関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像2326 「シリーズ・織豊大名の研究 石田三成」16 谷徹也氏「総論」16 僧の三成評

<<   作成日時 : 2018/07/09 10:30   >>

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 谷徹也氏編の「シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成」(戎光祥出版)の、谷氏の「総論 石田三成論」のうち、  「豊臣政権における石田三成」の中で、僧侶の三成に対する評価について、次のようなことが記されています。
 「三宝院義演が三成を『当時出頭第一ノ仁也』と評している他、木食応其も『治少御奉行之其随一なるかほに候つる、少もそむけ候へは、たちまち其ままさはりをなす仁ニ候』と述べている。応其の言葉は、関ヶ原の戦い後における家康側への弁明であることを念頭に置く必要があるが、(中略)三成は最初から政権中枢で多くの職務を担っていたわけではなく、奉行の中では増田長盛らの方が中心的な存在であった。しかし、そうした実態を押しのけて奉行筆頭のような振舞をしていると周囲が見ていたことには留意しておきたい」と。
 三成が豊臣政権における出頭人であったという見解は、桐野作人氏によって示されています。確かに、増田長盛の方が奉行としては中心的な存在であったかもしれませんが、一般の認識では、三成の方が出頭人であったという捉え方でしょう。
 義演は、醍醐寺の座主であり、秀吉によって三宝院が再興されたように、義演と秀吉の結びつきは強いものがあり、秀吉は醍醐寺で花見を行ったのもその表れです。以前、拙ブログでも取り上げたように、関ヶ原の戦い直前の「義演准后日記」には、「秀頼様衆」と「内府衆」の戦いであることが記され、三成や毛利輝元が豊臣公儀を形成していることが示されています。もっとも、この日記の記述については、関ヶ原の戦いの後、塗抹された箇所があり、家康をはばかって不都合な部分を塗抹した可能性があることが白峰旬氏によって指摘されています(「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載についての時系列データベース」)。
 木食応其の発言も、谷氏の指摘通り、「家康側への弁明」であり、三成のことをことさら悪く言った可能性はあると思います。それは「義演准后日記」の記述が塗抹されたことと根は同じだという気がします。
 木食上人は三成とはかねてより昵懇の間柄であり、秀吉の紀州攻めが二人が知り合うきっかけになりました。秀吉は高野山を攻めるつもりでしたが、三成と木食の話し合い、尽力で高野山は攻撃を免れました。それ以来、秀吉と高野山の関係は良好なものになり、秀吉は母の大政所の菩提を弔うために金剛峯寺を再建しますし、三成も自分の逆修墓を建立しますし、母の菩提を弔うために経堂を寄進し、一切経を奉納しています。
 木食上人は豊臣政権のためにもいろいろと力を尽くしています。島津攻めの後、島津義久が上洛した際、三成と共に案内役を務めていますし、関ヶ原の戦いの際も、大津城攻めや安濃津城攻めの際に、開城交渉を行なっています。このあたりのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも記しています。

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