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zoom RSS 三成の実像2324「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」14 谷徹也氏「総論」14 イエズス会の評価

<<   作成日時 : 2018/07/07 10:16   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、 「豊臣政権における石田三成」の中で、イエズス会の三成に対する評価が変わってきたことについて次のように述べられています。
 「堺代官に就任した当初の三成の評価は、日比屋了珪一族への厳罰を行ったこともあって、『キリシタンの敵でもあって、嫉妬深く、野心家で傲慢であり、その他においても悪徳に満ちた人物』とされている。それが京都所司代に就いた後は、イエズス会に好感を抱く人物として見直されるようになっている。書状や使者の遣り取りで意思疎通を図り、禁教に傾く秀吉の様子を伝えて、宣教師らには騒ぎを起こさないように忠告し、時期がくれば秀吉にも取り成す旨を伝えたことが大きな要因といえよう。
 右の評は、慶長元年12月の二十六聖人殉教事件に関する記述の中に見出されるが、このときに三成はオルガンティーノに対して、『通辞(ジョアン・ロドリゲス)の味方はこの治部少で、治部少の保護を受ける者に日本では害を与える人はない』と述べ、勝手に越権行為を行った長谷川守知に対しては、『太閤様(秀吉)は都の市(下京)の統治と、その公義の遂行を拙者に一任されたのだから、汝は汝の道を歩め』『拙者は何を行う必要があるのか正しくわきまえているつもりだ』と言い放ったとされる。こうした話からは、三成の矜持の強さを窺うことができよう」と。
 イエズス会側の三成に対する評価が、フロイスの「日本史」と「十六・十七世紀イエズス会日本報告書」とで大きく違っているのはなぜだろうと、私も疑問を感じたことがあり、拙ブログでも触れたことがありますが、そのことに関する谷氏の考察には十分うなずけるものがあります。
 日比屋了珪一族への厳罰ということについて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、次のように記されています。
 「堺奉行に就任して二ヶ月ほど経った後、三成は堺の豪商でキリシタンであったディオゴ日比屋了珪の女婿ルスカ宗礼なる人物を断罪している。ちなみに、ジュウチン小西立佐は行長の実父にあたるが、既述のように小西家と日比屋一族は姻戚関係にあった。いずれにしろ、こうした経緯からイエズス会は三成に強い敵意をもつことになる」と。 「既述のように」とあるのは、小西家は「堺の豪商日比屋と二重・三重の婚姻関係を結んでいる」ことを指しています。三成と立佐は同じく堺代官の地位にあり、フロイスの「日本史」には二人は敵対していたと記されていますが、その記述をうのみにするのは問題ではないでしょうか。鳥津亮二氏氏の「小西行長」(八木書店)の中で、天正16年12月20日付の石田正継定書が取り上げられ、立佐不在のため正継がやむなく自分の裁量で決めたことが記されていますが、立佐に気を遣っていることがうかがえる内容です。正継は三成の父ですが、この時、三成に代わって堺代官を務めていました。

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