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みんなの「戦国史」ブログ

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三成の実像2307「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」3 義弘は人心掌握の達人
 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、「島津義弘は『鬼島津』ではなく人心掌握の達人だった」という太田秀春氏の見解が紹介されていました。  太田氏は鹿児島国際大学の教授ですが、2002年にオンライン三成会の人々と朝鮮の役の跡を訪ねて韓国に行った時、ソウルで留学中の太田氏とお会いしたことがあります。その時、一緒に夕食を取りながら朝鮮の役や倭城に関するお話をいろいろうかがい、伊達政宗の倭城についての論考など、いくつかいただきました。いかにも新進気鋭の研究者という好印象を受... ...続きを見る

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2018/06/19 10:02
三成の実像2306 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」2 中央突破でなかった島津退き口2
 激しい地震の揺れに見舞われ、ガスの安全装置が働き、停まりました。阪神・淡路大震災の時以来です。詳しい状況が徐々に明らかになっていますが、被害が拡大しないよう願うばかりです。   さて、BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていましたが、その後、ゲストで解説者の桐野作人氏がその説について追加解説をされていました。  すなわち、島津側の史料を見ると、敵の影がすくない時があったが、それは... ...続きを見る

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2018/06/18 11:04
三成の実像2305 「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」1 中央突破でなかった島津退き口
 BSで放送された番組「諸説あり!薩摩最強伝説〜戦国編〜」の中で、関ヶ原の戦いの際の「島津退き口」は中央突破ではなかったとする見解を渡邊大門氏が示されていました(島津氏に関する他氏の新見解も紹介されていましたが、それについては後述します)。すなわち、島津義弘は徳川本陣を中央突破せず、別の形で退却したと。  その根拠として二点挙げられていました。一つは、圧倒的な兵力差であり、わずかな軍勢しかいない島津勢が大軍の家康本陣に突っ込むのは不合理であり考えにくいという点。島津軍は1500人であるのに対し... ...続きを見る

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2018/06/17 10:20
三成の実像2304 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」10 秀秋の裏切りの記載なし
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の最後は次のように結ばれています。  「『藤堂家覚書』の関ヶ原の戦い(本戦)」に関する記載部分には、小早川秀秋の裏切りについての記載がないが、この点の理由の検討についても今後の課題としたい」と。  「藤堂家覚書」は、藤堂家家臣の働きを記載するのが中心でしたから、秀秋の裏切りによって勝利がもたらされたという事実には触れたくなかったのかもしれません。この... ...続きを見る

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2018/06/16 10:14
三成の実像2303 白峰旬氏「藤堂高虎隊は 関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」9 湯浅五助の討死
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の 中で、「藤堂家覚書」にも「藤堂姓諸家等家譜集」にも、藤堂仁右衛門(藤堂高刑)が大谷吉継家臣の湯浅五助を討ち取ったという記載があるものの、後者の方がより具体的なことが記載されていることが明らかにされ、その部分が引用されています。  高刑が馬上の五助に弓を射かけさせ槍で三十合戦い、馬より落とし、地に伏した五助を三四回刺して首を討ち取って、献上すると、家... ...続きを見る

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2018/06/15 10:32
三成の実像2302 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」8 大谷を攻めたのは南宮山下
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  K「家康は藤堂高虎の忠節に対して、帰陣の後、褒賞として伊予半国を与えて高虎は合計20万3千石になった」という要点について、次のように記されています。  「『内閣文庫蔵諸侯年表』における『津・藤堂家』の項によれば、藤堂高虎は慶長3年(1598)に伊... ...続きを見る

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2018/06/14 11:05
三成の実像2301 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」7 村越兵庫の討死の意味
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  G「家康家臣の村越兵庫はこのところ(=大谷吉継と戦った関ヶ原)で討死した」という要点について、これも「村越兵庫の討死の意味」という項目が設けられ、次のように指摘されています。  まず「『藤堂家覚書』には『権現様衆村越兵庫殿、此所に而討死被成候』と... ...続きを見る

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2018/06/13 17:58
三成の実像2300 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」6 吉継の墓・玄蕃の討死
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  G「その戦いで、藤堂仁右衛門(藤堂高虎の家臣・藤堂高刑)は大谷吉継家臣の湯浅五助という母衣の者を討ち取った」という要点について、「藤堂高虎が関ヶ原で大谷吉継と戦ったことの明確な証左となる」と指摘されています。  藤堂家が建てたと伝わる大谷吉継と湯... ...続きを見る

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2018/06/12 11:33
三成の実像2299 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」5 脇坂らの裏切りに関与?
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  E「その後、藤堂高虎は大谷吉継、脇坂安治、小川祐忠、平塚為広の四人の部将の軍勢と戦ったが、脇坂安治と小川祐忠は高虎の事前の調略によって石田方を裏切った。」  F「そのため、藤堂高虎は大谷吉継の軍勢と一線をおこなうことになった。」  こういう記載... ...続きを見る

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2018/06/11 10:37
三成の実像2298 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」4 一番首
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  C「その途中、藤堂新七郎(藤堂高虎の家臣・藤堂良勝)は先手の上方衆の軍勢にまぎれて、『あさがけの首』を取ったが、これは『諸手一番首』であった」という要点について、次のように指摘されています。  「この話は、藤堂新七郎が藤堂隊から単独で離れて先行し... ...続きを見る

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2018/06/10 10:23
三成の実像2297 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」3 徳川本隊と共に関ヶ原へ
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  B「9月15日の未明に『いつれも』青野ケ原を出て、関ヶ原へ出陣した」という要点について、次のように指摘されています。  「9月15日未明の時点では、徳川本隊も赤坂から青野ケ原へ移動(陣替)していた、ということを意味する。つまり、『いつれも』という... ...続きを見る

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2018/06/09 11:39
三成の実像2296白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」2 青野ケ原で野営
 白峰旬氏の「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)の中で、「藤堂家覚書」の記載内容の要点がまとめられ、それについて順次検討されていますが、その続きです。  A「9月14日夜、家康方の先手の上方衆は青野ケ原へ出陣して、そこで野営した」という要点について、次のように指摘されています。  「先手の上方衆というのは、藤堂高虎、加藤嘉明、細川忠興、黒田長政など西国に領国がある諸将のことを指すと考えられ、尾張清... ...続きを見る

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2018/06/08 10:45
受贈御礼 白峰旬氏「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦った」1 三成の実像2295
 白峰旬氏から、ご論考「藤堂高虎隊は関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったー『藤堂家覚書』の記載検討を中心にしてー」(十六世紀史学研究会『十六世紀史論叢』第9号所載)をご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。  白峰氏からはこれまでにもいろいろとご論考をいただき、その新見解にはいつも目を開かされる思いがして、 新たなことを学ばせてもらっています。  通説では、藤堂高虎は山中に布陣していた大谷吉継と戦ったとされていますが、白峰氏の同論考では、藤堂高虎が大谷吉継と戦った場所は関ヶ原であり、その後... ...続きを見る

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2018/06/07 18:22
三成の実像2294 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」7 石田地蔵と村掟
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が領民に慕われていたことを示すものとして、前述したように、仙琳寺の石田地蔵と成菩提院に残る十三ヶ条の村掟が紹介されていました。  石田地蔵は、領民たちが三成や一族の菩提を弔うために造って、江戸時代、入山禁止だった佐和山に密かに入って安置したものですが、何度も壊されたと番組では紹介されていました。  こういう石田地蔵の存在は、石田多加幸氏の「石田三成写真集」(新人物往来社)に写真が掲載されていたので知っていましたが、どこにあるのかは書か... ...続きを見る

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2018/06/06 11:06
三成の実像2293 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」6 従来通りの関ヶ原の戦いの描き方
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、関ヶ原の戦いの経緯は今までの通説通りの描き方でした。すなわち、戦いが始まって三時間、一進一退の攻防が続く中、小早川秀秋が裏切り、さらに脇坂、赤座、朽木らも裏切ったことから、三成方は総崩れになり、戦いは六時間で終わったというふうに。これに対して、白峰旬氏によって秀秋は開戦当初から裏切り、戦いはもっと短い時間で決着がついたという見解が示されていますし、高橋陽介氏も同意されています。しかも、戦いの主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったという説も唱えられ... ...続きを見る

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2018/06/05 11:50
三成の実像2292 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」5 過敏性腸症候群だったという見解2 韮雑炊
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が過敏性腸症候群の病を抱えていたという見解が述べられており、関ヶ原の戦いの後、おなかを壊し下痢をおこしていたという江戸時代の書物「名将言行録」の記述が取り上げられていました。  番組では出てきませんでしたが、江戸時代に書かれた「常山紀談」の中では、逃亡していた三成を捕縛した、旧知の田中吉政が三成をもてなそうとした時、三成は「腹を壊しているので、韮雑炊をほしい」と言ったとあります。三成が一時匿われた古橋村では、腹痛の際には韮雑炊を食べるよ... ...続きを見る

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2018/06/04 10:34
三成の実像2291 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」4 過敏性腸症候群だったという見解1 
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成が過敏性腸症候群の病を抱えていたと述べられていました。その根拠として、三成が処刑される前、喉の渇きをいやすため白湯を欲したが、それがなかったため、警護の者が柿を差し出したところ、三成は「柿は痰(たん)の毒だ」と言って断ったという話が挙げられていました。むろん、この話も江戸時代に書かれた「茗話記」に出てくる逸話ですから、実際にそういうことを三成が言ったということは確認できません。  その話について、日大医学部教授の早川智氏は、次のように説... ...続きを見る

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2018/06/03 11:49
三成の実像2290 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」3 大垣大返しの時の活躍? 葦にかける税金
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成の計算能力の高さを示すものとして、賤ケ岳の戦いで味方を勝利に導いたことが挙げられていました。大垣から賤ケ岳まで52キロの距離を大返しする時、それを短時間で成し遂げるために、兵らに手ぶらで走らせ、重い武具は長浜城から15キロ離れた賤ケ岳まで運ばせ、夜明けには間に合わせました。さらに三成は先に出発して住民たちに松明を持たせ、道を明るく照らし、兵が走りやすいようにしました。こういうことが功を奏して、秀吉軍が柴田軍を討ち果たしたと説明されていまし... ...続きを見る

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2018/06/02 11:29
三成の実像2289 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」2 瞬時の計算能力は右脳で 米俵を土嚢に
 NHKの番組「偉人たちの健康診断 石田三成」の中で、三成の出世の方法は武功ではなく、頭だと説明されていました。小和田哲男氏は、三成には武功はほとんどなく、兵糧の輸送、武具の輸送や調達などを行う兵站奉行として能力を発揮し、智恵を働かせたと説明されていました。武功がほとんどないということについては異論がありますが、これについては後述します。  番組では、三成は計算能力が優れていたその例として、「名将言行録」に載っている逸話が紹介されていました。淀川が大雨で増水し堤防が決壊しそうになった時、大坂城... ...続きを見る

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2018/06/01 15:01
三成の実像2288 番組「偉人たちの健康診断 石田三成」1 三献茶の科学的分析
 NHKで「偉人たちの健康診断 石田三成」が放送されました。三成に関する逸話をもとに、それに科学的分析が加えられており、興味深い内容でした。もっとも、あくまで逸話に基づいたものが中心であり、一次史料に書かれていることはあまり出てきていませんでしたから、どこまで信憑性があるか疑問な点はありますが。  最後は三成が善政を敷いていたことを示すものとして、成菩提院に残る領国に出していた十三ヶ状の掟書が取り上げられ、江戸時代も領民に慕われていたことを示すものとして、仙琳寺に残る、三成の居城だった佐和山城... ...続きを見る

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2018/05/31 12:47
三成の実像2287白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」5
江上合戦は、前述の通り、立花宗茂の軍勢と龍造寺家・鍋島家の軍勢との戦いでしたが、関ヶ原の戦いの直前の慶長5年8月5日頃の時点においては、伊勢方面軍として龍造寺高房・鍋島勝茂隊9800人が参加していました(白峰旬氏「新『関ヶ原合戦』論」【新人物ブックス】所載の「石田・毛利連合軍の諸将と動員人数」『真田家文書』)。  安藤英男氏編「石田三成のすべて」(新人物往来社)の「西軍武将事典」の「〔付〕初め西軍、後に東軍」の中に「鍋島勝茂」の項に次のような一節があります。  「関ヶ原役には、初め西軍に... ...続きを見る

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2018/05/30 17:59
三成の実像2286白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」4
 白峰旬氏の「慶長5年10月20日の江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(『別府大学大学院紀要』第19号所載)の中で、感状の「書止文言の書き分け(区別)について、書き分けの要因がそれぞれの家臣の石高の多寡に関係するものかどうかを検討するため、そして、江上合戦と大津城攻めの感状について、同一人物(宛所)の感状の書止文言を比較するために」表が作成され、それに基づいて次のような点が指摘されています。  「立花宗茂発給の感状(江上合戦)の書止文言の書き分け(区... ...続きを見る

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2018/05/29 15:35
三成の実像2285白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」3
 大津城攻めにおける立花宗茂の感状は、「10月10日付で立花家臣に対して一斉に発給し、一部例外的に10月11日付で発給し」(白峰旬氏「「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」)、それより10日後に江上合戦が起こっていますから、この感状の発給は、家臣に対して次なる戦いに向けて家臣たちを鼓舞する意味合いもあったのかもしれません。実際、この「感状を与えられた立花家家臣で、10日後の10月20日の江上合戦で戦死したケースがある」と白峰氏の同論... ...続きを見る

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2018/05/28 18:11
三成の実像2284 白峰旬氏「江上合戦についての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」2
 立花宗茂が関ヶ原の戦いに参戦していたら三成方は負けなかっただろうということが、「秀吉の野望と誤算」(文英堂)の中で笠谷和比古氏によって唱えられています。家康方の小早川秀秋や毛利秀元ら南宮山の動きが変わっていただろうというのが、その根拠です。もっとも、秀秋に関しては、最初はどちらに付くか逡巡していたという前提のもとですから、最初から秀秋は裏切っていたという最近の白峰旬氏や高橋陽介氏の見解に従えば、その前提は崩れてきます。  笠谷氏によれば、南宮山の秀元らも立花宗茂や島津義弘が朝鮮半島の時のよう... ...続きを見る

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2018/05/27 20:42
三成の実像2282 「古田織部美術館」の展覧会の紹介記事2 新発見の高山右近書状・織部の肖像画の解説
 4月4日付の朝日新聞記事に掲載されていた、「古田織部美術館」の展覧会「織部はキリシタンか?」ですが、展示されていた新発見の高山右近の書状は、次のような内容です。  「書状は、1614年に江戸幕府による禁教令でマニラへ追放される直前に、お灸の付け薬を贈られたことに対する右近からの礼状だ」と。  この書状は2月20日付のもので、長崎に赴く途中で記されたものだと思われます。右近がマニラに着いたのはこの年の12月のことです。この年は大坂冬の陣が起こった年でした。右近は翌年の1月6日にマニラで死去し... ...続きを見る

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2018/05/24 12:53
三成の実像2281 「古田織部美術館」の展覧会の紹介記事 茶の湯とキリスト教の共通性・高山右近の家紋
京都の「古田織部美術館」は訪ねたことがあり、拙ブログ記事でも触れたことがありますが、13日まで「織部はキリシタンか?」という展覧会が開かれていたものの、残念ながら行けませんでした。4月4日付の朝日新聞記事にこの展覧会の紹介記事が掲載されていました。  その記事では、宮下玄覇(はるまさ)館長の説明が取り上げられていました。すなわち、「茶の湯に大きな影響を及ぼしてきたのが禅宗なのは間違いないが、近年、キリスト教からの影響を指摘する研究が注目されて」おり、「千利休の出身地の堺はその当時、南蛮貿易... ...続きを見る

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2018/05/23 15:01
三成の実像2280 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」8 細川家の首注文との比較
 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の註の中で、細川家の首注文との比較もされています。  すなわち、「細川家の首注文では、細川家(正確には細川忠隆の軍勢)全体での討ち取った首の合計に関する記載があり136(ただし、実際に計算すると135になる)と記されている」ので、「関ヶ原の戦いで討ち取った首の数では、福島家の方が細川家よりも多いことになる」と述べられています。  このことについて、「福島正則が石田方の軍勢が布陣した山中攻めの先手(さきて... ...続きを見る

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2018/05/22 21:12
三成の実像2279 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」7 大坂の陣の備の人数帳との比較3
 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、その続きです。大坂の陣の跡備については、次のように記されています。  「この跡備は、他の3つの備と比較して、@馬乗(騎馬クラスの武士)の数が最も少なく、福島正勝の旗本備の馬乗の数のちょうど半分の数である。A鉄炮足軽は全くいない、B知行合計は、他の3つの備のそれ... ...続きを見る

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2018/05/21 18:08
三成の実像2278 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」6 大坂の陣の備の人数帳との比較2
 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、その続きです。大坂の陣の二番備については、次のように記されています。  「二番備は中備(なかぞなえ)にあたり、他の備に比較して組数は最も多い。しかし、馬乘(騎馬クラスの武士)と鉄炮足軽の合計数で比較すると、一番備が204人、二番備が180人、福島正勝の旗本備が... ...続きを見る

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2018/05/20 21:16
三成の実像2277 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」5 大坂の陣の備の人数帳との比較
 白峰旬氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「慶長19年の大坂冬の陣に出陣した福島忠勝(正則の養子)の備の人数帳(『備後守様大坂御陣への御陣候人数之帳』)」の内容が検討されていますが、「関原首帳」には「福島家の備の編成が記されていない」からです。  それによると、「福島家の備は、一番備、二番備、福島正勝の旗本備、跡備の4つの備から成立している。組数については、一番備が5組、二番備が6組、福島正勝の旗本備が4組、跡備が3組である」と指摘され、... ...続きを見る

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2018/05/19 21:17
三成の実像2276 朝日新聞記事「異説あり 千利休切腹してない?」3 「キリスト教の所作に酷似」
 14日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉 歴史編」に「異説あり 千利休切腹してない?」という記事が掲載され、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという中村修也氏の見解が紹介されていました。その根拠の一つとして細川三斎が利休の息子の道安に豊前国で300石の領地を与えたことが挙げられていましたが、道安の本拠地は堺なので、実はこの領地は利休に与えたのではないかと推測されています。もっとも、それ以上のことは記事には記されていませんが、「追放後の利休の消息はわからない」と記事にありますので、利休の足跡... ...続きを見る

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2018/05/18 13:03
三成の実像2275 朝日新聞記事「異説あり 千利休切腹してない?」2 中村修也氏の新説2
 14日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉 歴史編」に「異説あり 千利休切腹してない?」という記事が掲載され、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという中村修也氏の見解が紹介されていましたが、その続きです。  利休が生きていたことを示す史料として、三点挙げられていますが、その二つ目です。  1592年12月に秀吉が前田玄以に宛てた書状の中に、「ふしみのふしん(普請)の事りきうにこのませ候(そうろう)て(伏見城の建設のことは利休が好むようにデザインさせて)」と記されていることが挙げられていま... ...続きを見る

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2018/05/17 22:01
三成の実像2274 朝日新聞記事「異説あり 千利休切腹してない?」1 中村修也氏の新説
 14日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉 歴史編」に「異説あり 千利休切腹してない?」という記事が掲載され、利休は切腹しておらず、九州まで逃げ延びていたという中村修也氏の見解が紹介されていました。  それによると、「切腹させられたという従来説の根拠になっているのは、表千家四代の江岑宗左(こうしんそうさ)が1653年に紀州徳川家に提出した『千利休由緒書』」だが、「その成立は利休の『死』から60年以上経過しているうえ、年代などにも間違いが多く、一次史料としては信頼できない」と指摘されています。「さらに... ...続きを見る

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2018/05/16 19:00
三成の実像2273 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」4 組頭も首取り
 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」には「組頭自らが敵の首を討ち取ったケースが11例あ」り、「組頭が討死したケースが1例あること」から、「組頭も白兵戦において最前線で戦ったことを示しており、首取りをおこなって武功をあげるという点では、上級家臣である組頭であっても麾下の武士と同様に戦ったこと(組頭は単なる戦場における監督者の立場ではなかったこと)を意味している」と指摘されています。  前述したように、白峰氏の同論考で、「組頭... ...続きを見る

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2018/05/15 22:19
三成の実像2272 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」3 平時と同じ組編成
 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」には各組頭の名前と、各組別に首を取った人物名と首の数が記されており、「組頭になるのは福島家の大身家臣が多かったということになろう」と指摘されています。その根拠として挙げられているのは、福島正則の広島城主時代の「福島家分限帳」に記されている組頭らの石高です。  「関原首帳」と「福島家分限帳」の比較検討から、「平時における組編成がそのまま戦時における組編成に移行(スライド)できたと考えられ」... ...続きを見る

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2018/05/14 18:38
三成の実像2271 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」2 作成の経緯・生駒利豊書状
 白峰氏の「『関原首帳(福嶋家)』について」 (別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、「関原首帳」の作成の経緯について、次のように説明されています。  「首帳の末尾に、筆者は金森安衛門であり、(9月)15日の合戦について、(9月)17日に近江国上長原野(現滋賀県東近江市市原野町か?)に野陣し、午の刻(昼の12時頃)に陣所が定まり、少し時間があったので記した、と書かれている。よって、関ヶ原の戦いの翌々日に作成されたことがわかる。この首帳には、『此人、金森カ帳に落タリ』とか『右之三人、帳... ...続きを見る

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2018/05/13 21:27
石田三成の実像2270 通説の福島正則陣跡 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」1
石田三成の実像2270 通説の福島正則陣跡 白峰旬氏「『関原首帳(福嶋家)』について」1  写真は関ヶ原の戦いの際に、福島正則の本陣が置かれたとされる場所を4月に撮ったものです。松尾の春日神社のそばにあります。通説によると、福島隊は、宇喜多秀家隊と戦ったとされています。もっとも、現在、大半の関ヶ原本に掲載されている戦いの際の布陣図は、明治時代に陸軍参謀本部が作成したもので創作されたものだという見解が白峰旬氏によって示されていますし、今ある関ヶ原の各陣跡も、神谷道一氏の「関原合戦図志」(明治25年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し決めたもので、歴史的根拠はないということが高橋陽... ...続きを見る

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2018/05/12 21:46
三成の実像2269  「特別研究集会」48 奥井氏「伏見城跡調査成果」8 伊達政宗屋敷跡・土塁
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、桃山町正宗で行われた2箇所の発掘調査について、次のように説明されています。  「伊達政宗の伏見城上屋敷及び北に築かれた伏見城惣構の土塁推定地。地山を生かし厚さ0.5〜1.0メートルの整地土で盛土することで、平坦面を形成。一定単位で粗砂層を挟みいれており、工程や作業単位を推測することができる。直径0.9〜1.2メートルの壺掘地業を伴う建物を確認。また土塁は構築単位が把握でき、敷... ...続きを見る

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2018/05/11 16:33
三成の実像2268  「特別研究集会」47 奥井氏「伏見城跡調査成果」7 山内一豊・堀秀治屋敷跡
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、発掘調査された島津の北にある、桃山町永井久太郎において行われた発掘調査について、次のように説明されていました。  「山内一豊もしくは堀秀政(堀久太郎の下屋敷)の屋敷地推定地及び伊達街道隣接地。伊達街道沿いに西面する石垣及び石組溝を確認。昭和63年に南隣接地も調査が行われており、石垣及び石組溝が確認されている。武家屋敷地の造成に伴う石垣の前面には伊達街道の道路面構築土を確認。ま... ...続きを見る

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2018/05/10 16:14
三成の実像2267 「特別研究集会」46 奥井氏「伏見城跡調査成果」6 毛利輝元屋敷跡
 伏見城下の三成上屋敷や下屋敷の発掘調査もしてほしいところですが、私有地などの問題もあって、なかなか難しいのかもしれません。伏見城内にあった治部少輔丸は、現在は桃山御陵内にあるので発掘調査は無理でしょうが、それでも本丸跡にある明治天皇陵とは距離的に離れているので、できないことはないと思うのですが。  3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、府立桃山高校構内の発... ...続きを見る

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2018/05/09 11:15
三成の実像2266 「特別研究集会」45 奥井氏「伏見城跡調査成果」5 指月伏見城の北側
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、指月伏見城のすぐ外側の地点の調査結果も説明されていました。  指月伏見城の北側の、東西の真ん中付近の地点(JR桃山駅の南に当たります)の調査結果について、次のように記されています。  「浅野但馬守の屋敷地と商家街推定地。大名屋敷の南端部と立売の商家とみられる建物跡〔礎石群〕を確認。また火災に伴う焼土層を挟んで、桃山時... ...続きを見る

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2018/05/08 11:11
三成の実像2265 「特別研究集会」44 奥井氏「伏見城跡調査成果」4 指月伏見城の石垣
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、今まで行われた発掘調査の概要について説明されていましたが、私が2015年に行われた現地説明会に参加した発掘調査についても、説明されていました。それは最初の伏見城である指月伏見城内の発掘調査です。この現地説明会については、拙ブログで前述しましたが、奥井氏の報告では「寺沢広高の屋敷地推定地」であり、「西面する石垣(東側の石垣)と東面する石垣(西側の石垣)の2時期の石垣などを確認」し... ...続きを見る

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2018/05/07 10:34
三成の実像2264 「特別研究集会」43 奥井氏「伏見城跡調査成果」3 伏見城落城
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていましたが、3期の木幡山伏見城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で、焼失します。この点について、「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表の中で、次のように記されています。  「慶長5年(1600) 8月 石田三成方の西軍、伏見城を攻め落とす。本丸・松の丸・名護屋丸以下が焼亡」と。  実際に伏見城が落城したのは8月1日で、その時... ...続きを見る

