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zoom RSS 三成の実像2319 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」9 谷徹也氏「総論」9 天満本願寺牢人事件

<<   作成日時 : 2018/07/02 11:25   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、「石田三成の人物像」の中で、天満本願寺牢人事件についても論じられています。
 この事件は、通説では聚楽第落首(落書)事件と関連したものとして捉えられ、私もそう思ってきましたし、大河ドラマ「真田丸」でもそのように描かれていました。「真田丸」では、真田信繁・大谷吉継・三成が、死んだ尾藤道休を犯人に仕立て上げ、事態の収拾をはかるという、ユニークな描き方がされていました。三成が秀吉に諌言し、切腹寸前に追い込まれかけるという場面までありましたが、実際、この場面でこういうことがあったとは思えないものの、三成が秀吉の指示にそのまま従っていたわけではないことを象徴的に描いている名場面でした。
 さて、谷氏の同書では、この事件に関して、史料として「多聞院日記」天正17年3月18日条の記述が取り上げられ、両事件は別個のものという見解が示され、次のように解説されています。
 「京都の落書事件と大坂の牢人事件は同日条に連続して記されているため、一連のものと考えられがちである。しかし、内容を読むと、牢人衆が落書事件に関わったとは書かれておらず、既に鍛代敏雄氏も指摘するように、両事件は一旦、別個のものと切り離して考える必要があろう」と。
 この論拠として、「鹿苑日録」にも、両事件は「別々に立項されて」いること、「巡察師のヴァリニャーノも両事件を秀吉の激高を示す事例として列記するものの、関連したものとは書いていない」こと、「そもそも、落書事件が発生したのは天正17年2月のことであるが、天満本願寺牢人事件で秀吉側が身元を捜索した蜂屋謙入(武衛ケンユウ)は天正16年10月以前に天満に身を置いている」ことなどが挙げられています。
 まず谷田氏の同書には、落書事件の経緯について、次のように記されています。
 「2月25日夜に聚楽第鉄門の番所の壁に落書があった。門番を担当した6人の番頭を含めた大名衆10人は責任を問われて牢屋に入れられた。捜査が行われたが、犯人は不明であったために、番衆17人は大坂に連行されて鼻耳を削がれ、3月2日に磔刑に処された」と。
 これらの記述の典拠は、「多聞院日記」と「鹿苑日録」です。
 福田千鶴氏の「淀殿」(ミネルヴァ書房)にも、この事件の概要が記されていますが、落首の内容について、一次的な記録でその内容を知ることは出来ないものの、「武功夜話」に記されている次の2首が紹介されています。むろん、これが事実なのかはわからないのですが。
 「大仏のくどく(功徳)もあれや鑓かたなくぎ(釘)かすがいは子だからめぐむ」結句は「茶々殿懐妊の事」
 「ささ(佐々成政)たへて茶々生いしげる内野原今日(京)はけいせい香をきそいける」
 茶々の懐妊を皮肉り、政治批判をしている歌ですが、秀吉を激高させたぐらいですから、これに近い落書があったのではないでしょうか。 
 

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