関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2328 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」18 谷徹也氏「総論」18斎村広英と親密 

<<   作成日時 : 2018/07/11 10:50   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、研究者の三成評も取り上げられていることは拙ブログ記事で前述しました。中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、毛利輝元の書状に見える、朝鮮半島の状況は安定しないから毛利家の九州への転封はないと三成が発言したと記されていること関連して、カンハンの「看羊録」の次のような記述が取り上げられ、三成が朝鮮半島への出兵に反対していたことの根拠として挙げられています。
 「石田三成はつねづね『六六州で充分である。どうして、わざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか』と言っていた」と。むろん、これは谷氏も指摘しているように、「後年の伝聞史料」ですが、日本に捕虜として連行されてきた朝鮮人だけに、客観的に情勢を見ていただけに,信憑性は高いのではないでしょうか。
 三成が奉行として朝鮮半島に渡って、悲惨な日本軍の状況を目のあたりにして、行長らと共に和平交渉に当たったのも、その思いがよく表れています。
 輝元書状に記されている、三成の「うつけ」などという言葉を、谷氏は「軽侮な態度」と見なしていますが、毛利家を安心させるために敢えてそういう言い方をしたのではないでしょうか。むろん、三成は大名の指南役も兼ねた取次でしたから、こういう言い方としたのは立場上、仕方なかったとも云えます。
 三成が本当に傲慢で鼻もちならない人物であったら、大名との親密な関係も生まれなかったでしょう。谷氏の同書では、三成が私的な交流をした大名として、真田信幸、小西行長、寺沢正成(広高)、斎村広英(赤松広貞・広通)の名が挙げられています。広英と三成が親しかったことは、私自身、知りませんでした。
 広英は「永禄5年生まれ、龍野赤松氏の出身で」、「おそらくは中国地方を担当した秀吉軍に従う中で三成と接触したと思われる。豊臣政権下では主に『斎村』を名乗り、後に但馬国竹田城に移された。まだ、同国美嚢郡出身の藤原惺窩は龍野の景雲寺で学んでいたこともあっと早くから広英と交流が深く、その庇護を受けていた。結局、広英は関ヶ原の戦いで三成方につき、切腹を命じられている」などと記されています。
 藤原惺窩は佐和山の三成に招かれたが、固辞したという話がありますが、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、それは俗論に過ぎず、実際は藤原惺窩は「三成の求めに応じて佐和山に赴かんとしている間に、関ヶ原の戦いが始まり、遂にその求めに応ずる事が出来なかったものであろう」と指摘されています。
その根拠として、林羅山の「惺窩行状」の記述、及び「惺窩は三成の兄・正澄とは古くからの師弟関係にあ」ったことが挙げられています。
 

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