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2018/05/06 11:01
石田三成の実像2263 中野等氏「石田三成伝」100 伏見城普請の際の真田信幸宛の書状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伏見城の再建(木幡山伏見城の築造)に関する、慶長2年のものと推定される9月25日付の真田信幸宛三成書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「わざわざ申し入れます。貴所が御下国されることを、おのおの(他の奉行衆であろう)へ告げましたが、時分柄でもあるので早々に御下国されて用事をすまされますよう。御手前の御普請は、今少しで完了するのですが、誰なりとも慥かな人物に後事を託されているのでしょうか。真田昌幸(房州)にあとを任されて御下国され... ...続きを見る

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2018/05/05 10:31
三成の実像2262  中野等氏「石田三成伝」 99 伏見城再築城に関する書状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長2年3月7日付で長盛・正家・三成・玄以、宮部継潤の連署状が取り上げられていることを拙ブログで前述しましたが、この指示に応じた3月10日付の徳川秀忠書状も取り上げられています。この書状は、次のように現代語訳されています。  「辻切・盗賊人などの件で送達された『御掟』の書き付けならびに御添状、詳らかに拝見し、趣旨を諒解しました。御指示の通り堅く申し付けます」と。  2月・3月に出された三成等奉行衆の連署状や秀忠書状について、次のように解説されて... ...続きを見る

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2018/05/04 11:14
三成の実像2261「特別研究集会」42 奥井氏「伏見城跡調査成果」2 中野氏「三成伝」98 再建
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていましたが、慶長の大地震によって、指月伏見城は崩壊し、2期が終わりました。  「特別研究集会資料集」の「伏見城関連出来事」の年表には、「慶長元年(1596) 閏7月 鳥羽・伏見を震源地とした慶長大地震が起こり、伏見城全壊。直後より木幡山に伏見城再建工事が開始される」と記されています。  大地震が起こった時には、三成は伏見城にい... ...続きを見る

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2018/05/03 11:05
三成の実像2260 「特別研究集会」41 奥井智子氏「近年の伏見城跡調査成果について」1 一期・二期
 3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の奥井智子氏の報告「近年の伏見城跡調査成果について」の中で、伏見城の概要について四つの画期に分けて説明されていました。  まずは一期は文禄元年(1592)からで、豊臣秀吉が甥の秀次に関白職を譲った後、隠居所として指月の丘に屋敷を築き始めた時期です。秀吉が関白職を譲ったのは、前年の12月のことで、鶴松を8月5日に亡くした後のことです。  ちなみに、鶴松が亡くなった時には、三成は奥州で起こった九戸政実の乱の鎮圧のため、奥州に赴いており、... ...続きを見る

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2018/05/02 10:13
三成の実像2259 「特別研究集会」40 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」10 瓦の同笵関係2
三成の実像2259 「特別研究集会」40 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」10 瓦の同笵関係2   写真は岡山城の鉄門跡の階段のところから下の段を2014年9月に撮ったものです。鉄門は復元されていませんが、不明門のすぐ南にあった門です。鉄門は秀家の時代はありませんでした。江戸時代は、下の段から階段を上り、鉄門をくぐって表書院に出ました。さらに不明門をくぐると、本殿御殿、天守に行くことができました。   さて、この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、瓦の同笵関係について述べられていましたが、昨日付ブログ記事の続きです。... ...続きを見る

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2018/05/01 00:39
三成の実像2258 「特別研究集会」39 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」9 瓦の同笵関係
三成の実像2258 「特別研究集会」39 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」9 瓦の同笵関係   写真は岡山城の不明門を2014年9月に撮ったものです。中の段の表書院から本段に入る入口に設けられた大型の城門で、普段はこの門は閉じられていたため、「不明門」と呼ばれました。宇喜多秀家期の岡山城本丸の図(特別研究集会資料集)を見ると、「初期不明門」と記されていますから、形や規模は違うかもしれませんが、秀家時代もこの門はあったということになります。   さて、この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、宇喜多秀家による2式の瓦... ...続きを見る

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2018/04/30 16:17
三成の実像2257 伏見城から移築された福山城の伏見櫓・伏見城の焼けた石垣発見
三成の実像2257 伏見城から移築された福山城の伏見櫓・伏見城の焼けた石垣発見 写真は福山城の伏見櫓を4日に撮ったものです。 フェイスブック(https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7)にも記しましたが、3日から一泊で福山に住む、大学時代からの友人で寺の住職をしているN君のところに泊めてもらい、一緒に福山城を訪ね、車で尾道まで行きました。福山城の天守は再建されたものですが、伏見櫓は築城当時のもので、伏見櫓はその名の通り、木幡山伏見城から移築されたものです。  伏見城は秀吉が建てましたが、関ヶ原の戦いの前哨戦で、家康方の... ...続きを見る

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2018/04/29 10:42
三成の実像2256 「特別研究集会」38 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」8 軒平瓦・軒丸瓦
 写真は岡山城の中の段の表書院跡を撮ったものです。天守がある本殿御殿の西側にあり、その北西の隅に月見櫓が建っています。表書院は中の段を拡張して、江戸時代に作られたもので、宇喜多秀家期の石垣も二ヶ所、この下(階段を下りたところ) に展示されています。表書院の広さが改めてうかがえますが、はかつてどういう部屋があったか、それを記したプレートが地面に付いています。宇喜多秀家期の岡山城本丸の地図(『特別研究集会資料集』)には、中の段の礎石建物が記されていますが、規模が小さく、江戸時代(元禄13年〔1700... ...続きを見る

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2018/04/28 11:08
三成の実像2255 「特別研究集会」37 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」7 瓦生産
  写真は岡山城の中の段の北西の隅に建っている月見櫓を2014年9月に撮ったものです。廊下門から中の段に入ると、すぐに見えます。廊下門は再建ですが、月見櫓は、江戸時代の池田忠雄が建てた当時のものです。  この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、宇喜多秀家時代の瓦生産について、次のように指摘されていました。  「秀家による2式期には、都市としての岡山に付属する大規模な瓦師集団=瓦町が成立したと考えられる。すなわち、2式の瓦... ...続きを見る

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2018/04/27 10:35
三成の実像2254 「特別研究集会」36 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」6 城下町の変遷
 写真は岡山城の搦手門である廊下門を2014年9月に撮ったものです。岡山城へはここから入りましたが、本丸の北西にあり、南にある中の段に出ます。廊下門は門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えており、部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されていたことから、廊下門と呼ばれていました。廊下門が造られたのは江戸時代の池田忠雄の時代ですが、搦手門は宇喜多秀家の時代からありました。  この3月に行われた「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で... ...続きを見る

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2018/04/26 11:38
三成の実像2252 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」10 陣跡巡り9
 拙ブログで報告したように、4月10日に高橋陽介氏の新説に基づいた関ヶ原の戦いの陣跡巡りをしました(廻り残したところもありますので、第一弾と考えています)が、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、縄張り図を作成した石田章氏について次のように記されています。  「論者は石田章氏に、石田三成藤下本陣説を批判的な見地から検証し... ...続きを見る

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2018/04/24 10:22
三成の実像2251 「特別研究集会」34 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」4 広島城と金箔瓦の共通性
写真は岡山城の本段東側の高石垣を2014年の9月に撮ったものです。説明掲示板には次のように記されています。  「宇喜多秀家が慶長2年(1597)までに築いた石垣で、加工を施さない自然石を用いている。隅角は岩盤の高まりに載っているが、西寄りでは石垣の基底が3メートル近くも埋まっていて、本来の高さは15.6メートルもある。関ヶ原合戦以前の石垣として全国屈指の高さである」と。   さて、「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、 金箔瓦が秀家... ...続きを見る

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2018/04/23 10:47
三成の実像2250 「特別研究集会」33 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」3 本丸の変遷
  写真は宇喜多秀家時代の岡山城中の段の西辺石垣を2014年9月に撮ったものです。この石垣の写真は同年の9月21日付の拙ブログ記事に貼付しましたが、同じ石垣ながら違う角度から撮っています。中の段の階段を降りて見ることが出来ますが、ここに秀家時代の石垣が埋まっているのは、江戸時代の初めに城を造成する時、この石垣を埋め込んで中の段を北に大きく広げたからです。この石垣を埋め込んだ造成土からは金箔を押した桐の文様の瓦が出土しています。金箔瓦や桐紋瓦は、秀吉が一族や特定の大名、一部の家臣に使用を特別に許し... ...続きを見る

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2018/04/22 11:54
三成の実像2248 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り7 義弘陣地2
 写真は、山中の松尾山眺望地を10日に撮ったものです。若宮八幡神社のところを上がった西側にあり、東側には大谷吉継の陣跡碑があります。高橋陽介氏の新説によれば、ここは島津義弘の陣地があったとされている場所です。  上記の写真の手前に見えている線路は東海道本線、その向こうに見えている道路が、旧中山道であり、その向こうのこんもりした丘に島津豊久の陣地があったというのが、高橋氏の新説です。向こうに聳えるのが、小早川秀秋が陣を置いたとされる松尾山ですが、松尾山に対して、前備が豊久、二番備が義弘であったと... ...続きを見る

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2018/04/20 18:20
三成の実像2247 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り6 義弘陣跡
 写真は、山中の若宮八幡神社を10日に撮ったものです。ここの上に、高橋陽介氏の見解によれば、島津義弘の陣跡がありました。従来、この付近は大谷吉継が陣を置いたとされているところです。このことについて、高橋氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)」)には、次のように記されています。  「松尾山に対する西軍の二番備である島津隊の陣地は、自害峰を通過し、それよりさらに西へ約165メー... ...続きを見る

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2018/04/19 10:18
三成の実像2246 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り5 三成陣地後備
 写真は、高橋陽介氏の見解に基づく関ヶ原藤下の三成の陣地後備があった丘陵を撮ったものです。今は住宅地になっています。  この後、さらに西に進んで山中の大谷吉継の陣跡とされる場所、高橋氏の見解に従えば島津義弘の陣跡である場所に行きましたが、宇喜多隊と島津家隊の間にあった池があったとされる低湿地の方には回っている時間はありませんでした。場所的には、宇喜多秀家・小西行長陣地と島津豊久陣地の間に当たります。豊久の陣地は義弘の陣地の南側にあり、松尾山の秀秋に対して豊久が前備、義弘が後備だったとするのが高... ...続きを見る

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2018/04/18 17:42
三成の実像2245高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り4 宇喜多・小西隊の陣跡
 写真は東海道新幹線の線路の上に架かる橋のところから関ヶ原藤下(とうげ)の自害峰の南側を10日に撮ったものです。この橋の後ろ(南側)に、高橋陽介氏の見解によれば、宇喜多秀家・小西行長の陣跡があった高台があります。  従来の説によると、小西行長の陣跡は北天満山、宇喜多秀家の陣跡は南天満山にあったとされており、関ヶ原に陣跡碑が建っており、私も何度となく足を運んでいます。また従来の説では、その東の小池に島津義弘陣跡、その北東の笹尾山に三成陣跡があったとされています。  この従来の説では、島津家家臣... ...続きを見る

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2018/04/17 11:06
三成の実像2244 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り3 三成陣跡
 写真は関ヶ原藤下(とうげ)の自害峰にある土塁跡を10日に撮ったものです。高橋陽介氏の見解によれば、ここが三成の陣跡があったとされている場所です。根拠は、徳川家康の側近の戸田氏鉄の後年の記述である「戸田左門覚書」です。  すなわち、「治部少本陣は松尾山の下自害か岡と云所に陣す、所の者不吉也と云ふと云々、」と。  この場所には、「自害峯の三本杉」があり、壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の首が葬られていると伝わっています。壬申の乱は関ヶ原の藤下も戦いの場所になり、大海人皇子と大友軍が戦闘しま... ...続きを見る

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2018/04/16 10:07
三成の実像2243 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り2  吉継陣跡
 写真は関ヶ原の不破関資料館の入口付近を10日に撮ったものです。  この上のところに資料館がありますが、高橋陽介の見解に基づくと、この付近が大谷吉継の陣跡があったところだと思われます。この場所は、台地になっており、旧中山道から見れば、確かにかなり高低差があります。陣を置くにはふさわしい場所という気がしました。  高橋氏の見解によれば、三成はこの西にある藤下に陣を置いており、島津義弘は、現在大谷吉継の陣跡とされている山中に陣を置いたとされていますから、大谷吉継は東から攻めてくる家康方の最前線に... ...続きを見る

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2018/04/15 10:29
三成の実像2242 高橋陽介氏の新説に基づく関ヶ原の戦いの陣跡巡り1 
 9月10日、青春18切符を利用して、関ヶ原へ日帰りで行ってきました。関ヶ原と云えば、橋を渡り関ヶ原駅の北に出て、松平忠吉・井伊直政陣跡、東首塚から北に向かい、田中吉政陣跡を経て、関ヶ原町歴史民俗資料館を見学した後、陣場野の家康最後の陣跡、関ヶ原決戦地の碑を経て(黒田長政・竹中重門陣跡に寄るコースもありますが)、笹尾山の石田三成陣跡に行くコースが一般的です。むろん、途中を省いて、笹尾山に直行する場合もしばしばありました。特に笹尾山で「関ヶ原合戦祭り」のようなイベントがあった場合はそうですが。また... ...続きを見る

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2018/04/14 10:40
三成の実像2241 「特別研究集会」32 乗岡氏「宇喜多秀家の備前岡山城」2 大西泰正氏の書との違い
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、天守の竣工は慶長2年(1597)のこととされていると説明されていましたが、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、異なる見解が示されています。  すなわち、「天守の竣工は、惣国検地の時期=文禄3年のことであったらしい」と。それは森俊弘氏の見解であることが示されています。このあたりは、今後の研究課題でしょう。  また乗岡氏の報告では、岡山城の大改修については、次のよう... ...続きを見る

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2018/04/13 10:35
三成の実像2240 「特別研究集会」31 乗岡実氏報告「宇喜多秀家の備前岡山城」1
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の乗岡実氏の報告「宇喜多秀家の備前岡山城」の中で、備前岡山城は宇喜多秀家によって築城され、関ヶ原合戦後、小早川秀秋が城主となったが、現在に受け継がれる城郭構造が完成するのは寛永9年(1632)に亡くなった池田忠雄が城主であった時であると説明されていました。  また岡山城の本丸の位置は極端に北東に偏っていて、防御正面である南から西には幾重にも曲輪があるのに対し、北から東方向からの本丸は旭川は取り巻くのみだが、これは少なくとも元和偃武までは、毛利輝元や... ...続きを見る

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2018/04/12 18:04
三成の実像2238 「特別研究集会」29 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」4
 今日、関ヶ原藤下の自害峰を訪ねてきました。高橋陽介氏は、ここに三成の本陣があったという新説を出されています。この新説については、拙ブログで以前取り上げましたが、今日のことは改めて詳述します。    さて、「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、表面波探査の結果に基づいた考察の続きです。  本丸のすぐ北にある北の丸を堀が囲んでいますが、その北ノ丸北堀跡が表面波探査によって確かめられました。すでに1998年度の発掘調査によって北ノ... ...続きを見る

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2018/04/10 18:47
三成の実像2237 「特別研究集会」28 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」3
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、表面派探査の結果に基づいた考察が詳細に述べられていました。  聚楽第の本丸の北に北之丸があり、その北側には従来は何もないと考えられてきましたが、聚楽第全体を取り囲むように北外堀があったと推定されていました。「特別研究集会資料集」には、「平成24年調査トレンチ位置図と従来の聚楽第跡復元案」が掲載されていますが、北外堀は書かれていません。また新創社編「京都時代MAP 安土桃山編」(光村推古書院)... ...続きを見る

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2018/04/09 10:34
三成の実像2236 「特別研究集会」27 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」2
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、聚楽第の変遷についての後半部分について、「特別研究集会資料集」には次のように記されており、報告でも同様の説明がされていました。  「天正19年(1591)1月、聚楽第の周囲には諸国大名の屋敷が築造され(『兼見卿記』)、聚楽第から内裏までの空間に東西に連なった。同2月に御土居構築が開始され(『時慶記』)、聚楽第を中心とする『洛中惣構』が完成する。  天正19年(1591)12月に秀吉が隠居し... ...続きを見る

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2018/04/08 10:35
三成の実像2235 「特別研究集会」26 古川匠氏報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」1 
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の古川匠氏の報告「聚楽第跡の発掘調査と表面波探査」の中で、聚楽第の変遷について、「特別研究集会資料集」には次のように記されていますし、報告でも同様に説明されていました(前半部分)。  「(前略) 天正11年(1583)に築城した大坂城を本拠地とした秀吉は、京都での居所として、当初、妙顕寺(妙顕寺城)を用いていた。  天正12年(1584)7月に関白に就任し『豊臣』と改姓した秀吉は、平安宮跡地の『内野』に聚楽第を造営した。造営開始は、『多聞院日記』... ...続きを見る

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2018/04/07 14:31
三成の実像2234「特別研究集会」25小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」5
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、水口岡山城の終焉についても説明されていました。  関ヶ原の戦いでは、水口岡山城主であった、五奉行の長束正家は三成方に付き、吉川広家・毛利秀元らと共に南宮山に陣を置きましたが、戦いの際は兵を動かしませんでした。三成方が敗れると、逃走し、水口岡山城に入りますが、家康方の池田長吉・亀井玆矩に城を囲まれ、開城します。その後、正家は蒲生郡日野で自刃したと伝わります。  開城された城は池田... ...続きを見る

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2018/04/06 10:36
三成の実像2233特別研究集会」24小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」4
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、水口岡山城の城下についても考察が加えられていました。  水口は古くから街道が通過する場所であり、のちに「近世東海道」となる東西道路と、「伊賀道」「多賀彦根日野道」と呼ばれる南北道路の結節点が「西追手」の南側にあたると説明されていました。八幡山城も佐和山城も「城に隣接する形で主要街道が存在する」という下高大輔氏の見解がありますが、水口岡山城も同様だったことがわかります。   もっとも、水口岡山... ...続きを見る

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2018/04/05 18:40
三成の実像2232 「特別研究集会」23 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」3
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、総合調査の成果から見た水口岡山城の構造と変遷について、詳しく述べられていました。  石垣は発掘調査の結果、上段は高石垣、下段は腰巻石垣または岩盤を削り出した壁面と切岸を組み合わせた二段構造であったと推定されていました。高石垣の高さは8〜9メートル、腰巻石垣と岩盤を壁状に削り出した壁面の高さが2メートル程度、それぞれの上方は傾斜約30度の切岸となっており、曲輪全体を囲むように石垣が築かれたと考え... ...続きを見る

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2018/04/04 21:44
三成の実像2231 「特別研究集会」22 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」2 
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」で、総合調査の成果から見た水口岡山城の構造と変遷について、詳しく述べられていました。  数年前に、水口岡山城に登ったことがあり、その時のことは拙ブログでも記しました。登っているだけに、「特別研究集会資料集」に掲載されている水口岡山城の概要図もその報告の内容もよく理解できました。私が登った後に、発掘調査の結果、天守が二つあったのではないかということが新聞記事に載りました。もっとも、小谷氏の報告では、... ...続きを見る

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2018/04/03 00:05
三成の実像2230 「特別研究集会」21 小谷徳彦氏報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」1 
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、小谷徳彦氏の報告「東海道の拠点城郭 水口岡山城」では、水口岡山城の歴史について次のように説明されていました。  水口岡山城は天正13年に中村一氏が大岡山(現在の古城山)に築城されたとされ、その典拠として享保19年(1734)にまとめられた「近江輿地志略」が挙げられていました。石垣の石材は三雲城、用材や瓦などは矢川城から調達したと伝えられ、その典拠として「矢川雑記」「水口藩士某覚書」が挙げられていました。  一氏は天正13年5月に岸和田城から甲... ...続きを見る

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2018/04/02 10:34
三成の実像2229「特別研究集会」20 十文字健氏報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」3
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、十文字健氏の報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」の中で、天守の瓦についても述べられていました。  天守台の調査ではコンテナ550箱以上の遺物が出土し、ほとんどが瓦であったこと、礎石上面から出土した鯱瓦や豊臣大坂城と同笵の軒丸瓦、聚楽第に類例のある軒平瓦など16世紀末頃の瓦で、築造年代が豊臣政権期であることを示していること、天守台の盛土からは鯱瓦やコビキB技法の瓦などが出土したこと、現時点での天守礎石の年代を文禄〜慶長初頭とみるべきと... ...続きを見る

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2018/04/01 10:43
三成の実像2228「特別研究集会」19 十文字健氏報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」2
  写真は昨年12月に郡山城の天守台を東側から撮ったものです。整備もきちんとされていて、見晴らしもよく効いていました。数年前に訪れた時には立入禁止で、天守台の様子は何もわかりませんでしたが、今はいい観光スポットになっています。その時は写真は、フェイスブックの方で、多数載せています。 ...続きを見る

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2018/03/31 11:01
三成の実像2227「特別研究集会」18 十文字健氏報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」1
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、十文字健氏の報告「郡山城天守台からみえる豊臣期の築城の様相」の中で、郡山城の立地と構造について、次のように説明されています。  「城郭の中心部は丘陵上に築かれ、東方の低地部分に城下町が位置する。比高差は20〜30メートル。天守台が位置する本丸付近は東方への眺望が特に開けており、城下や奈良盆地北半部を広く見渡すことができる。  城郭は本丸を中心に内堀・中堀・外堀によって城下町までを囲む惣構えの構造である。内堀と中堀には石垣が設けられ、現在も廃城... ...続きを見る

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2018/03/30 10:06
三成の実像2226 「織豊期城郭研究会in佐和山」17 市川創氏報告「豊臣期大坂城」5 瓦 
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、市川創氏の報告「豊臣期大坂城に関する調査・研究の現状と課題」の中で、確実に豊臣期の瓦を焼成した遺構として、2002年に発見された九基の達磨窯、桐紋の木製瓦笵や「家次」銘を含むヘラ書き資料、「天」銘の刻印瓦などが挙げられています。  「家次」銘については四天王寺瓦工棟梁に多い名で、京都市の妙法院大書院鬼瓦銘「慶長8年瓦大工四天王寺住人藤原朝臣宗左衛門6月吉日 家次」について、寺島家2代宗左衛門に比定できるとの黒田慶一氏の見解が取り上げられています... ...続きを見る

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2018/03/29 10:50
三成の実像2225 「特別研究集会」16 市川創氏報告「豊臣期大坂城」4 三ノ丸形成・陶磁器
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、市川創氏の報告「豊臣期大坂城に関する調査・研究の現状と課題」の中で、大坂城の三の丸について、松尾信裕氏の見解が紹介されていました。本丸・二の丸の南部に約250メートルの方形地割を想定し、大坂町中屋敷替により形成された「三ノ丸」であり、かつ武家の屋敷地であったというものです。  伏見城の場合は、どの武将の屋敷跡であったかは割とわかっていますが、大坂城の場合は、武家の屋敷はよくわからないことが多いようです。三成や宇喜多秀家の屋敷が備前島に、細川忠興... ...続きを見る

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2018/03/28 11:03
三成の実像2224 「特別研究集会」15 市川創氏報告「豊臣期大坂城」3 山里丸発掘調査
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、市川創氏の報告「豊臣期大坂城に関する調査・研究の現状と課題」の中で、前述したように、大坂城跡の本丸・二ノ丸部分は特別史跡に指定されているため、徳川期の下に埋没している豊臣期大坂城の具体的な遺構を検出した発 掘調査は三ケ所に留まっていると述べられていましたが、その続きです。  そのうちの一つは、本丸から北に一段下がった山里丸付近での調査ですが、山里丸は大阪夏の陣で秀頼と淀殿が自刃したところです。  2009年度に実施された調査では、南区で現地表... ...続きを見る

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2018/03/27 10:39
三成の実像2223「特別研究集会」14 市川創氏報告「豊臣期大坂城」2 詰ノ丸発掘調査
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、市川創氏の報告「豊臣期大坂城に関する調査・研究の現状と課題」の中で、前述したように、大坂城跡の本丸・二ノ丸部分は特別史跡に指定されているため、徳川期の下に埋没している豊臣期大坂城の具体的な遺構を検出した発掘調査は三ケ所に留まっていると述べられていましたが、その続きです。  そのうちの一つに、今の本丸の東部にある金蔵で、84年に実施された発掘調査で発見された石垣があり、豊臣期詰ノ丸の南東隅に位置し、詰ノ丸と中ノ段をつなぐものだと考えられると述べら... ...続きを見る

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2018/03/26 10:27
三成の実像2221「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」12下高大輔氏報告5 彦根城との共通性
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」の中で、佐和山城と彦根城の共通性について述べられ、佐和山城をそっくりそのまま新城である彦根城に移しただけと言っても過言ではないと指摘されていました。  具体的には、「本丸・西之丸・水之手・太鼓丸などの共通名称とその位置関係は全く同じであり、名称が異なりながらも彦根城鐘之丸と佐和山城伝千畳敷は城郭全体平面構造の中で同じ位置関係となっており、どちらも御殿があったことが考えられる曲輪である」と。  そうい... ...続きを見る

