関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像2322 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」12 谷徹也氏「総論」12 二十六聖人殉教

<<   作成日時 : 2018/07/05 10:59   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、 「豊臣政権における石田三成」の中で、二十六聖人殉教についても論じられています。
 この事件の時、「厳罰を命じた秀吉に対して、三成は穏便な措置に変更されるよう努めたこと」が、中野氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)で指摘されていることが谷氏の同書では記されています。
 具体的には、「三成は潜伏するキリシタンの名簿を家臣に作成させたが、極力その人数を減らすように指示し、フランシスコ会の司祭らについても死刑ではなく、追放刑になるように秀吉を説得しようとした。そして、24名(道中で2名が加わる)が捕縛のうえ連行されても、最後まで釈放への希望を棄てずにいた」と。
 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも、二十六聖人殉教の時の三成の対応について次のように記されています。
 「ルイス・フロイスの『二十六聖人の殉教記録』によれば、三成は犠牲者の数をできるだけ減らそうとしたが、京と大坂で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名が捕縛された。この中にはイエズス会関係者も3名含まれており、三成は何とか除外しようとしたが果たせなかった。秀吉は捕えられた24名の耳と鼻を削ぎ、市中を引き回すよう命じる。三成にできたのは左の耳たぶを切り落とすに止めることだけだった」と。
 このことに関しても、三成は自分のできる範囲で、キリシタンの犠牲を少なくしようとしたことがわかりますし、秀吉の理不尽な命令に苦慮していたことがうかがえます。しかも、宣教師側の史料にそういう三成のしたことが記されていることが重要で、信憑性があります。
 三成がこの事件を主として担当した理由について、谷氏の同書では、次のように記されています。
 すなわち、「キリスト教にも比較的寛容であった所司代の玄以は、事件の最中に息子の秀以と茂勝からキリシタンであることを告白され、茂勝が自ら殉教しようとするのを諫める中で、次のように述べている。『王(秀吉)がキリシタン探索を命じた時、この役目を治部少(三成)と私(玄以)に一任したが、私は厭な仕事だと思って、すべてを治部少に頼んだ』。即ち、当初は三成と玄以の両者に捜索が命じられたが、玄以はそれを三成に全て委ねたのであった。ここからは、困難な仕事であってもそれを引き受け、少しでも処罰が和らぐように努めていた三成の姿が浮かび上がる」と。
 当時、三成は京都奉行でもありましたから、事件を担当する資格はあったわけですが、玄以に代わって自分でほとんど全ての仕事に引き受けた同僚への心遣いに頭が下がります。三成がキリシタンに寛容であったのは、友の小西行長がキリシタンであったということも大きかったのではないかと思われます。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像2322 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」12 谷徹也氏「総論」12 二十六聖人殉教 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる