・石田三成書状が取り上げられ、それをもとに宗陳失脚の経緯が次のように説明されています。
 「天正12年6月、宗陳は秀吉から『新紫野』建立を任され、金子50枚・銀子500枚・米2千石の計4千貫文をその費用として預かった。同年10月には寺の名称が『天正寺』に定まり、船岡山周辺に敷地が与えられる。翌年には根来寺伝法院を移築することとなり、造営は順調に推移するかに思われたが、天正14年に入ると秀吉は新たに東山に大仏殿を建てる計画を打ち出した。
 そして、九州出兵を終えた天正16年3月に、預けていた3860貫文の返済を玄以・増田長盛・石田三成の3名が宗陳に迫った。(中略)宗陳は何とか返済金を集めたが、それでも銀子にして457枚余りが不足となった。預けられた費用は、既に相当部分が大工や鍛冶などの資金に使われてしまったようである。三成らは宗陳所蔵の壺二つと茶碗を質物として預り、前者は売却して不足分に補填した。最終的には宗陳没後に不足分は雑費として返済を免除された。
 このことからすると、三成が宗陳の失脚に全く無関係であったとはいえない。少なくとも秀吉の命を受けた奉行の一人として費用返済を迫っていたことは認められよう」と。
 こういう関わりが、宗陳の失脚を三成が企てたと後に見なされるようになったのではないでしょうか。白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、三成の讒言による宗陳配流説が否定されていますが、三成の参禅の師である春屋宗園と、千利休の帰依する宗陳は共に大徳寺北派に属する僧であり、宗陳が許されて帰洛した時、天正18年9月14日朝に聚楽第の利休屋敷に於いて、宗陳を正客として、宗園らを招いて茶会を催してことが挙げられ、宗陳は宗園とは一体の関係に指摘されています。

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