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2018/03/24 18:32
三成の実像2219「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」10 下高大輔氏報告3 もちの木谷
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」の中で、三成屋敷があったとされる「もちの木谷」について検討されています。注目すべきは、もちの木谷に城主居館が築かれたのは三成時代ではなく、天正13年から佐和山城主になった堀尾吉晴の時代だったと指摘されていたことです。  堀尾は佐和山城の管理と周辺の豊臣政権直轄地である蔵入地の管理を委ねられ、三成も天正19年に佐和山城付き蔵入地代官となり、「御城米蔵」を管理しましたが、その管理屋敷として、「御城米蔵」の... ...続きを見る

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2018/03/22 10:38
三成の実像2218「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」9 下高大輔氏報告2 東麓の堀・土塁
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」の中で、佐和山の東麓に残る堀・土塁遺構の成立時期について、天正13年に佐和山に入城した堀尾吉晴段階だと指摘されていました。  その根拠として、同じ天正13年に築城された八幡山城・水口岡山城と佐和山城の城郭構造が近似していることが挙げられていました。「山中」「山麓」「城下町」という3つのゾーンで構成されており、「山麓部」と「城下町」を画する堀と土塁がセットの防御・区画施設が存在しているが、それは近世城郭... ...続きを見る

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2018/03/21 10:06
三成の実像2217「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」8 下高大輔氏報告1 本丸復元図
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の、下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」の中で、佐和山で今まで発見されたいくつかの石垣の分布に基づいた本丸周辺平面復元案の図が示されていましたが、この図はこれまでの下高氏の講演会や現地説明会でも取り上げられていました。  これらの石垣のうち、われわれが佐和山で普通に目にできる二個の石垣はチャート石材、そのすぐ南西にある岩盤はチャート、そのそばの小さな岩は湖東流紋岩、佐和山城研究会の人々によって発見された南西斜面にある石垣は湖東流紋岩とチャー... ...続きを見る

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2018/03/20 10:54
三成の実像2216「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」7 太田浩司氏報告2 秀次事件・城下町
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の太田浩司氏の報告「佐和山城下町の復元ー絵図と古文書から探る」の中で、秀次事件に三成が深く関与していたということが述べられていましたが、その見解にはうなずけないものがありました。  太田氏の見解は藤田達生氏の見解に基づくもので、藤田氏の名前も挙げられていました。藤田氏の見解は、以前拙ブログでも取り上げましたが、三成ら奉行衆が、秀次を排除し、自分たちの大名化を図った政変だと捉えられています。確かに、この事件の後、三成は正式に佐和山城19万4千石を、長... ...続きを見る

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2018/03/19 10:46
三成の実像2215「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」6 太田浩司氏報告1 大手はずっと東麓
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の中での、太田浩司氏の報告「佐和山城下町の復元ー絵図と古文書から探る」の内容は、中井均の報告と重なる部分も多かったのですが、一番大きな違いは、佐和山城の大手はずっと東麓にあったという点です。  その根拠として佐和山の地形と構造が挙げられ、地形は西麓北部は山際まで入江内湖が迫り、西麓南部も内湖岸の低湿地水田が広がっており、山間の谷に小規模な城郭施設らを造ることは可能だが、とても永続的な城下町を設定できる環境にないと指摘されています。構造も、武家屋敷が... ...続きを見る

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2018/03/18 10:32
三成の実像2214「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」5 中井均氏の報告5 発掘調査
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の中での、中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造」の続きですが、佐和山城下町の発掘調査についての成果、それについての考察が加えられています。  東麓の北側にある「奥ノ谷」の調査では、溝によって区画された屋敷地と道路遺構が検出され、武家屋敷の一画であることが明らかとなったと述べられていました。また出土遺物には信楽・備前の擂鉢、瀬戸美濃の天目茶碗、瀬戸の茶碗、青磁椀などがあり、国産陶器は16世紀後半に位置づけられ、こうした遺物からは「奥ノ谷」地区は豊臣... ...続きを見る

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2018/03/17 10:42
三成の実像2213「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」4 中井均氏の報告4
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の中での、中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造」の続きですが、佐和山城の瓦については、コビキA手法と呼ばれる糸引痕を残す古い製作技法の瓦と、コビキB手法と呼ばれる鉄線引痕を残す新しい技法の瓦が出土しており、「おそらくコビキA手法の瓦が丹羽長秀、堀秀政段階に用いられたもので、コビキB手法の瓦が堀尾吉晴、石田三成、井伊直政段階に用いられたものと考えられる」と指摘されていました。また瓦が散布しているのは、本丸、西の丸、二の丸、太鼓丸、法華丸であることも述... ...続きを見る

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2018/03/16 10:35
三成の実像2212「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」3 中井均氏の報告3 石垣と天守
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の中での、中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造」の続きですが、戦国時代の佐和山は、山城のみで機能していた可能性が高く、居住空間も山頂部に構えられていたのではないかと指摘されています。普通の山城は、山頂の軍時空間としての詰城、山麓の生活空間としての居館という二元構造になっているが、佐和山城の山麓居館と考えられてきた東側の「殿町」地区からは、発掘調査では戦国時代にさかのぼる遺構や遺物が、ほとんど出てこないし、広大なので、居館ではなく、堀に囲まれた屋敷群... ...続きを見る

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2018/03/15 09:57
三成の実像2211「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」2 中井均氏の報告2 佐和山城の四期
 「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」の中での、中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造」の続きですが、佐和山城の構築年代について、四つの時期に分けて説明されていました。このことは、今は定説になっており、拙ブログでも今まで取り上げてきましたが、新たな見解も示されていますので、改めて記します。  第1期は、元亀2年(1571)までの浅井氏時代です。佐和山城の創建は不明なものの、現在のところ、佐和山城の初見は、金剛輪寺の「下倉米銭下用帳」の天文13年(1544)の記述であると述べられていまし... ...続きを見る

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2018/03/14 09:58
石田三成の実像2210「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」1 中井均氏の報告1 三つの画期
  3日、4日に「織豊期城郭研究会in佐和山 特別研究集会」が鳥居本地区公民館で行われましたが、まず3日の午後は「佐和山城の研究」と題して中井均氏の報告「佐和山城と城下町の構造」、太田浩司氏の報告「佐和山城下町の復元」、下高大輔氏の報告「豊臣期佐和山城の形成過程」がありました。  まず中井氏の報告ですが、はじめに佐和山城の研究が始まったのは1970年代だと述べられていました。まだ半世紀経っていないことに驚きましたが、それだけ敗者の歴史はないがしろにされてきた証と云えます。研究を始めたのは、海津... ...続きを見る

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2018/03/13 11:23
三成の実像2209 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」9 島津退却戦
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、「島津 退き口」について、島津隊が家康の本陣に突撃しようとしたという話を否定されていますが、それに関して、現在ある「徳川家康最後の陣跡」について、「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)」の中で明確に否定したことが、注に述べられています。そもそも、各武将の陣跡が、確たる根拠もないま... ...続きを見る

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2018/03/12 11:24
三成の実像2208 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」8 覚書との整合
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、西軍(三成方)諸隊布陣地の比定がされ、島津家家臣の神戸五兵衛の後年の記述である「神戸五兵衛覚書」との整合性について述べられています。  その原文が挙げられ、次のように解説されています。  「島津隊は9月14日の夜に大垣を出発し、夜の明けないうちに関ヶ原へ到着した。  夜明け... ...続きを見る

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2018/03/11 10:32
三成の実像2207 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」7 諸将布陣地4
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、西軍(三成方)諸隊布陣地の比定がされていますが、その続きです。  現在、脇坂安治陣地跡とされている台地について、次のように解説されています。  「河岸段丘の北側に土塁が設けられており、地図中『宇喜多秀家・小西行長』の陣地と正対しているように見えるが、ここに小早川隊の一部が布陣... ...続きを見る

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2018/03/10 11:03
三成の実像2206 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」6 諸将布陣地3
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、西軍(三成方)諸隊布陣地の比定がされていますが、その続きです。  大谷吉継の布陣場所は、石田三成藤下陣地後備の東側に比定されています。不破の関跡の北側に当たる地域です。高橋氏の同調査報告書では、次のような解説がされています。  「島津豊久の家老宮之原才兵衛の後年の記述によると... ...続きを見る

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2018/03/09 11:07
三成の実像2205 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」5諸将布陣地2  
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、西軍(三成方)諸隊布陣地の比定がされていますが、その続きです。  三成陣地後備の西側に島津義弘山中陣地があったと記されており、次のように解説されています。  「松尾山に対する西軍の二番備である島津隊の陣地は、自害峰を通過し、それよりさらに西へ約165メートル進んだ場所に位置し... ...続きを見る

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2018/03/08 11:24
三成の実像2204 高橋氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」4  諸将布陣地1
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、西軍(三成方)諸隊布陣地の比定がされています。  それによると、石田三成藤下陣地前備が「自害峰」とされています。その解説に次のようなことが記されています。 「藤下は『とうげ』と読む。従来、『戸田左門覚書』における『自害か岡』は笹尾山のことであると考えられていた。  丘陵の南側... ...続きを見る

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2018/03/07 12:23
石田三成の実像2203 高橋陽介氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」3
 高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告(縄張り図作成 石田章氏)」【東海古城研究会発行の「城」224号所載】の中で、前述したように、石田三成藤下本陣説の論拠および根拠史料が五点示されていますが、三成方が大垣城を出てこの方面に移動したのは、謀反を起こした小早川秀秋を仕置するためだったという見解が示されています。  そのうちの一点は、「島津豊久の家老・宮之原才兵衛の後年の記述、および島津家家臣・... ...続きを見る

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2018/03/06 10:03
石田三成の実像2201 高橋陽介氏「石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」1
東海古城研究会発行の「城」224号に、高橋陽介氏の「関ヶ原新説(西軍は松尾山を攻撃するために関ヶ原へ向かったとする説)に基づく石田三成藤下本陣比定地『自害峰』遺構に関する調査報告」(縄張り図作成 石田章氏)が掲載されています。  関ヶ原の戦いにおける石田三成の陣跡が、通説の笹尾山とは違って、関ヶ原町藤下であるとの高橋氏の見解はテレビ番組「諸説あり 関ヶ原の戦い 第二弾」でも取り上げられ、そのことは拙ブログでも以前に紹介しました。  高橋氏の同調査報告では、まず遺構調査に至る経緯が述べら... ...続きを見る

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2018/03/04 00:07
石田三成の実像2200 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」17 家康暗殺計画2
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、三成の失脚及びその後の家康暗殺計画を通じて、家康は豊臣系武将の取り込みに成功したことが指摘され、次のように記されています。  「武功派と総称される豊臣系大名の中でも、黒田長政・藤堂高虎・福島正則は、早くから徳川方の立場を表明している。そして、家康は、福島正則・蜂須賀一茂・加藤清正・黒田長政とは縁辺により、長岡忠興・浅野長晟からは人質を徴収することにより関係を強め、統... ...続きを見る

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2018/03/03 00:07
石田三成の実像2199 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」16 ターニングポイント
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、「対立構造に変化をもたらしたターニングポイントは、慶長4年閏3月の三成の失脚であろう」と指摘されています。  具体的には、「三成が奏者を務めていた相良氏は徳川氏へ接近し、この時、真田信幸も徳川寄りの立場を取っていたことが確認できる」と記され、後者の根拠として、閏3月25日付の真田信幸宛徳川秀忠書状が挙げられています。   この書状及び前後の状況について、笹本正治... ...続きを見る

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2018/03/02 10:42
石田三成の実像2198 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」15 家康暗殺計画1
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、三成が失脚して、約半年経って起こった、家康暗殺計画をめぐる事件について、「慶長年中ト斎記」とカンハンの「看羊録」の記述が比較され、その共通点が次のように記されています。  「浅野長政が暗殺計画者の中に名を連ねていないこと、増田長盛の証言が事件の決め手になったという点である」と。  それなら「暗殺計画に加わっていない浅野長政が何故、謹慎処分になったのか」という疑問に... ...続きを見る

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2018/03/01 10:45
石田三成の実像2197 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」14 三成の処分への不満
2月は和歌山県の湯浅に一泊、石川県の山中温泉に二泊してきましたが、その時のことはフェイスブックの方で写真入りで紹介しています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  またこの土日は、彦根の鳥居本で三成の居城だった佐和山城及び豊臣系城郭についての講演会、シンポジウムが行われるので、聴きに行く予定です。   さて、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究... ...続きを見る

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2018/02/28 10:54
石田三成の実像2196 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」13 三成襲撃事件4
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、七将による石田三成襲撃事件で、三成が佐和山に引退した後、「家康は閏3月21日に毛利輝元と誓紙を交わしているが」、「その中で家康は輝元を『兄弟』、輝元は家康を『親子』と表現し、両者の間で明確に上下関係を表された。こうして、毛利・四奉行連合は瓦解した」と記されています。  もっとも、「瓦解した」とありますが、その翌年、三成が挙兵したのをきっかけに、石田・毛利連合政権(白... ...続きを見る

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2018/02/27 10:50
石田三成の実像2195 水野氏「家臣間の対立構造と推移」12中野氏「三成伝」97 三成襲撃事件3
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、七将による石田三成襲撃事件の際、三成が対抗したことについて次のように記されています。  「三成は、毛利輝元・上杉景勝の二大老と、増田長盛ら三奉行、寺沢正成・小西行長・大谷吉継らと連携し、『徳川党』と対峙した」と。  このことは、前述したように、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)の中で記されていることであり、出典は毛利元康宛毛利輝元書状です。  この時の三成... ...続きを見る

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2018/02/26 11:11
石田三成の実像2194 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」11 三成襲撃事件2
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、七将による石田三成襲撃事件の責任を取って、三成が佐和山に引退する2日前の慶長4年(1599)閏3月8日付で、三成方であった島津義弘・島津忠恒・寺沢正成(広高)・立花親成(宗茂)が交わした誓紙が史料として取り上げられ、次のように解説されています。  「談合で何が話し合われたかは定かではないが、『不残心底互申出候之儀』の文言から、今後の動向について腹を割った話し合いが行... ...続きを見る

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2018/02/25 10:52
石田三成の実像2193 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」10 三成襲撃事件1
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前田利家の死の直後に起こった、七将による石田三成襲撃事件について、次のような見解が示されています。  すなわち、「従来、この事件は、加藤清正ら七将と三成の『私戦』とされてきたが、実際は、家康の縁辺問題から続く、『徳川党』と反徳川勢力との政争の延長線上にあった。七将は、事件において常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまで家康に容認された範囲に限られていのである」と。... ...続きを見る

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2018/02/24 10:24
石田三成の実像2192 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」9 庄内の乱の収拾
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、島津領における庄内の乱に関して、「家康は乱の収拾を通じて、九州の諸大名への影響力を高めていく」と指摘され、それを示すものとして、7月9日付の島津忠恒宛寺沢正成(広高)書状が史料として取り上げられています。  その書状について、次のように解説されています。  「正成は庄内の乱の収拾に当たって、家康の指示を受けていたことがわかる。寺沢正成は、九州の諸大名と繋がりを持っ... ...続きを見る

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2018/02/23 10:33
石田三成の実像2191 水野氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」8 中野氏「石田三成伝」96
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、島津忠恒による宿老の伊集院幸侃殺害に関する、三成の対応について、次のように記されています。  「報せを聞いて激怒した三成は、3月15日付で領国にいた島津義久に充てて、詳細を告げている。結局、幸侃の生害自体は、忠恒の『短慮』によるものとして処理され、三成も穏便に済ませることとした」と。  忠恒の行為をこれ以上問題視するのは得策ではないと三成は判断したのでしょうが、三成寄りの幸侃が殺されたことには憤懣やるかたない思いがあったに違いありません。  こ... ...続きを見る

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2018/02/22 10:42
石田三成の実像2190 水野氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」8 中野氏「石田三成伝」96
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の縁辺問題の終結に関して、次のように記されています。  「慶長4年2月5日に家康と四大老・五奉行の間で誓紙が交換され、また、2月29日に前田利家が伏見の徳川邸を訪問したことにより、家康と『前田系勢力』との関係は改善された。こうして、反徳川で団結していた四大老・五奉行の中から『前田系勢力』が外れたこととなった」と。  家康は、この後、七将による三成襲撃事件の責任... ...続きを見る

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2018/02/21 17:50
石田三成の実像2189 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」7 家康の縁辺問題2
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の縁辺問題に関する、村井長明の「利家夜話」の記述が引用され、次のように内容が要約されています。  「奉行衆らは、十一ヶ条の弾劾状を作成し、前田利家の了承のもと、家康の許に糾明使を派遣している。そして、家康の返答次第で前田利家が豊臣秀頼の名代として家康を征討するというものであった」と。  そして、この事件について、次のような見解が示されています。  「四大老・... ...続きを見る

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2018/02/20 10:13
石田三成の実像2188 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」6
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、前述したように、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間の縁辺問題が浮上したことが取り上げられていますが、それに関して「慶長年中ト斎記」に、「三成が徳川邸を襲撃するという風聞があり、徳川邸では備えを固めていたという」記述があり、「当代記」にも三成の家康邸襲撃計画があったという記述があることに言及されています。大河ドラマ「真田丸」でも、この計画のことが一話分を... ...続きを見る

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2018/02/19 11:00
石田三成の実像2187 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」5 家康の縁辺問題
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、慶長4年(1599)1月中旬に、家康と伊達政宗の間で結ぼうとした婚姻関係が問題となったことが取り上げられています。  これについて、「大名同士が勝手に縁辺を結ぶことは秀吉の命令により禁止されているが、秀吉は死の直前に大老衆が相互に縁辺を結んで結束を強化するよう命じていた」と記されています。この典拠は「豊臣秀吉遺言覚書」であり、大阪城天守閣発行の図録「特別展 五大老」... ...続きを見る

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2018/02/18 10:30
石田三成の実像2186 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」4 寺沢正成書状
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、家康の多数派工作に関して、慶長4年(1599)1月5日付の島津忠恒・立花宗茂・小早川秀包・高橋直次・筑紫広門に宛てた寺沢正成(広高)書状が取り上げられています。この書状は、「家康が催す茶会への参加を促し、『明晩御門まて御礼ニ御出候て可然候』という心構えも説いている」ものだが、正成はまだこの時は家康寄りではなく、逆に三成寄りで、「家康が大老衆という立場から、朝鮮半島にお... ...続きを見る

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2018/02/17 09:24
石田三成の実像2185 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」3 家康の多数派工作
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、朝鮮半島からの撤兵の差配のために三成が博多に赴いていた間に行っていた、家康の多数派工作について記されています。  家康が屋敷を訪ねた大名は、慶長3年(1598)11月24日に織田信包、25日に増田長盛、26日に長宗我部元親、12月3日に新庄直頼、5日に島津龍伯(義久)、9日に長岡(細川)幽斎、17日に有馬則頼など。典拠は「言経卿記」です。  この多数派工作について... ...続きを見る

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2018/02/16 09:20
石田三成の実像2184 中野等氏「石田三成伝」95 秀頼のもとで大坂城の勤番
中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、慶長3年(1598)12月24日に博多から大坂に戻った三成が、「早速中央の政務に復帰し」、「12月26日付で他の奉行衆と五名連署で園城寺(三井寺)充て寺領充行状(あてがいじょう)を発して」おり、翌年「正月5日付で関一政(長門守)に充てて、三成ら奉行衆の連署状が出されている」ことが記されています。  後者の連署状については、「羽柴久太郎(堀秀治)へ貸与するため、信州川中島の蔵入地代官を勤めている関一政に対し、米1200石の拠出を求めるものであった」... ...続きを見る

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2018/02/15 00:03
石田三成の実像2183 中野等氏「石田三成伝」94 朝鮮半島からの撤兵を見届けて上方へ
中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、朝鮮半島からの日本軍の撤兵について、次のように記されています。  「朝鮮に渡っていた諸将は、次々に釜山へ集結した。小西行長の救出に成功した島津義弘・忠恒・立花宗茂らの軍勢も、11月下旬には釜山に到着し、博多への帰途に就く。12月10日には島津勢が、翌11日には小西行長や寺沢正成も博多へ帰還する。三成らは明・朝鮮側の反攻に留意しつつ、帰還する将兵を迎える(大日本古文書『島津家文書』1690号)」と。  小西行長は順天城にいましたが、明・朝鮮軍が海... ...続きを見る

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2018/02/14 10:41
石田三成の実像2182 中野等氏「石田三成伝」93 家臣の八十島助左衛門と島津
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)11月23日付で三成が島津家中に充てて出した書状が取り上げられていますが、その書状には、翌24日付の三成家臣の八十島助左衛門尉書状が添えられていることも記されています。そのこと及び、博多津中からの陳情が三成のもとに来た時に、八十島を通じて回答を行なっていることから、中野氏の同書で、次のような指摘がされています。  「三成がこのたびの筑前下向に際して伴ってきた家中のなかでは、この八十島助左衛門尉が最上席に位置するよ... ...続きを見る

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2018/02/12 11:02
石田三成の実像2181 中野等氏「石田三成伝」92  博多で撤兵の差配以外の仕事もこなす
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死後、朝鮮半島からの撤兵を差配するために博多に赴いた三成が、それ以外の仕事もこなしていたことが記されています。  すなわち、「同時に、三成は博多を拠点にしつつ、西国の諸地域にも、さまざまな指示を下していく。たとえば、膝下の博多津中に対しては、改めて津内が領主権力の及ばない地域であることを確認している。これに先立って6月に下向した折に、博多津中からうけた諸々の陳情に対するものだが、三成は家中の八十島助左衛門尉を通じて『博多津中』に回答を行なって... ...続きを見る

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2018/02/11 18:39
石田三成の実像2180 中野等氏「石田三成伝」91 朝鮮半島からの撤兵をめぐって
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、秀吉の死を受けて博多まで朝鮮半島からの撤兵の差配に赴いた三成の行動について、次のように記されています。  すなわち、「慶長3年(1598)11月2日には、朝鮮に渡海していた徳永寿昌・宮木豊盛の両名を名島に迎えている。朝鮮の詳細を得た三成は、浅野長政と連署して、同じ11月2日付で、在朝鮮の諸将に対してかなり具体的な指示を発している(大日本古文書『島津家文書』989号)」」と。  秀吉の死を諸将に伝えるため、徳永・宮木が朝鮮半島に派遣されたわけですが... ...続きを見る

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2018/02/10 00:06
石田三成の実像2179 中野等氏「石田三成伝」90  安国寺恵瓊、東福寺住持に
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、慶長3年(1598)9月10日付で西笑承兌(さいしょうしょうたい)が三成に安国寺恵瓊の東福寺入院に関する書状を出していることが記されています。その書状について、次のように解説されています。  「恵瓊は慶長の役でも朝鮮に渡海していたが、秀吉は生前、恵瓊が日本に戻ればただちに東福寺住持に推すことをしばしば述べていたようで、恵瓊の入院はいわば秀吉の遺命となった。恵瓊の東福寺入寺はこの年10月に実現するが、九州に下る三成には、あらかじめ報じる必要があったの... ...続きを見る

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2018/02/09 10:15
石田三成の実像2178 中野等氏「石田三成伝」89 小早川旧臣を召し抱え
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、小早川旧臣を三成が召し抱えたことを示すものとして、慶長3年(1598)9月8日付で毛利輝元が三成に充てた書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。  「隆景の旧臣たちは小早川秀秋が引き継いでいましたが、(小早川家の)越前転封に伴って召し放ちがなされました。しかしながら、あなたが召し抱えてくれることとなり、本当に頼もしく思い、私も悦んでいます。彼らの妻子などは、多くが中国の毛利領国にいるようですが、心配をかけるようなことはないので、安心して... ...続きを見る

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2018/02/08 10:11
石田三成の実像2177  中野等氏「石田三成伝」 88 撤兵を差配する3人は旧小早川領の代官
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、慶長3年(1598)10月19日付の周防富田で博多商人の神屋宗湛に充てた書状が取り上げられていますが、その中に次のような記載があります。  「遠路ながら懇ろなお気持ちとして美醂酒二樽をお贈り頂き、嬉しく思う。ところでそなたの屋敷は宰相殿(毛利秀元)の宿所に充てられるので、いよいよ掃除など念入りに行うことが何より大事である。間もなくそちら(博多)に到着するので、(その折)詳しく話を聞こう」と。  三成と宗湛とのつながりは、宗湛が天正... ...続きを見る

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2018/02/07 17:54
石田三成の実像2176  中野等氏「石田三成伝」87 10名による集団指導体制の確認
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、前述したように、秀吉の死後直後に、家康と五奉行の間に不和があったことが記されていましたが、「安国寺恵瓊を用いた毛利輝元の仲介が効を奏したものか、この際の緊張関係は九月初旬にいったんは収拾をみせる」とあり、そのことを示すものとして、9月3日付で五人の「大老」と奉行衆五名との間に取り交わされた連署起請文が取り上げられています。  その内容について、次のように解説されています。  「『大老』および奉行の十名の結束を前提に、秀頼への忠誠を誓うものである... ...続きを見る

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2018/02/06 11:50
石田三成の実像2175 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」13 秀家を気にかけていた秀吉
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で取り上げられている、秀吉の死後の9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状の中に、「五人之奉行と家康半不和之由」という記載があります。  この「半」という表現について、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、次のような注が付いています。った  「仲。人と人との関係・間柄のこと。なお、中世では『半』の一字で『不和』や『... ...続きを見る

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2018/02/05 10:24
石田三成の実像2174 中野等氏「石田三成伝」86 内藤周竹書状・輝元と奉行衆のズレ
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中でも、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)と同様、秀吉の死後の9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状が取り上げられています。  その中に、「五人の奉行らと家康との関係が不和であるとのことだが、わが毛利家が巧にその仲介を行うことが安国寺(恵瓊)の御使によって伝えられた。(そういうことなので)あなたの方で気遣いは少しもいらない」などと記されています。 ... ...続きを見る

