関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2330 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」20 谷徹也氏「総論」20 中納言宛書状

<<   作成日時 : 2018/07/13 08:11   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、斎村広英(赤松広貞・広通)宛ての三成書状が挙げられていましたが、それに関連して三成が鷹マニアであったことを示す中納言宛の三成書状についても考察が加えられています。
 この三成書状については、「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」の加藤秀幸氏の「石田三成書状ーその嗜好ー」で取り上げられていますし、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)でも、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)でも論じられています。
 谷氏の同書にも記されていますが、加藤氏は宛名の中納言は、上杉景勝としているのに対して、中井氏は織田秀信としています。中井氏の見解の根拠として、「秀信の祖父・信長は無類の鷹狩好きであるし」、「三成は秀信の湯治の世話をしているくらいだから、個人的な付き合いも深かったであろう」という点が挙げられています。
 この書状の中に「城州」という人物が出てきますが、中井氏の同書では、「『城州』は織田家とも関係の深い山中長俊あたりと推測される」と記されています。
 加藤氏も「城州」は山中長俊と推定されています。一方、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中では、拙ブログでも前述したように、中納言は上杉景勝であり、「城州」は直江兼続と措定されています。
 谷氏の同書では、中野氏の見解に同意しています。その根拠として、「文中の『大崎方』は大崎氏の関係者を指すものと思われ」、「三成は、大名への復帰を目指して在京していた大崎義隆の援助を行い、正澄に宿所を
手配させていた。よって、大崎氏関係者の鷹師が三成と交渉していたであろうことは推測に難くない」こと、「文中で宛名の人物と居所が近いことに加え、『当春』は雁もいないとする表現から、三成が奥州に下っており、帰雁の時期てある慶長3年3月26日が発給日として妥当だと思われる」ことが挙げられています。
 三成が大崎義隆の援助を行っていたことを示すものとして、文禄2年2月23日付の大崎義隆書状が「註」で示されています。
 三成は、慶長3年1月、上杉景勝が越後から会津に転封を命じられた後、奥州に下向しています。中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤田讓治氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、「2月16日三成は上杉家老臣直江兼続と連署して、会津領に禁制などを発給している」と記されています。その後、三成は越後へ赴き、4月15日に越後国刈羽郡の藤井堰に関する条書を発していますから、谷氏の見解に従えば、中納言宛の書状は、その間に出されたことになります。 
 

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