関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2320「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」10 谷徹也氏「総論」10 本願寺牢人事件2

<<   作成日時 : 2018/07/03 10:43   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、 「豊臣政権における石田三成」の中で、天満本願寺牢人事件の経緯についても次のように説明されています。
 「本願寺の寺内町である天満は全国から多くの牢人が移住してくる一種のアジールであった。2月29日、天満の『武士牢人衆』について秀吉から顕如光佐へ詰問があった。3月1日には道休と尾藤次郎右衛門尉入道(尾藤知宣の関係者)が、8日には願徳寺顕悟(蜂屋謙入の姉妹の夫)が切腹させられ、その首は顕如から三成らに渡された。なお、この三名が落書事件に関与していた可能性は残されるものの、史料からは彼らの処罰理由は確定できず、縁戚関係を考慮すれば、秀吉が以前に勘当した蜂屋謙入・細川照元・尾藤知宣(この三名は既に逃亡していたか)を大坂城の至近地で匿っていたことの罪を問われたと考えた方が自然である。
 3月2日には謙入と道休の家、及びそれらの存在した二町が三成によって焼き払われ、連帯責任として鬮によって選ばれた66名が捕縛のうえ京都へ移送された。そして、同月9日に車で曳き回された後、六条河原で磔刑に処せられ、大坂でも50名が磔となった。三成は増田長盛と共に顕如らから血判起請文を提出させた後、3月13日には寺内町へ条々を下し、秀吉の勘気を受けた牢人衆を匿わないことや、武士や奉公人を町中に抱えないことを命じた。このように、三成は秀吉による厳罰を実行する人物として天満本願寺牢人事件に関与していた。ここで三成と長盛が選ばれたのは、旧来の本願寺との交渉窓口であったことに起因するのであろう」と。
 三成は増田長盛と共に秀吉の命令のもと、弾圧に力を貸したわけですが、本願寺統制の面もありました。しかし、三成が進んで実行したわけではなかったはずです。それをうかがわせるのは、尾藤知宣の存在です。谷氏の同書では触れられていませんが、尾藤知宣は、三成の妻の父に当たる宇多頼忠の兄ですから、三成の伯父に当たる人物です。知宣は秀吉の家臣でしたが、九州攻めの際、追撃戦をしなかったということで改易になりました。後に北条攻めの際、秀吉によって斬殺されました。知宣の子供の頼次は、三成の父の正継の猶子となり、石田刑部頼次と名前を改め、三成の義兄弟となります。
 そういう姻戚関係にあった知宣と三成ですから、知宣の改易、斬殺は、三成にとって大きな衝撃だったはずです。そういうことを頭に入れてこの事件のことを考えると、三成も積極的に弾圧に関わったとは思えず、大いなる苦悩があったのではないでしょうか。
 この後も、三成は本願寺との交渉窓口を務めましたし、本願寺も秀吉の意向に沿う形で、今の西本願寺の寺領を得ています。
 

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