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2018/02/04 10:15
石田三成の実像2173 中野等氏「石田三成伝」85 輝元の起請文前書案の原案と訂正の比較
水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、秀吉の死の10日後の8月28日付で、毛利輝元が石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の四奉行に宛てた起請文前書案と9月2日付で毛利家臣の内藤周竹(隆春)が内藤元家へ宛てた書状が取り上げられていましたが、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)でも、この起請文や書状について言及されています。  まず起請文前書案については、訂正前の文言と訂正後の文言の部分が並べられて... ...続きを見る

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2018/02/03 11:13
石田三成の実像2172 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」2 毛利と四奉行の起請文
 水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中に、秀吉の死の前日の8月17日付で真田信幸に宛てた五奉行連署状が取り上げられています。  その書状について、次のように解説されています。  「雑説から騒動が起こったことを受けて出されたものであり、『向後対兵具懸付候儀』とあることから、ここで禁止されている諸大名の家中の者が武装して参集するような事態が実際に起きていることがわかる。これに違背した場合は、家中の者だけではな... ...続きを見る

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2018/02/02 10:37
石田三成の実像2171 水野伍貴氏「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」1 小山評定
 渡辺大門氏編「戦国・織豊期の諸問題」【歴史と文化の研究所】所載)の中に、水野伍貴氏の「秀吉死後における家臣間の対立構造と推移」が掲載されています。  水野氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」を一昨年の三成祭の時に聴きましたが、その時の講演内容は、拙ブログ記事で取り上げました。水野氏の同論考も、その講演で触れられていたことと重なる部分も多いのですが、根拠となる史料もいろいろと提示されており、より詳しく論じられていまので、その内容を改めて紹介したいと思います。 まず上杉攻めに向かっ... ...続きを見る

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2018/02/01 10:32
石田三成の実像2170 詫間直樹氏「内裏と仙洞御所の変遷」 秀吉の内裏・仙洞御所造営
 フェイスブックの方で、21日に「京都府立京都学・歴彩館」で行われた「禁裏・公家文化講座」の内容紹介を少しずつしています。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2018/01/31 11:44
石田三成の実像2169 映画「利休にたずねよ」 利休切腹事件画策という冤罪
 映画「利休にたずねよ」のテレビ放送を見ましたが、本物の高価な茶道具、長次郎作の「黒楽茶碗 万代屋黒」、同じく長次郎作の「赤楽茶碗 小手巻」、「井戸茶碗 春日」、「熊川茶碗 山路」などが使われていて見ごたえがありました。映画は原作に添う形で、利休切腹の日から、いろいろな年月の出来事を順番をばらばらにして遡り、利休の人生が浮き彫りになるという展開になっていました。若き日の高麗の女性との悲恋がメインになっているものの、それが最後の方になって明らかになるというのも、大体、原作通りでした。  もっとも... ...続きを見る

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2018/01/30 10:25
三成の実像2168 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」7
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、慶長5年(1600)9月15日付で毛利輝元が家臣の宍戸元行に宛てて出した書状が取り上げられ、前半の内容を次のように要約されています。  「京極高次の大津城籠城については(高次が豊臣公儀に対する)『逆意』を構えたという理由で、すぐに豊臣公儀の軍勢を遣わして、大津城の二の丸まで乗り崩したところで高次が降伏して、9月15日の朝に高野山... ...続きを見る

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2018/01/29 10:37
石田三成の実像2167 中野等氏「石田三成伝」84 島津家後継問題と三成
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、島津家後継問題と三成について、記されています。  後継者として定められていた島津義弘の次男の久保(ひさやす)が朝鮮巨済島で急死したため、「島津家内部には、義久を中心に、新たな継嗣として、義久の女婿島津影久(てるひさ)を押す動きを生じていた」ものの、「三成としては、緊急にこの動きを封じる必要があった」と。  その理由として、「外見上は政権に同調し協力的であった義弘に対し、義久は政権との距離を保とうとしており、ともすれば自立性を表に出すことで領国での... ...続きを見る

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2018/01/28 10:53
三成の実像2166 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」12
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における三番目の論点「吉川広家による御和平捏造説について」に関して述べられていますが、その続きです。  白峰氏の同論考では、通説とは違って小早川秀秋の大垣在城を示す一次史料として、... ...続きを見る

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2018/01/27 10:58
三成の実像2165 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」11
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における三番目の論点「吉川広家による御和平捏造説について」に関して述べられていますが、その続きです。  高橋氏の、大谷吉継の大垣在城説について、新著「一次史料にみる関ヶ原の戦い(改... ...続きを見る

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2018/01/26 11:42
三成の実像2164 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」10
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における三番目の論点「吉川広家による御和平捏造説について」に関して述べられていますが、その続きです。  白峰氏の同論考では、9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状の内容をもとに、家康に... ...続きを見る

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2018/01/25 21:58
三成の実像2163 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」9
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における三番目の論点「吉川広家による御和平捏造説について」に関して述べられていますが、その続きです。  高橋研究ノートでは、「吉川広家は終始一貫して毛利家の存続(安泰)のために働い... ...続きを見る

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2018/01/24 11:57
三成の実像2162 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」8
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における三番目の論点「吉川広家による御和平捏造説について」に関して述べられています。  高橋研究ノートには、関ヶ原の戦いにおける吉川広家の姿勢についての見解を次のようにまとめられ、... ...続きを見る

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2018/01/23 10:17
三成の実像2161 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」7
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における二番目の論点「大谷吉継の位置について」に関して述べられていますが、その続きです。  「旧記雑録拾遺記録所史料一」の中の「旧史館調」における「大谷刑部陣取」の記載に関して、高... ...続きを見る

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2018/01/22 11:15
三成の実像2160 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」6
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における二番目の論点「大谷吉継の位置について」に関して述べられていますが、高橋研究ノートにある「白峰氏の訳、『大谷吉継が陣取りに着いた』では意味が分かりません」という記述について、白... ...続きを見る

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2018/01/21 10:23
三成の実像2159 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」5
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における二番目の論点「大谷吉継の位置について」に関して述べられていますが、その続きです。  10月7日付本多正純宛池田輝政書状の一部について、両氏の内容解釈の違いが、高橋研究ノート... ...続きを見る

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2018/01/20 11:38
三成の実像2158 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」4
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における二番目の論点「大谷吉継の位置について」について述べられています。  まず「大谷吉継の動向について、白峰氏は開戦時(引用者注・9月15日)山中にあったとし、高橋(報告者)は開... ...続きを見る

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2018/01/19 10:19
三成の実像2157 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」3
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における一番目の論点について述べられていますが、その続きです。  三成方本隊が「大垣をがら空きにして山中の救援に向かう」という高橋研究ノートの記載について、白峰氏の同論考には、「大... ...続きを見る

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2018/01/18 10:25
三成の実像2156白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」2
 白峰旬氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」(渡辺大門氏編『戦国・織豊期の諸問題』【歴史と文化の研究所】所載)の中で、高橋研究ノート(高橋氏の「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」【東海古城研究会『城』222号】)における一番目の論点「白峰説に対する疑問点、時系列の混乱」について述べられています。  まず高橋研究ノートに、次のようなことが指摘されています。  「白峰説『山中の大谷の... ...続きを見る

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2018/01/17 18:20
受贈御礼 白峰旬氏「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況について」1 三成の実像2155
白峰旬氏より渡邊大門氏編「戦国・織豊期の諸問題」(歴史と文化の研究所)をご恵贈賜りましてありがとうございました。この場を借りて、お礼申し上げます。  この書には白峰氏の「慶長5年9月15日の関ヶ原の戦いの状況についてー拙論に対する高橋陽介氏の御批判に接してー」が掲載されています。  白峰氏の論考に対する高橋氏の批判の書とは、「研究ノート 白峰氏による高橋説検証への意見ー小早川秀秋『手返し』のタイミングを再考する」(東海古城研究会『城』222号)です。白峰氏の論考を拝読すると、白峰氏が高橋... ...続きを見る

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2018/01/16 11:39
三成の実像2154 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」6
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、「大津城攻めの諸将」が表として掲載されています。その表は「関ヶ原御合戦之時大津城責之覚」(『新修福岡市史』資料編)をもとに作成されたものです。  それによると、「中国衆」は「攻手の大将」として「毛利輝元の軍代・毛利元康」、「付衆」として「小早川秀包、垣屋四郎兵衛(恒総ヵ)、平賀(元相ヵ)」、「船手」として「村上景親」とあります。... ...続きを見る

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2018/01/15 10:54
石田三成の実像2153 中野等氏「石田三成伝」83 唐入り26 在番体制を整えて帰還
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年8月22日付の大谷吉継・石田三成連署状が取り上げられていますが、その連署状について次のように解説されています。  「充所とされる島津義弘・長宗我部元親(羽柴土佐守)・戸田勝隆(民部少輔)・生駒親正(雅楽頭)らは、いずれも巨済島(唐島)での在番を命じられた面々である。三成と大谷吉継は釜山にあって、彼らに兵粮米や在番に必要な諸物資の配当を行なっている。こうして、朝鮮半島南岸の要害(『倭城』)に拠って在番を継続する諸将に対する手当を終えた三成は、... ...続きを見る

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2018/01/14 10:25
石田三成の実像2152 中野等氏「石田三成伝」82 唐入り25 将兵帰還に向けて
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年8月6日付で浅野長吉や三成ら三奉行に充てて出した秀吉朱印状が取り上げられていますが、同日付で上杉景勝や大谷吉継、小西行長、三成らに充てた秀吉朱印状も取り上げられ、次のように解説されています。  「先にみた秀吉朱印状のうち、越冬に備えるための指示のみの内容となっているが、上杉景勝(羽柴越後宰相)や小西行長(摂津守)らを含むことから推して、充所の面々は熊川城の普請を担当した諸将と見なすことができる。すなわち、三成と大谷吉継は、在... ...続きを見る

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2018/01/13 10:30
石田三成の実像2151 中野等氏「石田三成伝」81 唐入り24 家臣に重要な役目を任せる
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)8月16日付で島津義弘・久保(ひさやす)に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状の内容及び解説が次のように記されています。  「三成が帰国後すみやかに上洛して秀吉に義久隠居の件を言上するので、三成の上洛から20日程度経たのちに島津家の使者を上方へ派遣するよう指示している。秀吉の意を受けて島津家との交渉にあたるのは、三成の職責ではある。しかし、所詮は陪臣にすぎない安宅秀安のような人物が、ここまで枢機に関わるようになったことは注目す... ...続きを見る

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2018/01/12 10:32
三成の実像2150 中野等氏「石田三成伝」80 唐入り23 三成の検地を望む島津義弘・西生浦倭城訪問
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年7月22日付で相良頼房に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状が取り上げられていますが、その中に次のような中野氏の解説があります。  「相良頼房は、加藤清正(賀主)と同陣するが、結果的にこの軍勢は、蔚山の南の西生浦(ソセンポ)に拠点を構築して在番(城郭等に拠って警衛にあたる)に入る」と。  2002年5月にオンライン三成会の人々と韓国にある三成関連遺跡を訪ねた際、蔚山倭城へは行きませんでしたが、その南に位置する西生浦倭城へ... ...続きを見る

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2018/01/11 17:41
石田三成の実像2149 中野等氏「石田三成伝」79 唐入り22 7月22日付相良頼房宛の安宅秀安書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、7月22日付で相良頼房に充てて、三成家臣の安宅秀安が出した書状が取り上げられていますが、その中に三成の居所に関する次のような記述があります。  「遥々、石田三成(治部少)へ御手紙いただき、尤もに存じます。ただちに報告すべきですが、(三成は)2、3日以前に釜山へ出かけましたので、戻りましたら報告いたします」と。  「(三成は)2、3日以前に釜山へ出かけました」という記述は、7月18日に三成たちは明使を伴って朝鮮半島南岸を巡検したという記述が、太田久... ...続きを見る

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2018/01/10 11:33
石田三成の実像2148 中野等氏「石田三成伝」78 唐入り21 大明日本和平条件をめぐって
 4日から2泊3日で伊勢志摩への家族旅行に行ってきました。1日かけて伊勢神宮の外宮・内宮に参拝し、3日目に鳥羽水族館を見学しました。この旅行のことは、フェイスブックの方で順次、紹介していますので、興味がある方はご覧くださればと思います。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7    さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年(1593)6月28日付の秀吉朱印状に示されている「大明日本和平条件」が取り上げら... ...続きを見る

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2018/01/09 10:31
石田三成の実像2147 中野等氏「石田三成伝」77 唐入り20 晋州城攻撃・付記 晋州城訪問
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年「7月8日に宇喜多秀家が慶尚道(キョンサンド)の昌原(チャンウォン)に入り、ここで石田三成・大谷吉継・増田長盛らと朝鮮支配の全般について談合を持つことになる(大日本古文書『島津家文書』1754号)」と記されています。  彼らはいずれも晋州城攻めに第三隊として加わった武将たちであり、晋州城が陥落したのは、6月29日ですから、それを受けて今後のことを話し合ったのでしょう。  この後、三成たちは明使を釜山で迎えたことが、前述したように、太田久右... ...続きを見る

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2018/01/08 10:47
石田三成の実像2146 中野等氏「石田三成伝」76 唐入り19 倭城の布陣を計画・付記 熊川倭城登山
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、7月18日、「三成は大谷吉継・小西行長らとともに明国勅使を伴って、半島南岸の巡検を行なっている」と記されている書状が取り上げられていることを前述しましたが、この書状は同日付で島津義弘に宛てた太田久右衛門尉書状です。  太田久右衛門尉について、「石田家中の人物と判断され」、「島津勢の動きを三成に報じ、それを三成が諒承したということを島津義弘に伝えている」と中野氏の同書に記されています。  この書状の中で、「御城御陣替えの儀について、石田三成(治少)... ...続きを見る

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2018/01/07 11:45
石田三成の実像2145 中野等氏「石田三成伝」75 唐入り18 和平条件の提示・明使の名護屋出立日
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、「秀吉の明使節への引見は、5月23日に行われた。明の使節は、その後しばらく名護屋城に留め置かれるが、石田三成・増田長盛・大谷吉継らは5月24日、慌ただしく朝鮮に戻っていく(『大和田重清日記』)」と記されています。  朝鮮半島でのその後の三成の行動を示すものとして、6月16日付の相良頼房(長毎)充ての三成書状が挙げられています。  すなわち、「『一両日』の熊川(ウンチョン)訪問を告げており(大日本古文書『相良家文書』712号)、構築... ...続きを見る

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2018/01/06 07:53
石田三成の実像2144 中野等氏「石田三成伝」74 唐入り17 偽の明使と知っていたかどうか
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、文禄2年(1593)5月6日までに漢城から釜山に到着していると述べられていますが、その後の三成らの動きについて、次のように記されています。  「三成らの一行は偽りの勅使を伴い、5月13日早暁に名護屋に到着する(『大和田重清日記』)。秀吉の明使節への引見は、5月23日に行われた。明の使節は、その後しばらく名護屋城に留め置かれるが、石田三成・増田長盛・大谷吉継らは5月24日、慌ただしく朝鮮に戻っていく(『大和田重清日記』)。三成らの再渡... ...続きを見る

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2018/01/05 08:21
石田三成の実像2143 中野等氏「石田三成伝」73 唐入り16  浅野長吉と梁山で面談
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)4月26日付で黒田長政・加藤清正ら諸将に宛てた三成ら三奉行連署状が取り上げられ、その最初の方は前述しましたが、後半には次のように記されています。  「浅野長吉(弾正少弼)や黒田孝高(勘解由次官)も、おそらくは『みやき』付近までは出てこないだろうから、(こちらから)彼の地へ早々に出て行って相談を行ない、それを受けてこちらに連絡をいれる。その間、われわれは、ここで兵粮を請け取り、しばらく滞陣するのがよろしかろう」と。  中野氏の解... ...続きを見る

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2018/01/04 00:05
石田三成の実像2142 中野等氏「石田三成伝」72 唐入り15 明使への対応を指示する三奉行連署状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)4月18日付で、増田長盛・大谷吉継・石田三成の三奉行が島津義弘・中川秀成・福島正則ら21名の諸将に宛てた書状が取り上げられていますが、その第一条に次のようなことが記されています。  「大明国の惣大将から和平の申し入れがあり、先般明軍の遊撃将軍が小西摂津守行長の陣所に滞在中です。日本へ渡る予定の明国勅使は昨日17日、すみやかに和平を進めるため、当所に到着しました」と。  その後に続く条で、勅使、官人、下々の人数や規模を知らせ、彼... ...続きを見る

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2018/01/03 09:57
石田三成の実像2141 中野等氏「石田三成伝」71 唐入り14 漢城の相良頼房宛の書状 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、幸州山城での敗戦の後、「戦線は漢城の北で膠着」し、「漢城以北に展開していた多くの軍勢が漢城に籠城するということで、兵粮事情も一挙に悪化した」と記されています。  3月22日付の相良頼房宛の三成書状が取り上げていますが、次のような内容です。  「安宅三郎兵衛方迄に御手紙頂き拝見致した、そちらは御在津の上、御普請中とのことで、もっともに存じる。私も一両日中にそちらへうかがう予定なのでお目にかかってお話を承りたい」と。  相良頼房はこの時点では、咸鏡... ...続きを見る

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2018/01/02 10:16
三成の実像2140 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」5
 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。  いつもの通り、今年の干支をあしらった「いぬのとし」の折句歌を紹介します。 ...続きを見る

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2018/01/01 13:53
三成の実像2139 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」4
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、立花宗茂発給の感状と、大津城攻めについての他の武将が発給された感状との比較が行われています。  9月15日付で毛利元康が家臣の堀江善右衛門尉に出した感状が史料として取り上げられていますが、「9月13日の大津城攻めの時に、堀江善右衛門尉が大津城への一番乗りをおこなったことと敵の首を一つ討ち取ったことを賞した内容」です。  白峰氏... ...続きを見る

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2017/12/31 10:46
三成の実像2138 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」3
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、「立花宗茂発給の軍忠一見状(合戦手負注文)は」、「感状とは別に、立花宗茂が家臣に対して発給したものであ」り、「書式としては、分捕(=敵の首を取ること)・被疵(=負傷)・戦死という区分のもとに(分捕の区分はない事例もある)、それぞれの家臣名を列記している」と述べられています。  さらに軍忠一見状の特徴が八点にわたって述べられ、「書... ...続きを見る

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2017/12/30 10:25
石田三成の実像2137 「歴史秘話 国宝」千代姫の嫁入り道具・細川幽斎の太刀
 「歴史秘話ヒストリア 国宝 美と日本人の物語」の中で、いくつかの国宝が紹介されました。これは京都国立博物館で開かれていた「国宝展」に合わせた番組ですが、入館者が一杯で長い時間待たねばならず、行くのをあきらめました。大阪のあべのハルカス美術館で開かれていた「北斎展」は見に行きましたが。「北斎展」のことは、フェイスブックの方で少し記しました。  この番組で、徳川家光の娘の千代姫の豪華な嫁入り道具が紹介されていました。徳川家の権威を示すために、当時の技術の粋を集めたものだと説明されていました。千代... ...続きを見る

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2017/12/29 10:17
石田三成の実像2136  大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」12 文禄の役2 日本軍惣大将
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、第一次朝鮮出兵(文禄の役)の際、「明・朝鮮方の反撃によって戦局が悪化すると、漢城守備の秀家が日本軍の惣大将に就き、戦線の立て直しが図られた(中野2006等)。この秀吉の指令は、文禄2年(1593)2月18日付で発せられている(『浅野家文書』)」と記されています。  このことについて、中野等氏の「文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。  「2月18日発給の朱印状によって、宇喜多秀家は現地の『大将... ...続きを見る

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2017/12/28 11:26
石田三成の実像2134 笠谷和比古氏「碧蹄館の戦い」 奉行衆の動き 中井俊一郎氏の見解
 黒田慶一氏・笠谷和比古氏の「秀吉の野望と誤算」(文英堂)の「碧蹄館の戦い」(笠谷氏の担当)の中で、奉行衆のことについて次のような記載があります。  まず「立花隊の出発に際しては、奉行衆や諸将たちから明軍との交戦は極力避けるようにと注意を受けたが、立花宗茂は一応これを了解した旨の返答をしつつも、明軍の本隊と遭遇して引き退くことの叶わぬ時は開戦に踏み切ること、そしてその場合は、ただちにその旨を漢城の後続部隊に通告することを約した(『朝鮮軍〔いくさ〕物語』、十時伝右衛門〔とときでんえもん〕の部隊で... ...続きを見る

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2017/12/26 10:21
石田三成の実像2133 中野等氏「石田三成伝」69 唐入り12 碧蹄館の戦いの勝利を讃える書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)で、文禄2年1月23日付の増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長泰の連署状が出されてわずか三日後に、碧蹄館の戦いが起こり、日本軍が勝利します。碧蹄館の戦いが行われた場所へは、15年前にオンライン三成会の人々と訪ねたことがありますし、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の中で、碧蹄館古戦場碑の写真が掲載され、説明がされています。  中野氏の同書には、「三成ら三奉行はその捷報をすみやかに名護屋に伝えた。また、三成自身も碧蹄館で戦った諸将に軍... ...続きを見る

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2017/12/25 10:20
石田三成の実像2132 中野等氏「石田三成伝」68 唐入り11 文禄2年1月23日付の奉行衆連署状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)で、文禄2年1月23日付で漢城にいる奉行の増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長泰が名護屋の長束正家・山中橘内に充てた注進状が取り上げられていますが、これも長い書状であり、その第二条で次のようなことが記されています。  「明の軍勢が出てきたら、開城(かせんほい表)で談合して迎撃すると決定しましたが、敵の大軍は海陸から襲ってきますので、具体的対応も決められず出勢することもできません。さらに、開城と漢城の間を流れる河が氷結すると、渡河も容易ではなくなり... ...続きを見る

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2017/12/24 10:49
石田三成の実像2131 中野等氏「石田三成伝」67 唐入り10 文禄2年1月11日付の奉行衆連署状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文禄2年(1593)1月11日付で、漢城にいる奉行の増田長盛・大谷吉継・石田三成・加藤光泰・前野長泰が名護屋の長束正家・石田正澄に充てた注進状が取り上げられていますが、長い書状であり、当時の状況がよくうかがえる内容になっています。中野氏の同書では、「現地の奉行衆の当惑を反映したものとみなされよう」と指摘されています。  その書状には次のようなことが記されています(抜粋)。  「加藤清正(主計頭)の先手の者が失態をおかし、また熊川(こもかい)付近... ...続きを見る

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2017/12/23 10:49
石田三成の実像2130  中野等氏「石田三成伝」67 唐入り9 妥協的な指示をせざるをえない三奉行
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、漢城にいる増田長盛・大谷吉継・石田三成の三奉行が名護屋の長束正家・木下半介・石田正澄に宛てた書状案が取り上げられていますが、その中に「小西行長が漢城に戻り、前線では兵粮以下に事欠き、さらに寒天に向かう状況のなかで如何すべきかを尋ねてきました」という記述があります。  こういう記述について、中野氏の同書では、次のように解説されています。  「平壌(ピョンヤン)を押さえていた小西行長は、状況説明のために漢城に戻り、兵粮事情に深刻な不安があることや、奥... ...続きを見る

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2017/12/22 00:12
石田三成の実像2129  中野等氏「石田三成伝」66 唐入り8 発せられなかった連署状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、漢城にいる増田長盛・大谷吉継・石田三成が名護屋の長束正家・木下半介・石田正澄に宛てた書状案が取り上げられています。この書状は中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」やオンライン三成会編「三成伝説」(共にサンライズ出版)でも取り上げられています。  この書状案について、中野氏の同書では、次のように解説されています。  「三成らは、実際に見聞した朝鮮半島の状況を極めて深刻に受けとめており、秀吉の『6月3日令』遂行が極めて危険であることを認識するにいたっ... ...続きを見る

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2017/12/21 10:55
石田三成の実像2128  中野等氏「石田三成伝」65 唐入り7 漢城での陣所
 文禄の役の際、秀吉に代わって渡海したのは、長谷川秀一、前野長泰、木村重玆(しげこれ)、加藤光泰、石田三成、大谷吉継、増田長盛の七人の奉行衆ですが、彼らの役割について、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、次のように記されています。  「長谷川秀一以下の四名は秀吉古参の家人衆(けにんしゅう)であり、軍事的な監察の役目を帯びていたように推察される。秀吉の指揮権を代行するという意味では、むしろ三成と大谷吉継、増田長盛の三名がとりわけ重要な立ち位置を占める」と。  この七... ...続きを見る

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2017/12/20 17:39
三成の実像2127 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」2
 白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢』第47号所載)の中で、28例の感状の中で、「着到文言」があるのは3例だけだということが指摘されています。  白峰氏の同書では、立花宗茂が家臣の立花吉左衛門尉に宛てた感状が取り上げられ、その中にある「着到」という文言について、「この場合、『着到』とは、大津城攻めの際に、分捕高名をした者、負傷(『被疵』)した者、戦死した者のリスト(それぞれ人名と分捕高名... ...続きを見る

