関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2323 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」13 谷徹也氏「総論」13 諸事件のまとめ

<<   作成日時 : 2018/07/06 10:54   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、 「豊臣政権における石田三成」の中で、拙ブログで取り上げてきた、五つの事件における三成の行動をまとめ、次のような指摘がされています。
 すなわち、「まず、三成はあくまでも複数いる奉行の一人として秀吉の命令を遂行する立場にあった。しかし、世間では厳罰を行う代表的人物として印象づけられていた。また、三成には秀吉の怒りを和らげようと弁明を引き受けつつ、現場において穏便な解決の道を探る一面もあった。関ヶ原の戦いの後は往時の三成の矜持の強さや権勢の大きさもあって、後者の姿は忘れられる一方で前者の印象が増幅され、様々な陰謀の主体であったという憶測を呼ぶことになったのであろう」と。
 確かにその通りだと思いますし、三成がさまざまな陰謀を画策したという捉え方は、現在でも数々のドラマや小説でもなされています。しかし、谷氏の同書で論じられていたように、実際の三成は、それぞれの事件で対応に苦慮し、自分の裁量で処理している場合が少なくありません。
 三成は朝鮮出兵にも反対の立場でしたが、今でも推進派だとして描かれている小説やドラマが後を絶ちません。小西行長・宗義智と同様、朝鮮とは貿易を推進することを考えており、戦うのは害こそあれ、益にはならないと思っていたはずです。それを目の当たりにしたのは、秀吉に代わって大谷・増田らと朝鮮半島に渡って、戦争の実態をつぶさに見た時です。兵站がうまくいかず、日本軍はこのままでは分断されて、日本人は一人もいなくなってしまうだろうという報告書まで送っています。このあとの三成は、行長等と共に和平を整えるのに尽力しています。秀吉の思いとどう調整をつけるかに腐心したに違いありません。
 谷氏の同書では、渡辺世祐氏の「稿本石田三成」の中で「秀次事件や蒲生氏郷の死去、小早川秀秋の転封などに三成が関与したとする俗説を、史料の欠如や状況証拠から否定している」ことが記されています。
 蒲生氏郷の死因は病死だということがわかっていますし、氏郷が亡くなった時には、三成は朝鮮半島に渡っていました。秀秋の転封に関しては、三成の讒言によるものだとされていますが、そういう事実はありませんし、秀吉は三成に秀秋の領地を与えようとしたものの、三成は秀吉のもとにいることを選び辞退しています。
 三成は、蒲生氏郷の旧臣、秀次の旧臣、秀秋の旧臣を多数家臣に召し抱えていますし、彼らは関ヶ原の戦いで大活躍しています。もし、三成がそれらに関与していたとすれば、彼らも石田家に仕えて石田家のために戦うこともなかったでしょう。秀次事件に関しては、妻子が処刑された時、三成は秀次の娘の命を救い、彼女は後に真田信繁の側室になり、2人の間には「おたあ」という娘が生まれ、彼女は佐竹義宣の弟の多賀谷宣家に嫁いでいます。そのあたりのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記しています。

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