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zoom RSS 三成の実像2329 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」19 谷徹也氏「総論」19 広英宛書状

<<   作成日時 : 2018/07/12 11:27   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、三成が私的な交流をした大名の一人として、斎村広英(赤松広貞・広通)の名が挙げられています。
 広英の正室は、宇喜多直家の娘ですから、直家の子の秀家と広英は義兄弟の関係になります。三成は宇喜多秀家と親しい関係でしたから、広英と三成のつながりはそういうところから生まれたのかもしれません。
 谷氏の同書では、三成と広英の交流を示すものとして、徳川美術館蔵の二通の三成書状があることが記され、その一通は今井林太郎氏の「石田三成」(吉川弘文館)に掲載されているもので、その書状の内容について、次のように要約されています。
 「三成が小刀の柄を探していたところ、広英が本阿弥光徳を紹介してくれたことに対して、感謝を述べている」と。 
 今井氏の同書では、三成が貞宗の脇差を毛利輝元の家臣に求めようとしたことも記されており、そのいきさつについて、次のように解説されています。
 「三成は毛利輝元の家臣児玉三郎右衛門が貞宗の脇差を持っていることを聞いて、その脇差を手に入れたいと思い、毛利輝元にその斡旋を頼んだ。よって輝元は児玉三郎右衛門に書を与えて、三成の希望を入れるように伝え、その中で」、「この脇差は既に秀次の耳にも入っているので、秀次がほしいといい出すかもしれない。それ故その前に手に入れたいと申し入れた」と。
 この輝元の書状の追書(おってがき)の中に、谷氏の同書でも紹介されていたように、三成のことを「彼仁(かのじん)当時肝心の人」と言っており、このことについて、今井氏の同書には、輝元が「三成の機嫌を損じないように気を配っている様子が窺われる」と指摘されています。今井氏の同書では、こういうことをもって三成が「傲慢」だったと指摘されているわけですが、そのことまで云えるかどうかは疑問だと思います。もっとも、小刀などの名品を三成がほしがっていたのは事実ですが。
 谷氏の同書で取り上げられているもう一通の広英宛の三成書状については、史料として掲載されていますが、その慶長3年2月11日付の書状について次のように解説されています。
 「慶長3年正月、蒲生秀隆(氏郷の子、のち秀行)が家中騒動によって宇都宮に減封されたのを受け、その後処理にあたるために三成は会津に下った。その途上の白河で広英の書状を受け取り、進路の音信に感謝するとともに、奥州の雪路で人馬がくたびれている様子を伝えたのが本書状である」と。
 

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