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2017/12/19 10:33
三成の実像2126 大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」11 文禄の役1
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、第一次朝鮮出兵(文禄の役)の際、宇喜多秀家は、秀吉に先立って天正20年(1592)2月20日に出陣したと記されています。   ちなみに、三成も大谷吉継と共に同日に京を出陣しています。秀吉が京を発ったのは、3月26日です。  大西氏の同書には、「3月13日の陣立てによれば、一万人を率いる秀家は九番編成の軍勢のうち八番、対馬在陣が指示されている(『小早川家文書』)」と記されています。  ちなみに、この陣立てにおいて、三成... ...続きを見る

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2017/12/18 11:29
三成の実像2125 白峰旬氏「大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状に関する考察」1
  関ヶ原の戦いで石田・毛利方豊臣公儀側が負けた要因の一つとして、大津城攻めに加わっていた立花宗茂ら一万五千人が間に合わなかったことが挙げられ、そのことはオンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「関ヶ原」の章でも記しました。その戦いの実態を知る一次史料として、立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)があり、その史料を検討し、考察されたのが、白峰旬氏の「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察」(別府大学史学研究会『史学論叢... ...続きを見る

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2017/12/17 10:42
三成の実像2124 大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」10 九州攻め・北条攻め・豪姫との婚姻
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、宇喜多氏は天正15年(1587)の九州攻めでは、「名誉の先陣」を務め、「軍勢一万五千を率いて正月25日、秀吉以下に先立って出陣した」と記されています。  秀吉が大坂を出発したのは3月1日であり、三成もこれに従いました。三成の九州での活躍は今までも記したように、多岐にわたります。博多を復興させ、町割をしたこと、鹿児島まで人質の亀寿姫の受け取りに行ったこと、大口城に籠る新納忠元を説得に行ったこと、上洛する島津義久をもてなした... ...続きを見る

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2017/12/16 11:26
三成の実像2123 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」96
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の11月21日条には、「北政所が豊国社へ参詣」という記載があります。  秀忠と忠吉が豊国社に参詣した時に、北政所が同行しなかったのは、彼らを避けたのでしょうか。北政所と秀忠の関係は悪くなく、北政所は秀忠をわが子のようにかわいがっていましたが、それは関ヶ原の戦いまでであったので... ...続きを見る

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2017/12/15 18:23
三成の実像2121 大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」9 中国国分以降、本格的に秀吉軍に参加
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、宇喜多氏は天正13年(1585)2月に「中国国分」が決着して以降、秀吉の天下一統に本格的に協力したと指摘されています。  「中国国分」とは、秀吉が「備中国松山を毛利方に、高粱川以東の備中国・備前国児島を宇喜多領と」したもので、これによって「毛利・宇喜多領国の境界線が確定」したと大西氏の同書に記されています。  それまでの天正10年の山崎の戦い、翌年の賤ケ岳の戦いでは「若干の加勢にとどまった」こと、天正12年の小牧・長久... ...続きを見る

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2017/12/14 10:35
石田三成の実像2120 郡山城天守は豊臣期に築造・今の追手門は伏見城から・秀長の斡旋で三成婚姻
 7日に郡山城跡を1時間ほど散策してきましたが、その時のことはフェイスブックに写真入りで記していますので、興味のある方は、そちらの方をご覧ください。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/12/13 10:32
三成の実像2119 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」95
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の11月17日条には、次のような記載があります。  「前田玄以が上洛したので書状を遣わした。徳川秀忠・松平忠吉が上洛した」と。  参内するにあたっては、朝廷との結びつきが強い前田玄以の存在が必要だったのでしょう。  各日記の翌18日の条には、徳川秀忠や松平忠吉らの参内につ... ...続きを見る

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2017/12/12 15:09
三成の実像2117 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」93
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「中臣祐範記」の11月11日条には、次のような記載があります。  「この度、家康が(上杉討伐のために)東国へ下向したあと、各々が謀反をして、尾州(尾張)・濃州(美濃)にて数度合戦に及び、上方衆が敗北した。(そして)家康が天下を補佐することになった。(大和国を拝領していた)増田長盛は高野... ...続きを見る

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2017/12/10 10:22
三成の実像2116 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」92
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の11月3日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。家康は近日(中に)参内する、ということである。もっとも、珍重である」と。  もっとも、家康が参内したのは、相田文三氏の「徳川家康の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井讓治氏編『織豊期主... ...続きを見る

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2017/12/09 10:45
三成の実像2115 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」91
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の11月2日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。安芸の毛利輝元は広島の城へ帰った旨、大坂あたりでは風聞がある、ということである。朽木元綱は本領に異儀がない、ということである」と。  毛利輝元が、広島城を拝領したというのは、前述したように... ...続きを見る

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2017/12/08 15:52
三成の実像2114 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」90
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の10月20日条には、次のような記載があります。  「前田玄以が天野(山金剛寺)から大坂へ出た、ということである」と。 前田玄以は奉行職は解かれましたが、丹波亀山城五万石は安堵されました。五奉行制は、浅野長政・石田三成の蟄居の後、三奉行になりましたが、政権運営は... ...続きを見る

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2017/12/07 21:02
三成の実像2113 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」89
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の10月16日条には、「大坂へ前田玄以を見舞うために、西洞院時慶は板屋左近丞を遣わした」という記載があります。  同日記の翌日条には、これに関連して、次のような記載があります。  「(前田玄以を見舞うために西洞院時慶が大坂へ遣わした)板屋左近丞が大坂から上洛し、前田玄以の返... ...続きを見る

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2017/12/06 11:12
三成の実像2112 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」88
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の10月14日条には、「(前文省略)この度の一乱(後文省略)」という記載があります。  「乱」という表現は、前述したように、すでに同日記の9月19日条に、「およそ建武(の新政)・応仁(の乱)の大兵乱もこれに及ぶはずがないのではないか」と記されていました。  関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/12/05 10:33
三成の実像2111 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」87
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の10月6日条には、「小早川秀秋について雑説がある」と記されています。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「この記載における『雑説』が具体的に何を指すのかは不明である」と。  前述したように、同日記の9月17日条には、小早川の裏切り(手返)について触れて... ...続きを見る

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2017/12/04 10:21
三成の実像2110 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」86
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の10月3日条には、長束正家について次のような記載があります。  「長束正家が近江において切腹し、その首は三條橋前において梟首にされた、という風聞である」と。  「風聞」ですから、孝亮自身が直接目にしたわけではありませんが、事実だと思われます。長束正家の首がさらされた... ...続きを見る

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2017/12/03 10:31
三成の実像2109 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」85
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の10月2日条には、三成らの処刑について次のような記載があります。  「石田三成・安国寺恵瓊・小西行長などの首が、三條橋下において梟首にされた、ということである」と。  三成らの首が三條橋において梟首にされたという記述は、前述したように、各日記の10月1日条にありまし... ...続きを見る

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2017/12/02 12:31
三成の実像2108 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」8  通説や俗説を否定 
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、八丈島の秀家のもとに前田家から一年ごとに米や金子などを送ったという通説について、「誤った理解」だと指摘されています。この通説に基づいた取り上げ方が、「歴史秘話ヒストリア 愛したのはあなただけ〜戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫〜愛したのはあなただけ〜戦国セレブ夫婦 宇喜多秀家と豪姫〜 」でもされていました。  大西氏の同書では、利家の曽孫である前田綱紀(つなのり)の時代に絞って、同時代史料を確認し、「送品の周期は、毎年の場... ...続きを見る

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2017/12/01 11:02
三成の実像2107 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」7 豊国社参拝は上杉攻めの戦勝祈願
 慶長5年(1600)7月5日に宇喜多秀家は豊国社に参拝していますが、このことについて、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、次のように記されています。  秀家は「7月5日、秀吉を祀る今日の豊国社(京都市東山区)において『神馬立(じんめだて)』の神事を執りおこない、同月7日には南御方が同じく豊国社で湯立神楽(ゆだてかぐら)を奉納している(『舜旧記』)。いずれも、上杉討伐への出陣に先立っての戦勝祈願であろうか。  ところが、7月15日以前に、秀家は徳川討伐を画... ...続きを見る

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2017/11/30 10:59
三成の実像2106 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」84
   写真は桃山御陵(明治天皇陵)の敷地の中にある治部池を柵越しに昨日撮ったものです。写真では、木の向こう側にある池ははっきり見えませんが、肉眼でははっきり確認できます(オンライン三成会編『三成伝説』【サンライズ出版】にも掲載しています)。柵の向こう側は、かつては伏見城の城内であり、治部池は堀跡です。北側(写真では左側)には、長束大蔵郭があり、南側には石田治部少輔郭がありました。長束大蔵郭は長束正家が、石田治部少輔郭は石田三成が政務を執っていた場所です。  昨日は三時間ほどかけて、治部池、伏見... ...続きを見る

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2017/11/28 18:51
三成の実像2105 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」83
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の10月1日条には、三成らの処刑について次のような記載があります。  「舜旧記」には、「この度の謀反人衆3人である石田三成・安国寺恵瓊・小西行長が洛中の大路を越えて、六条河原において首を刎ねられ、三条橋へ梟首にされた。次いで、長束正家も梟首にされた」と。  三成らが「謀反人」に... ...続きを見る

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2017/11/27 10:41
三成の実像2104 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」82
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月29日条には、次のような記載があります。  「近衛信尹が大坂へ下向し、西洞院時慶からの言伝てにより平野(神社)の御祓(の御礼)を家康へ献上した」と。  これも公家たちの家康への気遣いがうかがえる内容ですが、家康は豊臣政権の大老に復帰した形ですから、公家たちが豊臣政権を重... ...続きを見る

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2017/11/26 11:29
三成の実像2103 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」6 豊国社への寄進・豪姫との音信
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中で、八丈島での秀家の史料として、次のことも記されています。  「元和4年(1618)8月17日には、秀吉の命日(8月18日)に合わせて、『備前浮田殿』が豊国社に灯明料百疋【とうみょうりょうひゃっぴき】を贈っている(『舜旧記』)。この『備前浮田殿』が秀家自身であるとすれば、八丈島にありながら、秀家は依然、旧知の人々や寺社との音信を続けていた可能性が出てくる」と。  この時点では、豊臣家はすでに滅亡していましたが、秀家は秀吉の... ...続きを見る

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2017/11/25 10:22
石田三成の実像2102 大西泰正氏「【実像に迫る】宇喜多秀家」5 八丈島での和歌2 復権を諦めず
 八丈島で詠んだ秀家の和歌については、大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の口絵の中で取り上げられている以外に、大阪城天守閣発行の図録「特別展 戦国の女たち」に、岡山の二若家所蔵の「宇喜多秀家自筆和歌懐紙」が掲載されています。その和歌は「武蔵野は 行どもあきの 終そなき いかなる風か すべに吹くらん」というものです。その解説には次のように記されています。  「(前略)表具の裏には三枚の貼紙があり、中央の一枚には『宇喜田(多)中納言秀家卿 尊光院殿秀月久福神儀 明暦元... ...続きを見る

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2017/11/24 11:19
石田三成の実像2101 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」4 起請文2 八丈島での和歌1
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に一昨日付の拙ブログ記事で前述したように、文禄4年7月20日付の宇喜多秀家血判起請文が掲載されています。  この血判起請文は、秀次事件直後に出されたものですが、この事件後の豊臣政権の対応について、大西氏の同書の中で、次のように記されています。  「一つ目は秀吉が諸大名に嗣子秀頼への忠誠と『太閤様御法度・御置目』の遵守を誓わせたこと、二つ目は法令『御掟』・『御掟... ...続きを見る

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2017/11/23 21:36
三成の実像2100 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」3 「鷹図」・鷹狩り
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に宇喜多秀家が描いたと伝わる鷹図の写真が載っています。その説明として次のように記されています。  「伝来の経緯など詳細はまったく不明。讃文は江戸初期の禅僧・嶺南崇六のものという 板橋区立美術館蔵」と。  秀家の鷹狩り好きは有名であり、これに多大な費用を使ったということが云われますが、これについては、以前に拙ブログで取り上げたように、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と... ...続きを見る

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2017/11/22 10:26
三成の実像2099 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」2 木像・画像・起請文
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)の中に「秀家ゆかりの品々と関ヶ原」という題の口絵がありますが、その中に「宇喜多秀家木像」の写真が載っています。その説明に次のように記されています。  「八丈島宗福寺に安置されていた像主不明の木像。慶応3年(1867)に木像の体内から秀家の詠草等が発見され、以後、秀家像との認識が定着した。元禄11年(1698)に八丈島に流された仏師民部の作という。岡山市北区・光珍寺蔵」と。  宇喜多秀家が流刑地の八丈島で亡くなったのは、明暦元年... ...続きを見る

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2017/11/21 10:39
三成の実像2098 大西泰正氏「シリーズ【実像に迫る】宇喜多秀家」1 秀吉遺品の初花肩衝
 大西泰正氏の「シリーズ【実像に迫る】 宇喜多秀家」(戎光祥出版)を読みました。大西氏には、これまでもご著書や玉稿をいただき、いろいろとお世話になっています。「宇喜多秀家」は写真が多数掲載され、一般読者に向けて内容的にもわかりやすく、宇喜多秀家の事績を知るにはふさわしいものになっています。  同書では、宇喜多秀家が、これまで考えられてきたような「貴公子」ではなく、特に関ヶ原の戦い以後は、「案外したたかな人物であった」ことが指摘され、また秀家の父親の直家についても、「梟雄(きょうゆう)」といった... ...続きを見る

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2017/11/20 10:44
三成の実像2097 真如堂の海北友松の墓 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記」81
  写真は京都の真如堂にある海北友松の墓(向かって右側)を一昨日撮ったものです。左隣は信長の重臣だった斎藤利三の墓です。三成と海北友松とは親しい関係であり、慶長3年(1598)5月29日から7月15日にかけて友松は、三成の九州下向に同行しています。秀吉が亡くなったのは8月18日ですから、その直前のことです。拙ブログで前述したように、その時の様子を記した「兼如筑紫道中記」が、「海北友松展」に展示されていました。兼如とは連歌師の猪苗代兼如のことです。  友松は斎藤利三や真如堂の東陽坊長盛とも親しい... ...続きを見る

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2017/11/19 10:33
三成の実像2096 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」80
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月29日条には、「安国寺恵瓊・石田三成・小西行長等が大坂・堺等で引き回された」と記されています。  わざわざ「引き回された」というのは、見せしめのためでしょう。三成は大坂城で政務を執り、堺奉行を務めた人物であり、小西行長も豊臣政権のもとで朝鮮の役などで活躍し、堺に屋敷を... ...続きを見る

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2017/11/18 18:08
三成の実像2095 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」79
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の9月27日条には、「この度、家康の敵となった者を預かり置く人がいるかどうか、という吟味があったので、ない旨を申し遣わした」と記されています。  これと関連して、「時慶記」の同日条にも、「家康は敵方の預り物が無い旨の書状を出すように求めてきたので、その書状を遣わした」と... ...続きを見る

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2017/11/17 19:04
三成の実像2094 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」78
 先週の金曜日、紫式部の邸宅跡に建つ京都の盧山寺の特別公開に行ってきましたが、フェイスブックの方でそのことを「源氏物語」の内容などと絡めて数回にわたって写真入りで記しています。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/11/16 10:36
三成の実像2093 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」77
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月25日条には、次のような記載があります。  「毛利輝元が大坂城から退いて(大坂の)木津(の毛利家屋敷)に向った、ということである」と。  木津に移住したことは、拙ブログで前述したように、「島村淡路守覚書」に記されています(穴井綾香氏「毛利輝元の居所と行動」)。  ... ...続きを見る

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2017/11/15 21:45
三成の実像2092 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」76
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月24日条には、次のような記載があります。  「義演が家康への礼のため大津城へ行く。山科七郷は目の及ぶところすべて陣取りをしているので、不便である。徳川秀忠が伏見へ来た、ということである」と。  豊臣政権とつながりの深い醍醐寺の義演までが、家康にお礼の挨拶に行って... ...続きを見る

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2017/11/14 10:18
三成の実像2091 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」75
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「左大史孝亮記」の9月24日条には、石田三成についての記載もあります。  すなわち、「極攝エ(清極揩フ誤記ヵ)少納言と予(小槻[壬生]孝亮)は同道して大津へ向かい、家康へ御礼を申し上げた。越前国において石田三成を搦め取り、(家康がいる)大津城のあたりに置いた、と今日聞いた。また、小西行... ...続きを見る

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2017/11/13 10:24
三成の実像2090 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」74
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、いくつかの日記の9月23日条には、安国寺恵瓊の捕縛についての記載があります。  「左大史孝亮記」には、「白昼、(京都の)六條において安国寺恵瓊を搦め取り、(家康がいる)大津に引き渡した」と記されています。  「言経卿記」には、「安国寺恵瓊が寺内にて生け捕られた。興門内の端坊において生... ...続きを見る

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2017/11/12 10:38
三成の実像2089 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」73
 4日の佐和山登山や妙源寺の法要、5日の三成祭については、写真入りでフェイスブックの方でも紹介しています(現在進行形で、まだ途中ですが)ので、興味のある方はそちらの方もご覧ください。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていま... ...続きを見る

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2017/11/11 00:12
石田三成の実像2088 三成祭5 下高大輔氏講演「豊臣政権が完成させた佐和山城」4 彦根城との比較
 5日に石田会館で行われた、下高大輔氏の講演会「豊臣政権が完成させた佐和山城」では、彦根城における佐和山城の面影についても触れられ、佐和山の石垣が彦根城の鐘の丸西面石垣に、佐和山城の瓦は彦根城の太鼓丸出土瓦に使われていると述べられていましたが、配布資料に、使われている場所や出土状況の写真が掲載されていました。両城の曲輪の名称や配置に共通するところが多いが、決定的に違うのは、大手道の向きであり、佐和山城の大手が東国を向いているのに対して彦根城の大手が大坂の方を向いていると述べられていました。  ... ...続きを見る

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2017/11/10 10:15
石田三成の実像2087 三成祭4 下高大輔氏講演「豊臣政権が完成させた佐和山城」3 二度の大改修
 5日に石田会館で行われた、下高大輔氏の講演会「豊臣政権が完成させた佐和山城」で、佐和山が国の史跡指定を受けていないという話がありました。指定を受けるためには報告書を書かなければいけないが、その段階でとどまっていると述べておられました。指定を受けなければ、開発が進んいき、大事な遺構も失われていく可能性があり、史跡指定が急務だと思いました。  講演会の題名に「豊臣政権が完成させた佐和山城」とありますが、佐和山城は三成の居城として有名なものの、佐和山城を大改修して完成させたのは堀尾吉晴と三成だった... ...続きを見る

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2017/11/09 18:45
石田三成の実像2086 三成祭3 下高大輔氏講演「豊臣政権が完成させた佐和山城」2 三成屋敷と米蔵
5日に石田会館で行われた、下高大輔氏の講演会「豊臣政権が完成させた佐和山城」で、モチノキ谷にあった三成屋敷の跡が赤色立体図の平坦な広い場所と推定されていましたが、その屋敷は三成が代官として入った蔵入地(城米蔵)管理屋敷の可能性があるとも指摘されていました。  三成は天正19年(1591)4月頃、三成は美濃に所領を持ち、近江湖北・美濃で4万5千石の蔵入地を管理する代官として佐和山に入ったと述べられていました。三成の屋敷は城米蔵のそばにあったことについては、米蔵跡がモチノキ谷にあったと「沢山古... ...続きを見る

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2017/11/08 11:31
石田三成の実像2085 三成祭2 徳明寺の資料展2 織部から贈られた茶碗と書状 下高大輔氏の講演1
 三成の出生地である長浜市石田町の徳明寺で5日に開かれていた「石田三成公関連資料展」ですが、展示されていた3点のうち、もう1点は、井戸茶碗であり、寺では古田織部から三成に贈られたものだと伝わっているそうです。 その古田織部の書簡が3点目ですが、次のような内容です。  「近日は(御無沙汰しているが)、何の花でもよいので一本いただきたいと思います。また、そちらへ参るので、相談させてもらいたいことがあります。あなたの意見を聞きたいと思っています」と。  その書簡の解説は次の通りです。  「江戸時... ...続きを見る

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2017/11/07 11:55
石田三成の実像2084 三成祭1 法要 徳明寺の資料展1 慶長6年の三成縁者の書簡
 昨日は三成の出生地である長浜市石田町で行われた三成祭に参加しました。私は2000年に初めて参加して以来、2回程用事で行けなかったことがありますが、ここ何年かは毎年行っています。今年は映画「関ヶ原」が公開し大ヒットし、三成の描き方も好評だったということもあってか、参加者の数も多く、例年以上に模擬店も多く、大いに賑わっていました。午前中の三成公417回忌法要も、参列者が多く、焼香する人々が後を絶ちませんでした。若い人が増えているのもここ何年かのことです。  法要終了後、石田会館で抹茶をいただい... ...続きを見る

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2017/11/06 18:42
三成の実像2083 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」72
 昨日は、佐和山城跡へ登り、彦根の妙源寺での三成と嶋左近の法要に参列し、今日は長浜市石田町での三成祭(法要と講演会)に参加しましたが、その報告は改めて詳述します(フェイスブックの方でも)。  さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月22日条には、次のような記載があります。  「今朝、北野天満宮の祠... ...続きを見る

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2017/11/05 21:37
三成の実像2082 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」71
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月21日条には、次のような記載があります。  「陣替えがあり、急に逗留があった。大坂(城)の毛利輝元の和睦(『アツカ(『ヒ』脱ヵ)』)について風聞がある」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「このことは、この時点(9月21日)でも毛利輝元と... ...続きを見る

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2017/11/04 00:04
石田三成の実像2081 「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」5 白峰旬氏の見解3
 今日から彦根入りしています。昼間は「ひこねの城祭りパレード」を見てきましたが、詳細はフェイスブックの方で写真入りで紹介しています。興味のある方はご覧ください。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/11/03 20:22
石田三成の実像2080 「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」4 白峰旬氏の見解2
 BSで放送された「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」の中で、関ヶ原の戦いは政治的に追い込まれて絶体絶命だった家康にとって大きな賭けだったという白峰氏の見解が取り上げられていました。  家康の人物像は徳川幕府の治世下で神格化されたため、家康は勝つべくして勝ったというイメージが定着してきたが、一次史料を読み解くと、必ずしも家康に戦う大義名分はなかったと白峰氏は説き、その根拠として二つ挙げられていました。  一つ目は、東軍結成のきっかけとなった小山評定の信憑性です。小山評定の史跡碑には、東軍の勝利... ...続きを見る

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2017/11/02 10:40
石田三成の実像2079 「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」3 高橋陽介氏の見解3 白峰旬氏の見解1
 BSで放送された「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」の中で、一次史料から家康は通説とは違って桃配山に布陣していず、関ヶ原に来ていなかったため、家康の見せ場は一切なかったという高橋陽介氏の新解釈も取り上げられて、その根拠として二つ挙げられていました。  その一つ目の根拠は、9月17日付吉川広家自筆書状案に、関ヶ原に向った東軍の先陣の武将として、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、藤堂高虎の名が記されているものの、徳川家家臣や家康の名は記されていないことです。また梵舜の日記「舜旧記」にも、東軍の先陣は、... ...続きを見る

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2017/11/01 10:28
石田三成の実像2078「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」2 高橋陽介氏の見解2 秀秋が長政らを手引き
 BSで放送された番組「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」で、一次史料から三成は松尾山にいる小早川秀秋を討つために藤下(とうげ)に陣を置いたという高橋陽介氏の新見解が取り上げられていましたが、三成らの大垣城からの移動は動きの怪しい秀秋を牽制するためだったという見解が、中井俊一郎氏によってかねてより示されています(オンライン三成会編「三成伝説」【サンライズ出版】でも言及)。家康の侍医である板坂卜斎の日記である「慶長年中卜斎記」にも、石田三成たちが関ヶ原へ移動したのは、秀秋の謀反のためであったと記され... ...続きを見る

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2017/10/31 10:43
石田三成の実像2077 「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」1 高橋陽介氏の見解1 藤下に布陣 
 BSで放送された番組「諸説あり!関ヶ原の戦い 第二弾」で、三成は松尾山にいる小早川秀秋を討つために藤下(とうげ)に陣を置いたという高橋陽介氏の新見解が取り上げられていました。三成が関ヶ原ではなく山中に陣を置いていたとするのは白峰旬氏の見解ですが、それとはまた別の解釈です。藤下は山中の東に当たる地域であり、三成がそこに陣を置いたとする根拠が三つ挙げられていました。  一つ目は、三成が関ヶ原の笹尾山に布陣したということは一次史料には出てこないし、笹尾山に陣地の遺構は見られず、信憑性がないことです... ...続きを見る

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2017/10/30 10:22
石田三成の実像2076 映画「関ヶ原」の描き方9 志や理想を持つことの必要性
 11月3日から彦根入りし、2泊します。5日に長浜市石田町で開かれる三成祭に参加するためですが、4日には佐和山に登り、彦根の妙源寺での三成・嶋左近の法要に参列し、夜にはオンライン三成会のオフ会があります。3日には、ひこねの城祭りパレードがあるので、それを見る予定です。今年は大河ドラマ「女城主 直虎」が放送され、映画「関ヶ原」も公開されているので、いろいろと盛り上がるものと思われますし、行くのを楽しみにしています。  さて、 映画「関ヶ原」で、三成は「正義の人」として描かれていましたが、豊臣政権... ...続きを見る

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2017/10/29 12:29
石田三成の実像2075 映画「関ヶ原」の描き方8 壮大、壮絶な戦いの場面・推移は大半原作通り
 映画「関ヶ原」での関ヶ原の戦いは、原作に基づいた、ほとんど従来通りの描き方がされていました。違う点として大きなところは、拙ブログでも前述したように、小早川秀秋の描き方で、どちらに付くか迷っていた秀秋が、三成に味方するように乗り込んできた嶋信勝が斬り殺されたのをきっかけに、三成に味方すると述べたものの、その意見は通らず家臣たちが大谷吉継に攻めかかるというところです。  嶋信勝が秀秋隊のところに乗り込んだというところは史料的に確認されていませんし、最近の研究では、白峰氏によって、従来の関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/10/28 10:58
石田三成の実像2074 映画「関ヶ原」の描き方7 兼続との密約・夜襲案?
 映画「関ヶ原」では、原作通り、七将による石田三成襲撃事件の際、三成は家康の屋敷に逃げ込んだという描き方がされていました。しかし、実際、三成は伏見城内にある治部少丸にある自分の屋敷にたてこもったということが、当時の史料には記されていると、笠谷和比古氏によって指摘されています。  また三成と直江兼続の間には、家康を東西から挟撃する作戦があったというふうに描かれていました。こういう作戦があったかどうかは見解の分かれるところですが、あったとしても、密約ですから確かめようがありません。しかし、白川亨氏... ...続きを見る

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2017/10/27 22:13
石田三成の実像2073 映画「関ヶ原」の描き方6 武将としての姿・墓前への准一さんの誓い
 映画「関ヶ原」において、三成は小早川秀秋が蔚山城の戦いで、逃げる敵を追いかけ首を取る追首をしたことを武将らしくないと非難していましたが、こういう描き方がおかしいことは昨日付の拙ブログで述べました。しかし、好意的に見れば、武将としての三成を描こうとしている証だとも云えます。  秀吉の死後、七将による襲撃事件の責任を問われて、佐和山に引退した三成が馬場で馬に乗りながら、手槍で的に当てる場面がありましたが、家康との対決に向けて修練に励む姿には、いかにも武士らしい勇ましさが表れていました。  こう... ...続きを見る

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2017/10/26 10:11
石田三成の実像2072 映画「関ヶ原」の描き方5 小早川秀秋2
 映画「関ヶ原」では、大津城の門前につながれた三成に対して、秀秋が義を貫けなかったと謝罪する場面がありましたが、原作の司馬遼太郎氏の小説では、三成をのぞき見している秀秋を三成が見つけて、次のように非難しています。  「汝(うぬ)は太閤殿下の御縁者であり、御恩をもっとも多く蒙りながら、殿下の天下をぬすみ去ろうとする老奸に加担し、義を捨て、盟友を裏切った。うぬの醜名は日本国に人が住みつづくかぎり語り伝えられるであろう。わしが鬼となってののちは、うぬをこの地上には生かしておけぬ」と。  それに対し... ...続きを見る

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2017/10/25 10:18
石田三成の実像2071 映画「関ヶ原」の描き方4 北政所・小早川秀秋
 映画「関ヶ原」では、北政所役のキムラ緑子さんの、尾張弁丸出しで、淀殿をヒステリックに非難するなどの怪演ぶりも光っていましたが、司馬遼太郎氏の原作通り、三成ら近江派大名を嫌い尾張派大名や小早川秀秋を支援し、家康に頼るという捉え方がされていました。秀秋に家康へ裏切りすることも勧めるというところも同じでした。  ここには、北政所=尾張派=家康VS淀殿=三成ら近江派の構図で描かれていました。映画では、大谷吉継も近江派の中に入っていましたが、吉継は近江の小谷出身だという見解が採用されているのでしょう。... ...続きを見る

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2017/10/24 10:24
石田三成の実像2070 映画「関ヶ原」の描き方3 実際は縁起をかついだ「大一大万大吉」の旗印
 映画「関ヶ原」では、三成の旗印「大一大万大吉」が、効果的に使われていました。三成を憎んでいた初芽が、三成に惹かれるようになったのは、その旗印に込められた意味に、三成の理想が込められていることを知った時からだという描き方でした。  その旗印の意味は、「一人が万民のために尽くし、天下か泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」というものでした。  この旗印の意味は前原正美氏の解釈に基づくものだと思われます。その解釈は次の通りです。  「『大』とは天を意味する。『天のもと、一人が万民のために生命(... ...続きを見る

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2017/10/23 10:10
三成の実像2069 映画「関ヶ原」の描き方2 もっと早く出会っていた三成と嶋左近
 映画「関ヶ原」では、三成と島(嶋)左近の出会いを豊臣秀次の妻子が処刑される時だとして描かれていました。秀吉の横暴ぶりに怒った左近が処刑場から立ち去るのを見つけた三成が見つけて、後を追い、自分の家臣になってくれと頼んでいました。  しかし、実際は左近が三成に仕えたのは、これよりずっと前でした。昨年、佐竹氏に宛てた左近の書状が発見されましたが、天正18年(1590)7月19日付と25日付のもので、北条氏が秀吉に降伏し、奥州仕置に向う最中のものでした。これは、すでにこの時点で左近が三成の家臣である... ...続きを見る

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2017/10/22 10:12
三成の実像2068 映画「関ヶ原」の描き方1 三献茶は天寧寺で撮影・秀次妻子処刑場で初芽との出会い
 映画「関ヶ原」では、三成が秀吉に見出されたとされる三献茶の話から始めていました(その前に関ヶ原の戦いの前日の三成が描かれており、それが冒頭シーンでした)が、これは小説通りでした。もっとも、撮影場所は大原観音寺ではなく、彦根の天寧寺でした。羅漢像が立ち並ぶ前に秀吉が椅子に座り、少年の三成(佐吉)がお茶を三回差し出していました。立ち並ぶ羅漢像はインパクトがあるので、映像的には成功しているように思いました。むろん、三献茶の話は、江戸時代中期に書かれた説話集「砕玉話」(『武将感状記』)に記されているの... ...続きを見る

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2017/10/21 12:45
三成の実像2067 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」70
 今日、ようやく映画「関ヶ原」を見てきました。いろいろと突っ込みどころはありましたが、壮大なスケールで描かれる合戦絵巻は圧倒的な迫力がありましたし、三成も義に生きた人物として好意的に捉えられていました。この映画の内容については、拙ブログで改めて詳述するつもりです。  さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9... ...続きを見る

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2017/10/20 18:37
三成の実像2066 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」69
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月20日条には、次のような記載もあります。 「大津城にてそのまま対(以下の文字は破損・虫損等により読めない)。近衛信尹より使いがあったので(西洞院時慶が)参上して(話を聞いたところ、近衛信尹は)家康を迎えに草津まで(前日に?)行ったが、家康が語ったところでは、前田玄... ...続きを見る

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2017/10/19 10:25
三成の実像2065 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」68
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、拙ブログで前述したように、「北野社家日記」の9月20日条に、「伏見で放火がある」という記載がありました。  伏見が焼けたという記述は、「義演准后日記」の同日条にもあります。  すなわち、「伏見で大名の屋敷が焼失した。終夜、焼けた。(これは)大坂(豊臣公儀)への覚え(この場合の意味は要... ...続きを見る

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2017/10/18 18:28
三成の実像2064 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」67
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月19日条に、次のような記載があります。  「世上騒動のことがあるので、山科言経が禁中の加番.(を勤めるため)に来た」と。  関ヶ原の戦いで、豊臣公儀側が敗れ、家康が勝利したことで、朝廷や畿内が相当動揺し、混乱していたことがわかります。言経が大坂城の家康を訪ねるのは、... ...続きを見る

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2017/10/17 10:23
三成の実像2063 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」67
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月19日条に、次のような記載があります。  「北野天満宮の祠官・松梅院が養命坊と同道して家康を迎えに出かけたが、日ノ岡に関所がすえられているので各自が帰った。家康は草津に逗留とのことである」と。  松梅院は、前述したように、杉若無心が大津攻めに向かった時、送って行... ...続きを見る

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2017/10/16 10:20
三成の実像2062 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」66
 フェイスブックの方で、先週、家族で行った城崎一泊旅行のことを写真入りで記しています。興味のある方はのぞいてくださればと思います。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)... ...続きを見る

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2017/10/15 10:35
三成の実像2061 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」65
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)条に、北政所や家康の動向について、次のような記載があります。 「昨夜、北政所が座を移された、とのことである。准后(勧修寺晴子)の御方にいるという風説(があり)これを尋ねるつもりである。木下家定の私宅あたりに木下勝俊が籠っている、とのこと... ...続きを見る

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2017/10/14 10:10
三成の実像2060 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」64
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月18日(関ヶ原の戦いの3日後)条に、次のように記載されています。  「早くも家康は草津まで御上洛(の途中)にある。『天下初』(家康の天下初め、ということか?)になる、ということである。(関ヶ原の戦いで)石田三成、大谷吉継そのほか各大名衆は討死した。毛利輝元と家康は... ...続きを見る

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2017/10/13 10:23
三成の実像2059 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」63
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように「義演准后日記」の9月17日条に、義演が関ヶ原の戦いの結果を知ったことが述べられており、次のような記載です。  「義演が(大坂の)森口より寅の刻(午前4時頃)に出て橋本辺りにて、美濃方面(美濃国関ヶ原ヵ)で破軍(戦いで敗北したこと)の旨のおおよその風聞があった。淀のあたり... ...続きを見る

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2017/10/12 10:23
三成の実像2058 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」62
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「北野社家日記」の9月17日条にも、北政所についての、次のような記載があります。  「毛利輝元より(北野天満宮へ)人が来た(北野天満宮)」「木下家定が大坂へ人質に(をヵ)呼びに下った、とのことである」「北政所も禁中に出る」  北政所の記載についての、白峰氏の解説は次の通りです。  ... ...続きを見る

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2017/10/11 10:38
三成の実像2057 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」61
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の9月17日条には、北政所について、次のような注目すべき記載があります。  「近江国佐和山(城)が落(城)した。後日にこのことを聞いた。禁中あたりの『太閤屋形』(京都新城)に北政所は常に住んでいたが、兄弟の木下家定が大坂から人数を率いて迎えに来た。それから晩に北政所は陽光院... ...続きを見る

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2017/10/10 21:27
三成の実像2056 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」60
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の9月15日(関ヶ原の戦いの日)条には、次のような記載があります。  「平野(神社)へ石を車にて遣わした。裏の土居道は少し広く、土を方々へ持たせて遣わした。地形を直した。曼殊院良恕より西洞院時慶のところへ使者が来て、陣の祝いの有無について(質問されたので)、聞いていない旨を述... ...続きを見る

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2017/10/09 00:09
三成の実像2055 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」59
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月15日条には、関ヶ原の戦いのことに言及されているものがあり、その続きです。  「中臣祐範記」には、次のように記されています。  「尾州(美濃国関ヶ原ヵ)にて家康方と上方衆との合戦が度々あり、上方衆が優勢であったが、『手前』(自分の目の前)に至り、小早川秀秋が裏切り、うしろか... ...続きを見る

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2017/10/08 10:39
三成の実像2054 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」58
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月15日条には、大津城のことに触れられているものもあり、関ヶ原の戦いのことに言及されているものもあります。  大津城のことについては、「北野社家日記」に「大津城は毛利元康が受け取った」「杉若無心も今日(大津城攻めから)帰陣した」と記されています。  関ヶ原の戦いについては、... ...続きを見る

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2017/10/07 10:36
三成の実像2053 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」57
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月14日条にも、大津城攻めに関して、次のような記載があります。  「舜旧記」には、「大津城が落ち、(城主の)京極高次は高野山に住居」と記されています。このことは、前述したように、「中臣祐範記」の9月13日条にすでに記載がありました。  「北野社家日記」には、「北野天満宮の祠... ...続きを見る

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2017/10/06 10:15
三成の実像2052 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」56
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の9月13日条に大津城攻めに関して、次のような記載があります。  「北野社家日記」には、「今朝、大津城三の丸へ(毛利元康が)乗り込む。杉若無心も同様である」「今晩、北野天満宮の祠官・松梅院が大津より帰る」と。  「松梅院」は、同日記の前日条に、杉若のお供をして大津まで行った人物... ...続きを見る

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2017/10/05 10:29
三成の実像2051 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」55
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めに関して、「義演准后日記」の9月11日条に次のような記載があります。  「当郷(醍醐)に陣取りした小野の竹を伐った。ことわり(伐採禁止のことを指すと思われる)を(申し)遣わしたが、多人数にて(竹を)伐った」と。  前にも触れたように、同日記の9月6日条に、「陣取りをすること... ...続きを見る

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2017/10/04 18:32
三成の実像2050 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」54
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めについて、「舜旧記」の9月9日条には、北政所についての記載があります。  「暮れに及び北政所が豊国社へ参詣」と。  この時の北政所の思いはわかりませんが、大津城の和睦がうまくいくように、三成ら奉行衆や毛利・宇喜多の大老による豊臣公儀側が勝利して、早く太平の世が来ることように... ...続きを見る

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2017/10/03 10:21
三成の実像2049 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」53
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めについて、9月9日条の各日記にも記載があります。   「北野社家日記」には次のように記されています。  「『能札』(人名)が大津城攻め(をしている)毛利元康の見舞いに行く、ということを述べた」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「北野社ー5、291... ...続きを見る

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2017/10/02 10:09
三成の実像2048 高野山の墓・経堂 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記」52
 NHKの番組「ブラタモリ」の「高野山と空海」の中で、高野山にある石田三成の墓の映像もほんの一瞬だけ紹介されましたが、残念ながらナレーションは入っていませんでした。この墓は、三成自身が天正18年(1590)に建てたもので、逆修墓と云います。この墓については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「紀伊・高野山」の章の中で、写真入りで紹介しています。「ブラタモリ」では、奥の院にはテレビカメラが入れないため、タモリさんらだけがお参りし、奥の院の映像はありませんでしたが、三成は文禄3年(1... ...続きを見る

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2017/10/01 11:02
石田三成の実像2047「歴史捜査 なぜ大谷吉継だけが死んだのか?」4  漫画「石田三成の青春」
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、「石田軍記」に三成の家は貧しかったので、近くの寺に小姓として入れたと記されているものの、観音寺の林昭一住職が、行儀見習いや学問の修業のために預けられたと聞いていると述べておられ、寺は当時最高の教育機関であり、三成は学問を積む機会に恵まれたエリート少年だったと説明されていました。  観音寺には、三成が学んでいたという伝承が伝わっているのかもしれませんが、史料的には確認されていま... ...続きを見る

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2017/09/30 10:54
石田三成の実像2046  中野等氏「石田三成伝」6  唐入り6 安宅秀安の薩摩行き
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球との交渉や朝鮮半島への渡海準備もままならない島津家に対して、三成が家臣の安宅秀安を薩摩に派遣したと記されていることを前述しました。  このことに関して、「安宅秀安は、4月3日に肥後水俣を経て、7日には鹿児島に入った」と記されています。今回の7月29日から8月1日にかけての、三成の九州ゆかりの地を巡る旅の中でも、三成が九州攻めの際辿った水俣城跡を経て鹿児島に入りましたが、安宅も同じような道を辿ったものと思われます。  これに関連して、天正20年... ...続きを見る

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2017/09/29 23:22
石田三成の実像2045「歴史捜査 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」3
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、三成の事績が紹介された中で、朝鮮の役のことが取り上げられていました。  番組では、秀吉の代わりに朝鮮半島に渡っ三成らは、前線を視察し、このまま勝ち続けたとしても、兵糧が尽き、冬を迎えて全滅してしまうと分析、これ以上の進軍を中止する命令を出したが、この決定に現地の武将たちは反発し、前線で血を流さない奉行としての三成に怒りをつのらせたこと、秀吉死後に朝鮮から撤兵した武将たちの三成... ...続きを見る

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2017/09/28 18:06
石田三成の実像2044「歴史捜査 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」2
  BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、秀秋が開戦時に松尾山の山頂にいたという通説について、白峰旬氏は次のように反論されていました。  「一次史料には開戦時松尾山の山頂に小早川が布陣していたという記録はない。開戦時には小早川は松尾山の前に位置する小高い山に布陣していた可能性が高い。大谷軍は背後の小早川軍を味方と考えて警戒していなかったと考える」と。  それを示す一次史料として、「大谷吉継が関東勢を一町あとへ突き... ...続きを見る

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2017/09/27 10:17
石田三成の実像2043「歴史捜査 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」1
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 大名の中でなぜ大谷吉継だけが死んだのか?」の中で、白峰旬氏の新説が大きく取り上げられていました。もっとも、関ヶ原の戦いに至るまでの経過も割と長く紹介され、三成や吉継の出自や朝鮮の役などにも触れられていました(朝鮮の役に関しては、今までの「歴史捜査」でも説明されてきたことの踏襲であり、問題を感じる部分がありましたが、これについては後述します)から、大谷吉継だけがなぜ死んだということに関しては、後半で示されていたので、もう少し時間... ...続きを見る

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2017/09/26 10:13
石田三成の実像2042「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」7
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、桐野作人氏は、九州の関ヶ原の本質については、「如水は東西両軍とも違う第三勢力を構築しようと思っていたのではないか。これは家康とも毛利輝元とも仲良くしつつ、九州の中で勢力を築いていき、中央でどちらが勝つにせよ、勝った方に自分を高く売りつけようと考えていたが、これは空振りに終わった。しかし、関ヶ原で勝ったのは家康に味方した豊臣家恩顧の武将の力が大きかったため、家康は彼らに莫大な恩賞を与えることになり、西国... ...続きを見る

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2017/09/25 10:37
石田三成の実像2041「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」6
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、江上・八院の戦いに負け、進退窮まった立花は柳川城に籠城し、さらにそこに攻め手として清正と如水の兵が加わり、立花の命運が付きかけたが、立花は作戦を講じており、その作戦についても中西氏が解説されていました。  「立花は家康に詫びを入れずに帰国したが、一人上方に残してきた家臣に家康に詫びを入れさせ、赦免状をもらって帰ってきたため、戦う必要がなくなり、降伏して無血開城した」と。  このあたりのことについて... ...続きを見る

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2017/09/24 11:11
石田三成の実像2040「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」5
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、関ヶ原の戦いの後の、九州での戦いについて取り上げられていました。  大坂城から毛利輝元を退去させた家康は、西軍についた大名の討伐を開始し、九州の大名でそのターゲットになったのは、立花宗茂と島津義弘であったこと。家康は如水と清正に対して、まず柳川の立花の討伐を命じたこと。立花宗茂の猛将ぶりを示すものとして、使っていた甲冑が兜は普通の1・5倍の重さがあり、胴も重く鉄砲に対する備えができており、甲冑から割... ...続きを見る

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2017/09/23 17:41
石田三成の実像2038「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」3
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、黒田如水が関ヶ原の戦いの際、九州で活発な動きに出ていたことが述べられていました。  中西豪氏はこの点について、関ヶ原の戦いを好機にして、如水は、黒田家の領地を広げるという野望を抱いたと解説されていました。  しかし、番組ではこの時、黒田家の居城である中津城にはわずかな兵しか残っておらず、如水は城内に蓄えていた金銀、米を放出し、それで浪人を集め、兵を整えたと伝えられている、「黒田家譜」によると集まっ... ...続きを見る

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2017/09/21 11:31
石田三成の実像2037「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」2
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、黒田長政の調略は、吉川広家に対してだけでなく、小早川秀秋に対しても行われたと述べられていました。  番組では、8月28日付で秀秋に宛てた長政書状の中に、「寂しくしている北政所への忠節があるなら、東軍の家康に味方するように」という記述があり、秀秋に寝返りを促す内容だったこと、最終的に秀秋を動かしたのは地位や領地ではなく、自分を育ててくれた叔母の北政所への思いだったこと、長政は秀頼体制の中で逼塞している... ...続きを見る

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2017/09/20 21:03
石田三成の実像2036「歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」1
 BSで放送された番組「片岡愛之助の解明!歴史捜査 それぞれの関ヶ原 黒田如水・長政の野望」で、白峰旬氏、桐野作人氏が出演されていました。  まず白峰氏は、関ヶ原の戦いにおいて、家康方も三成方も豊臣公儀だったという従来の捉え方に異議を唱えられていました。すなわち、関ヶ原の戦いのきっかけになった上杉攻めは、公戦の形に偽装した家康による軍事動員であったこと、家康はこのままでは秀吉死後の集団指導体制が維持され、秀頼が成人すれば自分の政治的地位が低下するのは明白だったため、強引に上杉攻めを発動したこと... ...続きを見る

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2017/09/19 10:28
石田三成の実像2035 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」5 首謀者不在説
 BSで放送された番組 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」では、首謀者が三成ではないとしたら、一体誰かということに対して、乃至政彦氏は西軍の首謀者不在説を主張されていました。三成が重要な人物として活躍したことは間違いないけれども、主導していた人物ではなかった、応仁の乱や信長包囲網の首謀者が誰だったかはよくわからないように、関ヶ原の戦いの西軍もそうだったのではないかと。この点について、白峰氏の見解のように、「内府ちかひの条々」を出したことによって、豊臣公儀としての毛利・石田連合政権が成立し、その... ...続きを見る

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2017/09/18 10:34
石田三成の実像2034 「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」4 高橋陽介氏の見解2
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」の中で、「西軍の首謀者は石田三成ではなかった」という高橋陽介氏の見解ですが、三成が佐和山で吉継を説得したという説について、頼む側と頼まれる側が逆であったのではないかというだったと指摘されています。  通説では、三成が吉継を佐和山に呼んで、吉継に挙兵を持ち掛けたところ、吉継は「やめておけ。万に一つの勝機もない」といさめたものの、三成の意思は固く吉継を熱意で説得し、吉継はそれに最終的に同意し、二人は相談して毛利輝元を総大将にあおぐことにし、これ... ...続きを見る

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2017/09/17 11:06
石田三成の実像2033「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」3 高橋陽介氏の見解1
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」の中で、「西軍の首謀者は石田三成ではなかった」という高橋陽介氏の見解が紹介し、ご本人も出演されていました。  その根拠の一つ目として、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」に増田長盛・長束正家・前田玄以の署名がされており、三成の署名がないこと、7月26日付の三奉行連署状にも三成の名がないこと。根拠の二つ目は、当時の公家などの京都人の日記に、三成の名前がなく、処刑される時に初めて三成の名が出てくること。具体的には「御湯殿上日記」には、西軍が挙兵... ...続きを見る

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2017/09/16 11:12
石田三成の実像2032「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」2 参謀本部の布陣図は創作・正午には決着
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」で、関ヶ原の戦いに関する白峰旬氏の新説として「主戦場は関ヶ原ではなく、戦いは2時間で終わった」ということが述べられていましが、その根拠の3つ目として、明治26年に参謀本部が作成した「日本戦史」の合戦の「布陣図」(それが現在も流布)には信憑性がなく、創作されたものであることが挙げられていました。 参謀本部が作成した「布陣図」は、東軍は中央突破に強い魚鱗の陣を展開し、福島正則だけが最前線に配置されているのに対して、西軍は敵を包囲する鶴翼の... ...続きを見る

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2017/09/15 11:13
石田三成の実像2031「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」1 秀秋は最初から家康方
 BSで放送された「諸説あり!『関ヶ原の戦い』の真実」で、関ヶ原の戦いに関する新説として、本郷和人氏、白峰旬氏、高橋陽介氏の見解が紹介されていました。  本郷氏の新説は、「小早川秀秋は裏切り者ではなかった」というもので、関ヶ原の戦い前後の状況を考えてみると、秀秋は最初から東軍だったということが明らかになると述べられていました。その根拠の一つは、合戦前日に秀秋は松尾山から西軍の伊藤盛正を追い出して占拠したという点(番組では触れられていませんでしたが、拙ブログで前述したように白峰氏は秀秋が松尾山に... ...続きを見る

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2017/09/14 18:48
石田三成の実像2030 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」6 吉継は秀秋を疑わず
 「歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったとする見解が示されています。しかし、この見解に対して、当時の人々は「山中」も「関ヶ原」も区別せず同じように捉えていたのではないかという意見をよく聞きますが、当時も明確に使い分けていたという根拠も示されています。  それは9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状に、「今15日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人悉討捕候(ことごとくうちとりそうろう)」とあるのに対して、9月24日... ...続きを見る

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2017/09/13 10:25
石田三成の実像2029 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」5 短時間で終わった理由
 歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、石田方本隊が短時間のうちに敗れた理由について、次のように記されています。  「石田方本隊の大垣からの転進と山中布陣の目的が、南宮山の毛利勢と連携して家康方を挟撃する態勢を取ることにあったとすれば、家康方主体が15日早朝に関ヶ原へ展開し、開戦となったことは想定外であり、不意を突かれた石田方は一方的に攻め込まれ、短時間で敗北してしまったのだろう」と。  このことについて、樋口隆晴氏の見解が紹介され、その異同について記されています... ...続きを見る

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2017/09/12 10:32
石田三成の実像2028 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」4 二重の後詰のための転進 
 「歴史群像 10月号」(学研)の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」の中で、三成方本隊が大垣城を出て山中へ移動したことについて、「大垣城への後詰である南宮山の毛利勢への後詰ということになり、換言すれば『二重の後詰』ということになる。翌15日に予想される徳川勢の南宮山攻撃に対して反転・攻撃できる態勢を整えるためには、どうしても14日夜の間に大垣城から移動する必要があり、また夜間の転進ならば、大垣城攻囲中の家康方の軍勢に察知されにくいという判断もあったのであろう」と指摘されています。  白峰氏の同論考に... ...続きを見る

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2017/09/11 10:09
石田三成の実像2027 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」3 広家は家康に屈服
 白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(「歴史群像 10月号」【学研】所載)の中で、家康の当初の作戦計画について、毛利勢が南宮山に陣取ったことで、家康本隊が南宮山の後詰軍を攻撃する作戦に出ようとしたことが指摘されています。  それに対して、「家康との決戦を回避しようとして動いたのが吉川広家であ」り、「家康本隊の攻撃を恐れて家康に『命乞い』をしたのであり、とても対等な立場で交渉したと言えるものではなかった」と記されています。  広家が9月17日付の自筆書状案の中で、「家康が毛利輝元との和睦に異論はな... ...続きを見る

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2017/09/10 11:14
石田三成の実像2026 「歴史群像」の白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」2 大垣後詰決戦構想
 白峰旬氏の「関ヶ原合戦の真実」(「歴史群像 10月号」【学研】所載)の中で、家康の当初の作戦について、9月26日頃に書かれたと推定される伊達政宗書状と、家康の側近である村越直吉と今井宗薫に宛てた政宗の返書に書かれている内容が取り上げられています。  前者には「大垣城への押さえに以前から岐阜表に陣取りをしている衆(福島正則・池田輝政など)を差し向け、南宮山の毛利勢は家康自身(徳川本隊)を討ち果たすつもりである」という記述、後者には「大垣城への『助衆』として毛利秀元・長束正家・吉川広家・安国寺恵... ...続きを見る

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2017/09/09 15:18
受贈御礼「歴史群像 10月号」 石田三成の実像2025 白峰旬氏「関ヶ原合戦の真実」1
 白峰旬氏から「歴史群像 10月号」(学研)をご恵贈賜りました。この場を借りてお礼申し上げます。この本の中に、白峰氏のご論考「関ヶ原合戦の真実」が掲載されています。  この論考は、今までのご著書「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)、「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)や「別府大学大学院紀要」「別府大学史学研究会『史学叢書』」などに掲載されたご論考をもとに、さらに踏み込んだ見解を示されています。  その基本姿勢は、「後世の創作(フィクション)を排除して、良質な一次史料の解釈から、全く... ...続きを見る

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2017/09/08 22:52
三成の実像2024 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」35
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、丹後田辺城攻めについて、拙ブログで抜けていた部分がありますので、申し訳ありませんが、捕足します。第35回の部分です。  「時慶記」の8月17条には次のような記載があります。  「西洞院時慶が近衛信尹のところへ参上した時、大坂(豊臣公儀)と家康の間の□(扱ヵ)のことを聞かされ、数刻(数... ...続きを見る

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2017/09/07 10:38
石田三成の実像2023  中野等氏「石田三成伝」63  唐入り5 名護屋へ着陣
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が名護屋へ着陣したことを示すものとして、相良頼房充て書状が取り上げられていましたが、それに添えられた三成の家臣である駒井権五郎の副状の内容も紹介されています。  「御挨拶として、三成(治部少)へ御さかなを御進上いただきましたので、披露をいたしました。満足であると仰いました。私にも御帷子を二つ下され、まことにありがとうございます。何にしろ、後刻そちらへ伺って、お話をうかがいます。なお、御使者へいろいろ話をしておきます」と。  家臣にも贈り物が... ...続きを見る

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2017/09/06 11:31
石田三成の実像2022  中野等氏「石田三成伝」62  唐入り4 名護屋へ出陣
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が「唐入り」のために、天正20年(1592)2月20日に大谷吉継と共に京を発足したことが記されています。その典拠は、「言経卿記」が挙げられています。それまでの三成について、「正月28日の前田玄以が催す能興行に、増田長盛とともに招かれていることから推して、この間に在京して出兵の準備にあたっているものと考えられる(『史料綜覧』)と記されています。  中野氏の同書には、3月4日付で大谷吉継・増田長盛・三成が連署して発給した過書(通行許可書)が掲載され... ...続きを見る

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2017/09/05 10:28
石田三成の実像2021 中野等氏「石田三成伝」61  唐入り3 琉球との交渉
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、唐入りに関して、三成と島津家との関わりについて述べられていますが、その続きです。  「天正20(=文禄元)年正月21日付で、三成は細川忠興とともに、島津義久・義弘充てに連署状を発し、出水島津家の処遇を述べ、琉球との交渉を島津家に委ねること、肥前名護屋への出陣などを指示している」と記されています。  琉球のことに関しては、この3年余り前の天正16年11月に、「三成は琉球への使者派遣の件で義弘を促す」とあります。  中野氏の「戦争の日本史16 文禄... ...続きを見る

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2017/09/04 10:41
三成の実像2020 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」51
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、大津城攻めについて、9月7日条には、前述した「北野社家日記」以外の日記にも記載があります。  「義演准后日記」では、「(醍醐での)陣取り衆は早朝に出立し、横峰(峠)越えの人数(軍勢)もいた。(今後の展開は)不慮次第である。午の刻(真昼の12時頃)に少し大津で焼き立てられ、申の刻(午後4... ...続きを見る

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2017/09/03 21:55
旅行記114 石田三成の実像2019 九州の三成ゆかりの地巡り19 舞鶴城跡
  写真は霧島市国分の城山公園の展望台からの眺めを8月1日に撮ったものです。正面の向こうの方に鹿児島空港があります。向かって右側あたりが、かつて三成領であった国分清水だと思われます。  国分城山公園は国分郷土館を少し上がった、頂上のところにあります。観覧車や遊具もあって、休みの日などには家族連れで賑わっているのでしょう。  われわれは城山を下り、その西にある舞鶴城(国分新城)跡に行きました。国分小学校の南側に碑や島津義久の辞世の歌碑、伊呂波歌碑、舞鶴城の復元図も描かれた説明掲示板などが建って... ...続きを見る

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2017/09/02 00:15
旅行記113 石田三成の実像2018 九州の三成ゆかりの地巡り18 国分郷土館
 写真は霧島市の城山にある国分郷土館を8月1日に撮ったものです。尚古集成館・仙巌園を見た後、行きました。島津領の太閤検地の結果、検地を担当した三成(自身は上方にいて、家臣を派遣して担当させましたが)にも島津領に6800石の領地が与えられましたが、そのうち国分清水領を目指しました。しかし、道がよくわからず、着いたのは清水の南にある国分郷土館でした。館員に聞いて、自分たちの位置を知りました。  館内には、いろいろ興味深い展示がありましたが、「秀吉による知行替え」と題する次のような文が記されていま... ...続きを見る

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2017/09/01 11:03
旅行記112 石田三成の実像2017 九州の三成ゆかりの地巡り17 鶴嶺神社・亀寿姫
 写真は仙巌園・尚古集成館のそばにある鶴嶺(つるがね)神社を8月1日に撮ったものです。島津家歴代当主と家族が祀られていますが、特に亀寿姫について、説明掲示板に次のようなことが記されています。  「亀寿姫は、元亀2(1571)年16代島津義久の三女として誕生しました。天正15(1587)年、父義久が豊臣秀吉に降伏、亀寿姫は人質として秀吉のもとに送られました。  その後、18代家久(義久の弟義弘の嫡男)の夫人となり、寛永7(1630)年に亡くなりました。心優しい人であったと伝えられ、鹿児島の人た... ...続きを見る

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2017/08/31 11:22
旅行記111 石田三成の実像2016 九州の三成ゆかりの地巡り16 黎明館・集成館
 写真は鹿児島の鶴丸城跡碑を8月1日に撮ったものです。三成ゆかりの旅をめぐる旅の4日目、最終日に、城山展望台に少し立ち寄った後、鶴丸城跡に建つ、鹿児島県歴史資料センター「黎明館」を見学しました。一階から三階まであり、一通り回るだけでも一時間程かかりました。三成関係では、太閤検地の後の島津領の絵図に、三成領と書かれたところがありました。  また企画展示室では、「小松帯刀とその時代」展が開かれており、小松帯刀関係の資料が多数展示されていました。時間があれば、もっとじっくり見たいところでした。図録が... ...続きを見る

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2017/08/30 10:30
旅行記110 石田三成の実像2015 九州の三成ゆかりの地巡り15 泰平寺の和睦
 写真は鹿児島県川内市の泰平寺公園に建つ、秀吉・義久の和睦の像を7月31日に撮ったものです。この奥に太平寺の本堂が見えています。今は太平寺の寺領は狭くなりましたが、元は泰平寺公園も泰平寺の境内でした。  九州攻めの際、秀吉が本陣を置いたところですから、かなり大きな寺であったはずです。島津義久が剃髪して、秀吉に降伏したのは、天正15年(1587)5月8日のことです。三成もこの時、泰平寺にいたに違いありません。  この後の三成の行動について、中野等氏の「石田三成の居所と行動」(藤井讓治氏編『織豊... ...続きを見る

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2017/08/29 10:15
旅行記109  石田三成の実像2014  九州の三成ゆかりの地巡り14 出水麓・武家屋敷
 写真は出水麓の武家屋敷のうち、竹添邸を7月31日に撮ったものです。竹添邸は、大河ドラマ「篤姫」のロケ地になりました。武家屋敷はもう一つ、税所邸が公開され、出水麓歴史館との共通入館証のバッジを買うと、入館できるようになっていました。  出水麓について、歴史館のパンフレットには次のように記されています。  「江戸時代、薩摩藩は『外城(とじょう)』と呼ばれる地方支配の拠点を設置。『外城』で政務や地方警護を担う武士の住居と陣地を兼ねた町は麓と呼ばれ、藩内には約百か所存在したと言われていますが、その... ...続きを見る

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2017/08/28 10:18
旅行記108  石田三成の実像2013  九州の三成ゆかりの地巡り13 水俣城から出水城へ
 写真は水俣城跡の碑を7月31日に撮ったものです。大口城跡、忠元神社を回った後、立ち寄りました。水俣城跡といっても、こじんまりとしたものでした。碑のそばのところをちょっと登ると、水俣城跡古井戸があります。当時は実際使われていたのでしょう。稲荷神社や荒神神社のすぐそばにあります。  水俣城は、実際もっと大きな敷地があったはずで、一部だけが残っていたという印象を受けました。  ここに立ち寄ったのは、秀吉の九州攻めの際、秀吉や三成が実際、ここまで来ているからです。   「宗湛日記」によれば、水... ...続きを見る

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2017/08/27 10:32
石田三成の実像2012 中井俊一郎氏と田附清子氏の息の合った対談1 信幸への手紙
 6日に米原の観音寺で行なわれた中井俊一郎と田附清子氏の対談は、心が通じ合ったオンライン三成会の者同士だけに、息もぴったりで中身も濃いものでした。わずか30分しかないのが残念なほどでした。中井氏の一時間の講演ももう少し長ければもっといろいろ語ってもらえたはずで、もっと聴きたい思いが強くしました。  まず田附氏は映画「関ヶ原」にエキストラで出演しているという話をされていました。冒頭の豊臣秀次の一族が殺される場面においてですが、私も田附氏を映画の中で見つけることができるかどうか、楽しみにしています... ...続きを見る

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2017/08/26 11:51
旅行記107  石田三成の実像2011 九州の三成ゆかりの地巡り13 忠元神社
 写真は新納忠元を祀った、鹿児島県伊佐市の忠元神社を7月31日に撮ったものです。忠元の居城であった大口城跡を見た後に訪ねました。本殿の前には、創建当時の鬼瓦や手水鉢が置かれていました。また忠元が青少年の守るべききまりを定めた「二才咄(にせばなし)格式定目」の碑も建っていました。.忠元ゆかりの狭野(さの)杉も立っていますが、島津義弘が文禄の役の際に狭野神社に祈願し、慶長の時代になって忠元を遣わして多くの杉を植えさせ奉納したのを、忠元神社にも移植したものです。  天正15年(1587)の秀吉の九州... ...続きを見る

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2017/08/25 00:09
旅行記106 石田三成の実像2010 九州の三成ゆかりの地巡り12 説得に赴いた大口城跡
写真は大口城跡を7月31日に撮ったものです。この日は旅行の3日目でしたが、まず人吉城跡を時間をかけて回りました。水ノ手門口から御下門、二ノ丸、本丸、三ノ丸、相良神社、相良内蔵助屋敷跡の地下室再現などを回りましたが、その詳しいことはフェイスブックの方で写真入りで紹介していますので、興味のある方はそちらの方をご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  その後、訪ねたのが鹿児島県伊佐市の大口城跡です。大口小学校の校庭の奥の山... ...続きを見る

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2017/08/24 12:26
石田三成の実像2009 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」3  家康の公儀性剥奪 
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていましたが、その続きです。  その新聞記事には白峰氏の、関ヶ原合戦に関する次のような新見解も紹介されています。  「関ヶ原合戦は、終了時には『天下取りの戦い』ではなかった」、「家康を糾弾した『内府ちかひの条々』で、この戦いでの家康の軍事指揮権は豊臣政権から剥奪されており、武将を率いてはいたが、かなり微妙な立ち位置だった。戦後に大坂城を受け取ったのが家康... ...続きを見る

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2017/08/23 15:57
石田三成の実像2008 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」2 通説の布陣図は創作
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていましたが、その続きです。  「関ヶ原合戦における東軍と西軍の布陣については、日本陸軍参謀本部の『日本戦史図』が正しい」という通説に対して、「『日本戦史図』には矛盾が多い」として疑問が呈され、その根拠として「福島正則だけが飛び出している。複数の武将が固まって布陣するのが常識」だという点、「宇喜多秀家、小西行長らが地形に沿って斜めに布陣している。江戸時代の... ...続きを見る

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2017/08/22 10:29
旅行記105 石田三成の実像2007 九州の三成ゆかりの地巡り11 永国寺の耳塚
 写真は人吉市の永国寺にある耳塚を7月30日に撮ったものです。歴史館の係員から、この寺に耳塚があると聞いて立ち寄りました。山門の横に、千人塚石塔(耳塚)が建っていました。秀吉は朝鮮出兵の折、朝鮮の兵の耳鼻をそぎおとして塩漬けにし、日本に送るように命じました。相良長毎(頼房)も1800人の耳鼻をそいで、秀吉に進上しました。耳塚はその犠牲になった人々の霊を鎮めるために建てられました。有名な耳塚として、京都の豊国神社のそばに建つ大きな供養塔がありますが、こういう耳鼻そぎは秀吉が行った残虐行為の一つです... ...続きを見る

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2017/08/21 10:30
旅行記104 石田三成の実像2006 九州の三成ゆかりの地巡り10 裏切りを勧めた相良清兵衛屋敷の 
 写真は人吉城歴史館の中に復元されていた、相良家の重臣である相良(犬童)清兵衛の屋敷跡から発見された、井戸のある地下室を7月30日に撮ったものです。こういう地下室が発見されたというのは知りませんでした。願成寺の後、国宝の青井阿蘇神社へお参りし、その後人吉城歴史館を見学しました。  相良清兵衛は、関ヶ原の戦いの敗戦の後、大垣城に籠城していた時に、主君の相良長毎(頼房) に家康方に寝返ることを勧めた人物です。そのおかげで、相良家は存続を許されますが、その後、清兵衛は次第に専横が目立つようになり、... ...続きを見る

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2017/08/20 10:36
旅行記103 石田三成の実像2005 九州の三成ゆかりの地巡り9 願成寺の三成供養塔 
写真は人吉藩主だった相良家の菩提寺である願成寺にある石田三成ら六人の供養塔を7月30日に撮ったものです。八代城跡、球磨川を見た後、われわれは人吉に向かいました。  写真に向かって一番右側が三成、その左側が熊谷直盛・庄兵衛親子(三成の妹婿・甥) 、垣見一直、木村勝正・伝蔵親子の墓です。三成は周知のように関ヶ原で敗れ、京で処刑されますが、残りの5人は大垣城で相良氏・高橋氏・秋月氏によってだまし討ちにされています。熊谷らは三成らが関ヶ原に移動して敗れたあとも大垣城に籠って家康方と戦っていましたが... ...続きを見る

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2017/08/19 10:26
旅行記102 石田三成の実像2004 九州の三成ゆかりの地巡り8 宗湛と会った球磨川    
 写真は八代の球磨川を7月30日に撮ったものです。八代城跡を見た後、立ち寄りました。博多の商人の神屋宗湛が記した「宗湛日記」には、球磨川のほとりで三成に会ったという記述がありますが、この前後の宗湛の動向について、武野要子氏の「神屋宗湛」(西日本新聞社)には、次のように記されています。  天正15年4月「18日には秀吉の陣中見舞いのため、薩摩へ向けて出発している。宗湛は、同24日肥後八代の球磨川のほとりで石田三成に会い、三成から馬の飼料までもらい、27日卯ノ刻(午前6時)より三成のお供をし、薩州... ...続きを見る

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2017/08/18 18:59
旅行記101  石田三成の実像2003 九州の三成ゆかりの地巡り7 八代城・行長と清正2
 写真は八代城跡を7月30日に撮ったものです。この日は、熊本城、宇土城、八代城と道を南にとってきました。この後、球磨川、人吉の願成寺、青井阿蘇神社、人吉城歴史館、永国寺などを回りました。  秀吉は九州攻めの際、八代城に立ち寄っています(三成も秀吉に従って八代へ来ています)が、上記の八代城ではなく、相良氏が築いた八代城(古麓城)でした。ところが、その翌年、小西行長が肥後南半分を与えられた時、もっと西の球磨川河口に新たな八代城(麦島城)を築きました。  九州攻めの際、秀吉が八代に注目していたこと... ...続きを見る

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2017/08/17 10:51
旅行記100  石田三成の実像2002 九州の三成ゆかりの地巡り6 宇土城2 行長の面従腹背?
 写真は宇土城跡の石垣であり、あちらこちらに残っています。宇土城自体は、低い丘陵地帯に築かれており、見て回るのに全く困難は覚えませんでした。  行長が宇土を本拠地にした理由について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のように記されています。  「肥前を主とする沿岸部諸大名と海上の統括・監督という任務と関係があり、有明海・八代海・天草という九州西海岸の重要な海上交通の把握に最適な場所だったからであろう。もちろんそれを意図したのが秀吉であろうことは言うまでもない」と。  鳥津氏の同書... ...続きを見る

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2017/08/16 10:43
旅行記99  石田三成の実像2001 九州の三成ゆかりの地巡り5 宇土城・行長と清正
  写真は宇土城跡に建つ小西行長像を7月30日に撮ったものです。九州の三成ゆかりの地を巡る旅の2日目であり、熊本城の周りを回った後、次にレンタカーで向かったのが宇土城跡でした。 秀吉は九州攻めをして九州を平定した後の翌年の天正16年(1588)、肥後の北半分を加藤清正に、南半分を小西行長に領有させました。その前に佐々成政が肥後の領主になりますが、領内に一揆が起こり、その責を問われて切腹させられます。  宇土城について、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)には、次のようなことが記されていま... ...続きを見る

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2017/08/15 10:44
旅行記98  石田三成の実像2000 九州の三成ゆかりの地巡り5 熊本城・清正の謹慎?
  写真は熊本市役所の14階から熊本城を7月30日に撮ったものです。ここから熊本城の全景が見られます。この日は九州の三成ゆかりの地巡りの旅の2日目でしたが、まず熊本城を見に行きました。熊本城は復興工事中で、中に入れなかったので、周囲をぐるりと回りましたが、櫓などの石垣があちらこちらで壊れていました。その被害の状況については、市役所の14階の廊下にパネル展示されていました。加藤神社は参拝できましたが。熊本城の一刻も早い復興を祈ります。  前夜(一日目)は熊本の中心街のホテルに泊まり、近くの店で馬... ...続きを見る

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2017/08/14 11:04
旅行記97  石田三成の実像1999 九州の三成ゆかりの地巡り4 戸次川の戦い
 写真は大分市の戸次川(へつぎがわ)古戦場碑を撮ったものです。戸次川(現、大野川)のそばに建っています。秀吉によって派遣された仙石秀久・長宗我部元親・信親親子、十河存保、尾藤知定ら豊臣軍が、天正14年(1586)12月、島津家久軍によって敗北したところです。秀吉自身が大軍を引き連れて九州攻めに向かうのは、翌年のことで、三成も付き従いました。  この碑の近くの小高いところに、この戦いで戦死した長宗我部信親や十河存保らの墓や供養塔が建っており、そこへも行きました。これらの写真はフェイスブックの方に... ...続きを見る

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2017/08/13 10:27
石田三成の実像1998  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」4
  写真は観音寺の山門を6日に撮ったものです。この日は長浜駅から湖国バスに乗ってきましたが、バスの本数が少ないので、11時10分発のバスに乗りました。その後、2時間半近くバスの便はありませんでした。観音寺に最初に訪ねたのは、20年程前ですが、三成の生まれ故郷の石田町を見た後、バスに乗り、観音寺で降りましたが、帰る時にはバスがなく、タクシーも走っていず、観音坂トンネルを通って石田町まで歩きました。それから観音寺には何度となく訪ねていますが。  さて、観音寺本堂で行なわれた、中井俊一郎氏の講演「... ...続きを見る

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2017/08/12 10:42
石田三成の実像1997  中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」3
  写真は観音寺本坊の入口のところで売られていた三成関連本を6日に撮ったものです。向かって左側に並んでいるのは、オンライン三成会編「三成伝説 決定版」(サンライズ出版)です。その右側に中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(同出版社)も平積みにされています。太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」も松本匡代氏の「石田三成の青春」(同出版社)もありました。一番右側に並んでいたのは「長浜ものがたり大賞コレクション」ですが、この本の存在は知りませんでした。今度買って読んでみたいと思います。  さて... ...続きを見る

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2017/08/11 10:57
石田三成の実像1996 朝日新聞朝刊の記事「関ヶ原 創作だらけ?」1
 6日付の朝日新聞朝刊の「文化の扉」に「関ヶ原 創作だらけ?」と題する記事が掲載され、関ヶ原合戦についての白峰旬氏の見解が大きく取り上げられていました。通説では「東軍は小早川秀秋の裏切りにより勝利。秀秋は躊躇したが、家康に鉄砲を撃ちかけられて攻撃を始めた」とされていますが、「秀秋の裏切りは開戦直後。鉄砲を撃ちかけられた事実もない」という白峰氏の見解が紹介されています。  この秀秋の裏切りが開戦直後という根拠について、記事では「石川康通と彦坂元正という家康方の武将が合戦の翌々日に書いた連署状には... ...続きを見る

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2017/08/10 16:02
石田三成の実像1995  中野等氏「石田三成伝」60  唐入り2 島津家と三成
  写真は薩摩の出水(いずみ)城跡付近を7月31日に撮ったものです。出水城は秀吉の九州攻めの際、三成が博多の商人である神屋宗湛と茶会を行った場所です。今回の九州旅行のうち、出水の町めぐりについては後述します。 さて、中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、唐入りに関しての、島津家と三成との関わりにも触れられています。細川幽斎と三成に充てた島津義久の書状の中で、「検地の実施や名護屋城普請の役負担に応じない出水の忠辰を、『御迷惑』と述懐している」ことが取り上げられています。  出水島津家... ...続きを見る

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2017/08/09 19:04
石田三成の実像1994 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」2
  写真は米原の観音寺の本堂への参道を6日に撮ったものです。本堂は石段を上がった上にあります。道端に「三成道」の幟が建っています。「映画 関ヶ原に学ぶ 初志貫徹の美学」という副題が付いています。観音寺で行なわれた、「戦国無双」タクシーの出陣式も中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」も田附清子氏との対談も、そのイベントの一つです。  さて、中井氏の講演ですが、秀吉が忍城の水攻めに固執していたことを示すものとして、6月12日付の三成宛秀吉朱印状、6月20日付の三成宛秀吉朱印状... ...続きを見る

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2017/08/08 10:11
石田三成の実像1993 中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」1
 写真は昨日は米原の大原観音寺で、「三成会議」の企画の一環として行われた、「戦国無双」タクシーの出陣式の後の関係者、招待客の全体写真を撮ったものです。出陣式には、三成タクシーをはじめとする「戦国無双4」の武将キャラクターをラッピングした10台のタクシーが集まりました。 その後歴史講座としてオンライン三成会代表幹事の中井俊一郎氏の講演「石田三成ー事績と書状からみるその人柄ー」、中井氏と同じくオンライン三成会会員である田附清子氏との対談が観音寺の本堂で行われました。狭い本堂に百名程の人が集まり、暑い... ...続きを見る

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2017/08/07 12:24
三成の実像1992 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」50
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月6日条には、次のような記載があります。  「大坂より軍兵が当所(醍醐)へ来た。陣取りをすることへの気遣い(懸念)がある」と。  「時慶記」の同日条には、次のように記載されています。   「大津城へ毛利輝元が人数(軍勢)を遣わして、城を受け取る予定である、とのこ... ...続きを見る

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2017/08/06 21:15
旅行記96 石田三成の実像1991 九州の三成ゆかりの地巡り3 大友義統に旧領が与えられる2
  写真は杵築城の中にある石塔や五輪塔、石仏などの石造群を撮ったものです。この地域にあったものをまとめてここに置いてあり、全部で170余基あり、市指定文化財になっています。  杵築城はもともと木付城という字を書きましたが、江戸時代、「3代藩主松平重休のときの将軍からの朱印状に木付の文字が杵築と書き違えられていたことから杵築となった」ということが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。城の係員もそういう趣旨の説明をされていました。  したがって、秀吉の時代は木付城... ...続きを見る

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2017/08/05 11:57
旅行記95 石田三成の実像1990 九州の三成ゆかりの地巡り2 大友義統に旧領が与えられる1
 写真は杵築(木付)城を、一松邸がある南台から撮ったものです。杵築城が海に面していることがわかります。 われわれは杵築城を見た後、西にある「勘定場の坂」を上がって、北台に立ち並ぶ武家屋敷跡をめぐり、そこから「酢屋の坂」を南に下りました。下の谷には商家が並んでいました。坂のすぐ下にかつては「酢屋」がありましたが、今は「味噌屋」に代わっています。そこからさらに南に上る「塩屋の坂」を上がり、南台に出ました。この南台にも、かつては武家屋敷が並んでいました。「きつき城下町資料館」を見学し、上記の写真... ...続きを見る

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2017/08/04 11:39
三成の実像1989 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」49
 白峰旬氏から、8月6日(日)の朝日新聞朝刊の「文化の扉」欄において、関ヶ原のテーマが扱われ、その中で白峰氏のコメントが掲載されるというお知らせをいただきました。どのようなコメントが掲載されるのか、今から楽しみにしています。  さて、白峰氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月5日条には、大津城攻めについて、次... ...続きを見る

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2017/08/03 21:39
旅行記94 石田三成の実像1988 九州の三成ゆかりの地巡り1 正澄の兜・杵築城の重要性 
 昨日まで3泊4日でオンライン三成会の人2人と一緒に九州の三成ゆかりの地を巡る旅に行ってきました。フェイスブックでもその時の写真を一部載せています。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7  大分空港で昼前に合流し、レンタカーを借りて、まず杵築(木付 きづき)城へ行きました。ここには石田三成の兄の正澄の兜が展示されています(上記の写真)。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、この兜の写真が掲載され、この兜につい... ...続きを見る

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2017/08/02 15:22
三成の実像1987 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」48
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の9月4日条には、大津城に関して次のような短い記載があります。  「大津城について雑説がある」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「この雑説とは、大津城の城主(京極高次)が敵側(家康側)になる、という内容のものと推測される」と。  大津城のこ... ...続きを見る

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2017/08/01 00:06
石田三成の実像1986  中野等氏「石田三成伝」59 三度目の奥州下向2 唐入り1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の三度目の奥州下向について、天正19年「10月6日に蒲生氏郷とともに米沢に到り、8日に三春(みはる)を経て10日には岩城平(いわきだいら)に到着して仕置を行っている」、「佐竹義宣書状から、三成は9月20日の段階では、10月10日頃には常陸の国境に達する予定だったが、若干遅れて常陸国内に入ったものと考えられる」と記されています。  三成が京に戻った時期は10月末以降であろうとの小林清治の推察も紹介されています。  秀吉が関白を辞し、代わって秀... ...続きを見る

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2017/07/31 18:32
石田三成の実像1985  中野等氏「石田三成伝」58 三度目の奥州下向・佐竹義宣書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が三度目の奥州下向をしていた時の、国許にいた和田昭為に宛てた佐竹義宣書状が取り上げられ、三成との親密な関係がうかがえる内容になっています。この頃、義宣は三成と行動を共にしていました。  書状の中で、まず「石田三成(治部少輔)殿が来月10日頃に、陸奥と常陸の国境付近に御出になられる。俵子(兵粮米)その他の準備を調えられたい。石田殿へは、去年金子50枚を用立てる約束をしていたが、まだ果たしていないので、それを今度済ますように仰った」と記されていま... ...続きを見る

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2017/07/30 17:37
石田三成の実像1984  中野等氏「石田三成伝」57 三度目の奥州下向1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正19年に「大名として10万石程度の領知を美国内に得つつ、近江国内の豊臣家蔵入地を支配する代官としての立場から佐和山城を預かっていた」と指摘されていますが、三成はそういう仕事に専念することもできず、奥州の争乱を鎮めるため3度目の奥州下向が命じられたことが記されています。  2度目の奥州下向から戻ってきたのが、2月中旬頃のことであり、それから4ヶ月程経った6月20日に秀吉が発した軍令に「相馬筋石田治部少輔被遣(つかわされ)候」と記... ...続きを見る

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2017/07/29 00:14
三成の実像1983 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」47
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、北政所が自分の居住する京都新城を破壊したという記事が、いくつかの日記の8月28日条から9月2日条にかけて記されていることを前述しました。その続きです。  「時慶記」の8月29日条には、次のような記載があります。  「南城(北政所がいる京都新城)の堀・石垣を壊す、とのことである。城(京... ...続きを見る

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2017/07/28 09:56
三成の実像1982 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」46
  白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、北政所が自分の居住する京都新城を破壊したという記事が、いくつかの日記の8月28日条から9月2日条にかけて記されています。  京都新城については、以前にも記したことがありますが、北政所が秀吉の死の翌年、大坂城西の丸から移り住んだところであり、御所の東南にあり、現在の仙洞御所の位置に当た... ...続きを見る

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2017/07/27 18:58
石田三成の実像1981  中野等氏「石田三成伝」56 「御前帳」「郡図」・秀吉が所望した脇差
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正19年(1591)5月3日付の宮部継潤宛の豊臣氏四奉行連署状が取り上げられ、次のように解説されています。  「三成らは、大名の領知内容を『御前帳』『郡図』に仕立てて呈上するように命じている。『御前帳』という名辞は、貴人の御前に呈上される帳簿という意味だが、実体はいわゆる『検地帳』に擬せられる。奉行衆は別紙として『御帳之調様一紙』を用意すると述べている。これはいわゆるマニュアルの類であり、『御前帳』は全国統一の基準で調整されたことがわかる  こ... ...続きを見る

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2017/07/26 10:02
三成の実像1980 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」44
  白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月27日条には、次のような記載があります。  「小早川秀秋への注進の話として聞いた分は、伊勢安濃津城は降参し、(城)主(富田信高)は高野山に住む(ことになった)。松坂城はそのまま詫言が済んだ。(よって、伊勢方面の毛利家の)軍勢は手明きになり、尾張方面(家康方の諸将)は手... ...続きを見る

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2017/07/25 10:19
石田三成の実像1979  中野等氏「石田三成伝」55 三成の帰京と利休事件
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が奥州再下向から戻った時期について、2月4日の「政宗の上洛と前後して、三成も帰京を果たしたのであろう」と推定されています。  伊達政宗は、旧大崎・葛西領での一揆を扇動したとの疑いがかかったため、政宗と対立した蒲生氏郷と共に、真相糾明のため、都に呼び戻されます。この糾明の件に三成が関わったかどうかは明らかでありませんが、三成の在京が確認されることとして、中野氏の同書で挙げられているのは、「時慶記」の2月15日条に、「石田治部少輔本門へ一礼アリ」... ...続きを見る

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2017/07/24 00:05
三成の実像1978 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」43
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月26日条には、次のような記載があります。  「佐和山城へ石田三成が帰陣して退却した、ということである。岐阜の城に雑説がある。鉄炮・玉薬(この『鐵放・玉藥』の記載は塗抹されている)(以下の文も塗抹されている)」と。  家康方に知られては都合の悪いことは、関ヶ原の戦... ...続きを見る

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2017/07/23 09:47
三成の実像1977 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」42
 昨日は祇園祭の宵山に行ってきましたが、フェイスブックの方で、写真を掲載して、その報告をし始めています。 よかっから、覗いてみてください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7?ref=brem  さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日... ...続きを見る

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2017/07/22 10:42
石田三成の実像1976  中野等氏「石田三成伝」54 奥州仕置5 再下向
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州で一揆が勃発したことによって、三成が奥州へ再下向したことを示すものとして、「天正年中日々記」の天正18年12月26日条に次のような記載があることが挙げられています。  「島津義弘様御上洛。火急のこととて東国で一揆が勃発し、豊臣秀次殿・石田三成殿・増田長盛殿が出立されたことを聞かれ、御立ちになった。この日は大雪である」  悪天候の中、出立したことがうかかがえますが、前日の25日付の秀吉朱印状に、「三成は佐竹勢とともに『相馬口』の担当を命じられ... ...続きを見る

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2017/07/21 10:16
三成の実像1974 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」40
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、伊勢松坂城を攻めているということが記されていることは前述しました。  豊臣公儀方の伊勢方面軍の動きについて、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)には、次のような記載があります。  「8月12日頃、ようやく秀元は伊勢方面へ出発し、15日には近江の土... ...続きを見る

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2017/07/19 10:03
三成の実像1973 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」39
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月22日条には、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。伊勢松坂城を京衆(豊臣公儀の軍勢)として攻めている、ということである。(伊勢松坂城の)城主は古田重勝である」と。  豊臣公儀方の伊勢口方面軍の動きについては、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(N... ...続きを見る

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2017/07/18 10:16
三成の実像1972 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」38
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月21日条には、次のような記載があります。  「織田信雄は尾張国を本国として(秀頼から)返され遣わす、とのことである。中院通勝・富小路秀直・八条宮智仁親王の(侍臣)大石甚介が、丹後国の拵(和睦)のことについて、大坂(城)の前田玄以のところへ行った、ということである」... ...続きを見る

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2017/07/17 10:34
三成の実像1971 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」37
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の、秀吉の3回忌に当たる8月18日条には、次のような記載があります。  「豊国大明神の祭礼。豊国社の結縁灌頂を内々に執行するつもりであったが、天下は物騒なので、そのことはなく無念である」と。  ここでも「天下は物騒」という言い方がされており、特別な祭礼は行われなかった... ...続きを見る

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2017/07/16 10:04
三成の実像1970 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」36
 拙ブログでは、最近専ら、三成のことばかりを取り上げていますが、フェイスブックの方では、最近行ったところの写真も含めていろいろなことに触れてします(昨日は祇園祭の山鉾を見に行きました)ので、よろしければ、そちらの方もご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/07/15 10:58
石田三成の実像1969  中野等氏「石田三成伝」53 奥州仕置4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、奥州仕置に関して、三成の家臣が発している「札」が取り上げられています。すなわち、天正18年(1590)9月15日付で増田長盛の奉行の永原平左衛門尉と山中藤太及び三成の奉行の滝本太郎左衛門尉が出したもので、この「札」について、中野氏は「『田中郷三ヶ村』に対する大山義景の支配を増田長盛と石田三成の奉行が認めたことを周知させるものと言え」、「こうした『札』発給の前提には、この地域の支配をめぐる紛争が想定され、増田長盛と三成の家臣がそこに裁定を下した」と解説... ...続きを見る

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2017/07/14 21:54
石田三成の実像1968 中野等氏「石田三成伝」52 奥州仕置3 岩城領検地2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、岩城領の検地の結果、9月29日付で三成が岩城家中に発した書状が、取り上げられています。その書状についての中野氏の解説は次の通りです。  「岩城領検地の結果、知行地として認められるのは、事前に給人が指出(さしだし)として申請した高(たか)に限られ、秀吉の指示としてそれを越える出自の分は、能化丸の蔵入地として処理される。ただし、今年は暫定措置として、給人は本知高の三分の一にあたる年貢米を蔵入分として差し出すべきとする。納める期限の十月を過ぎると、差し出... ...続きを見る

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2017/07/13 10:25
石田三成の実像1967 中野等氏「石田三成伝」51 奥州仕置3 岩城領検地1 岩城家への「覚」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年(1590)8月16日付で岩城家中の白土(しらど)摂津守・好雪斎岡本顕逸(良哲)に充てて、増田長盛と三成が発した「覚」が取り上げられています。  この「覚」について中野氏の解説は次のようなものです。  「三成と増田長盛は、岩城家執政の両名に充て、岩城家のとるべき基本政策を提示した。蔵入地と給人知行は、常隆時代のままとし、蔵入地の支配にあたる代官衆には、所務算用の適正・明瞭化を促している。三ヵ条目の規定は、能化丸が佐竹家の出身であることに... ...続きを見る

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2017/07/12 11:22
石田三成の実像1966 中野等氏「石田三成伝」50 奥州仕置2 石川義宗宛書状 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年の石川義宗(次郎)宛の長谷川秀一・石田三成連署状が取り上げられています。義宗は、「陸奥石川郡の領主石川昭光の子」です。この連署状は、「収納年貢の三分の二を差し押さえ」ることを伝えるもので、こういう指示を記した秀吉朱印状の写が添えられていることが、この連署状の記載からわかります。  また人質のことについても、この連署状には記されています。すなわち、「そなたが母親を人質として白川へ差し送られるとの事、尤もに思う」「「もう一度、浅野長吉(浅弾少... ...続きを見る

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2017/07/11 10:15
石田三成の実像1965 中野等氏「石田三成伝」49 奥州仕置1 御制札御判銭控 
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正18年8月日付欠の三成宛の「御制札御判銭控」が記された秀吉朱印状が取り上げられています。  この書状の内容について、中野氏の解説は次の通りです。  「秀吉の軍勢に恭順する村々は、その姿勢を明確にするため、秀吉方の発する制札・禁制を、応分の費用を負担して入手しなければならない。この『御制札御判銭控』は、いわばその料金を公定したものである。対象となる在所は、その村位によって上・中・下に等級分けされ、判銭の拠出を命じられる。秀吉みずからが三成に対... ...続きを見る

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2017/07/10 10:22
石田三成の実像1964 中野等氏「石田三成伝」48 岩城家の相続問題
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は忍城を天正18年(1590)7月16日に開城させた後、25日には宇都宮にいたことが指摘されています。すなわち、この日、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行なう者は罪科に処す旨の文書を手交する」と。秀吉が宇都宮に着いたのは、7月26日のことですから、三成は先に着いていたことになりますが、中野氏の同書では、「三成は、北上する秀吉の本隊に合流し」たと記されています。  岩城家の相続問題に関しても、三成が関わっていたことが中野氏の同書で述べ... ...続きを見る

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2017/07/09 11:18
三成の実像1963 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」34
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月14日条には、次のような記載があります。  「西洞院時慶に対して、前田玄以からは返書があったが、増田長盛からは取り紛れのため一報はない。西洞院時慶から安国寺恵瓊へ書状を遣わす」と。  ここでも恵瓊の名が出てきていますが、恵瓊はやはり「時慶記」に記載がある8月11日から... ...続きを見る

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2017/07/08 10:59
三成の実像1962 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」33
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の8月11日条には次のような記載があります。  「西洞院時慶から豊臣秀頼・毛利輝元・前田玄以・増田長盛へ祖神への祈念の祓礼を遣わした。西洞院時慶から前田玄以・安国寺恵瓊等へ書状を遣わした」と。  この記載について、白峰氏の解説は次の通りです。  「このことから8月11日の... ...続きを見る

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2017/07/07 11:01
三成の実像1961 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」32
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月10日条には次のような記載があります。  「大坂城の火事消除の祈祷のことを(秀頼から義演に対して)命じられ、施物として黄金10両を賜った」と。  「義演准后日記」の8月11日条には、引き続いて次のような記載があります。  「義演の大坂(城)の火災(消除)の祈祷... ...続きを見る

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2017/07/06 10:23
三成の実像1960 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」31
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の8月8日条には次のような記載があります。  「夜番を申し付けた。(その理由は)この度は世上が物騒なためである」と。  この時期、京、大坂の町の様子は落ち着いていましたが、豊臣公儀方の諸将は、それぞれの方面に出陣しようとしており、実際、同日付の「義演准后日記」には大聖寺城... ...続きを見る

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2017/07/05 10:09
三成の実像1959 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」30
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月7日条には次のような記載があります。  「豊臣秀頼の御所御祈りとして、大般若経の真読を来る(8月)10日より執行すべき旨の御使い(義演のところへ来た)。(これは)天下静謐、(秀頼の)御武運長久の(ための)御祈りである」と。  この記載についての、白峰氏の解説は次... ...続きを見る

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2017/07/04 10:02
三成の実像1958 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」29
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月5日条には次のような記載があります。  「毛利(家)内の安国寺恵瓊が尾張へ1000人ばかりで出陣した、ということである。(安国寺恵瓊は)当郷(醍醐)を通った。長束正家は伊勢口へ出陣した、ということである。石田三成は本城である佐和山(城)へ行った、ということである。... ...続きを見る

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2017/07/03 10:20
三成の実像1957 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」28
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月4日条には次のような記載があります。  「家康の上洛は、なかなかなし難い旨の風聞がある。近日、出陣衆(上杉討伐に出陣した上方の大名という意味)は帰ってくる、ということである。伏見城の奉行である石田正澄・新庄直定は金銀を炭の中から掘り出している、ということである。或... ...続きを見る

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2017/07/02 10:11
三成の実像1596 美術探訪12 「海北友松展」14「月下渓流図屏風」 三成らへの思い
 「海北友松展」の「第十章 豊かな詩情ー友松画の到達点ー」に展示されていたのは、60年ぶりに里帰りしたアメリカのネルソン・アトキンズ美術館が所蔵している「月下渓流図屏風」でした。確かに、深みのある風趣に富む作品であり、友松がたどり着いた世界を感じることができました。  この絵について、図録には次のように要領よく記されています。  「淡い月明かりに照らされてシルエット風に浮かび上がる、もやに煙る渓谷。渓流の周囲には梅や椿、愛らしい土筆や蒲公英、菫などが見える。清楚な白い梅花からは、上品でほのか... ...続きを見る

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2017/07/01 10:29
三成の実像1955 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」27
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の8月3日条には次のような記載があります。  「義演が豊臣秀頼の御祈祷をおこなう。伏見城より落ちた者(落武者)を搦めて出すように(大坂の)奉行より申して来た。もし在々にいるのかどうか、寺領分に堅く仰せ触れた」と。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  ... ...続きを見る

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2017/06/30 10:31
三成の実像1954 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」26
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「中臣祐範記」には次のように記されています。  「昨日の一日に伏見城が落城した。伊賀の城を(留守居の家臣が)増田長盛に渡した。(伊賀の城の城主である)筒井定次は(上杉討伐のため)関東へ出陣していた。よ... ...続きを見る

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2017/06/29 18:05
石田三成の実像1953  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」3 地震で被害、改修
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」の続きです。  天正13年に起こった天正大地震の際、佐和山城も被害を受けたことについて、佐和山城が壊滅したとの記述が一次史料にあることにも触れられていました。地震の被害の後、佐和山城本丸を中心とした山上曲輪群の改修が開始されたという説明もありました。この改修について、実施したのは城主の堀尾吉晴ですが、その設計図を書いたのは田中吉政ではなかったかという、注目すべき推定が下高氏... ...続きを見る

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2017/06/28 10:16
石田三成の実像1952  下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」2 八幡山城型
 鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、天正13年に築城された秀次の本城の八幡山城と支城である佐和山城と岡山水口城の構造の類似性に言及されてきました。このことは、以前の講演会でも指摘されていましたが、八幡山城は山の上に曲輪群があり、山麓の曲輪群と城道でつながっており、山の周りは、堀、土塁で囲まれ、北側には琵琶湖が広がっています。堀・土塁の南側に城下町があり、街道が通っています。水口岡山城は山の中なので琵琶湖... ...続きを見る

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2017/06/27 10:04
石田三成の実像1951 下高大輔氏「佐和山城の遺構から見えてきたもの」1 天正13年城郭体制
 昨日は拙ブログの接続状況が悪く、更新ができませんでした。  さて、鳥居本公民館で23日に行なわれ;た、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」ですが、レジュメに掲載されていた資料は、彦根城の開国記念館で開催中の「佐和山御普請・彦根御城廻御修復」で展示されていたもの、及びその図録に掲載されているものが使われていました。  22日には昼過ぎに彦根に入り、食事(駅前で「三成カツ丼」を食べました)してホテルに荷物を置いてから、幕末の井伊直弼が藩主になるま... ...続きを見る

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2017/06/26 10:18
三成の実像1950 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」25
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月2日条には、その前日の伏見城落城のことが記されています。  「左大史孝亮記」には、次のように記されています。  「伏見(城)本丸が落居(落城)し、大将の鳥居元忠一人が(伏見城の)本丸において切腹した。家々は滅亡し、手負い・死人等は数知れず(限りなく多い)。洛中の遊民は見物... ...続きを見る

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2017/06/24 10:43
三成の実像1949 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」24
 彦根に一泊し、鳥居本公民館での、彦根教育委員会文化財課の下高大輔氏による歴史講座「佐和山城の遺構から見えてきたもの」に参加してきました。下高氏には昨年12月、連続講座「近江の城郭」の一環として佐和山城跡・城下町跡を案内していただきました。今回の講座の内容はその時のものと重なる部分もありますが、新たな知見もいろいろと得られました。内容については、拙ブログ記事で改めて紹介したいと思います。    さて、白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学... ...続きを見る

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2017/06/23 21:35
三成の実像1948 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」23
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されており、その続きです。  「言経卿記」には、「伏見城が落城した。寄手勢3000人程が負傷した。(伏見城は)すべて焼けた。(こうしたことは)言語道断であり、説明できない、ということである」と記されています。  この記載についての、白峰氏の... ...続きを見る

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2017/06/22 10:41
三成の実像1947 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」22
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の8月1日条には、伏見城落城のことが記されています。  「舜旧記」には、「伏見城が落ちる。籠城した鳥居元忠が自害した。そのほかの軍兵も討死した。城はすべて焼けた」と記されています。  「城はすべて焼けた」という点が注目されます。この記載が事実とすれば、城が全焼したことになります... ...続きを見る

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2017/06/21 09:59
三成の実像1946 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」21
 15日に「星野リゾート ロテルド比叡」に一泊し、翌日、延暦寺の東塔エリア、西堂エリアを回り、ケーブルで坂本に出て、町中を少し散策してきましたが、その記事は写真入りでフェイスブックの方で順次紹介しています。興味のある方はご覧ください。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/20 10:22
三成の実像1945 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」20
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月29日条には、「大坂へ制札を取りに遣わした」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「昨日の騒動で小早川秀秋の制札(本稿の7月25日の項を参照)が役に立たなかったため。大坂(7月晦日条を見ると、三奉行の制札があることがわかる)... ...続きを見る

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2017/06/19 10:23
三成の実像1944 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」19
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「義演准后日記」の7月27日条には、「伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める、ということである」という記載があります。  この記載についての白峰氏の解説は次の通りです。  「『伏見城が落ちない(ので)大鉄炮(『大鐡放』)をもって攻める』ということは... ...続きを見る

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2017/06/18 09:49
美術探訪11 石田三成の実像1943 「海北友松展」13 最晩年期の押絵 三成に縁ある僧の賛
 「海北友松展」の「第九章 墨技を楽しむー最晩年期の押絵制作ー」には、押絵のうち賛が施されたものが展示されていましたが、押絵とは図録には「屏風の一扇ごとに絵を押す(貼る)ところから、このように呼ばれるもの」と記されています。  その中でも興味を惹かれたのは、「人物・花鳥図押絵貼屏風」で、十二図のうち半分が大徳寺の僧が賛を施しています。6人のうち沢庵宗彭、江月宗玩は三成と関わり合いが深かった人物です。沢庵も江月も、慶長4年、奉行を引退した三成が佐和山に母の菩提を弔うために瑞岳寺を建立した時、佐和... ...続きを見る

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2017/06/17 10:22
石田三成の実像1941「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」2 
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、前述したように、 「舜旧記」には、秀吉の月命日である7月18日に毛利輝元の妻が豊国社に参詣していると記されているものの、北政所は豊国社に参詣しておらず、北政所はどちらかに荷担していると思われないように参詣を取りやめたのではないかと推測されていました。しかし、7月23日に宇喜多秀家が、8月2日に毛利輝元が豊国社に参詣した時には、北政所も参詣や祈祷をしており、北政所が奉行衆・毛利方の豊臣公儀... ...続きを見る

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2017/06/15 10:37
石田三成の実像1940「高島礼子・日本の古都『北政所の秘密』 関ヶ原の戦い」1 おねは中立?
 BSで放送されていた「高島礼子・日本の古都 女たちの戦国SP 『北政所の秘密』 第二夜 関ヶ原の戦い」では、北政所は中立的な立場に立っており、秀吉政権のわが子同然の家臣同士の戦い(福島正則も加藤清正も石田三成も若い時から可愛がっていました)に心を痛めていたという捉え方がされていました。これは、従来、北政所が家康寄り、東軍寄りだったという見方がされており(司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」【新潮文庫】でもそういう描き方でした)、そういう見方からすれば、一歩踏み出した描き方がされており、その点は評価でき... ...続きを見る

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2017/06/14 10:21
三成の実像1940 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」17
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、小早川秀秋のことについて、「北野社家日記」の7月23日条、24日条、「義演准后日記」の7月25日条に記されています。  「北野社家日記」の7月23日条は以前にも紹介しましたが、24日条も、「北政所が小早川秀秋の祈念のために御千度のことを命じ、200疋を下されたので申し付ける(北野天満宮... ...続きを見る

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2017/06/13 10:09
三成の実像1939 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」16
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月24日条には、伏見城攻めのことだけでなく、大津城のことも記載されており、興味深い内容です。  すなわち、「大津城は宇喜多秀家に渡す、ということである。ただし、(この話については)真実かどうか知らない。毛利(輝元)が瀬田橋に城を用意した、ということである。伏見城は堅... ...続きを見る

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2017/06/12 10:11
石田三成の実像1938 中野等氏「石田三成伝」47 忍城攻め後 
8日に、京都コンサートホールでのギタリスト松尾俊介氏の演奏会を聴きに行き、充実した贅沢な時間を味わいましたが、フェイスブックでこのことについて少し触れています。    https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/11 11:29
三成の実像1937 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」15
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、前述したように、「時慶記」の7月23日条には、西洞院時慶が大坂城で石田正澄等の軍勢が多かったという記載がありました。ここに三成の名がないということは、三成が大坂城に来ていなかった傍証の1つになるのではないでしょうか。三成が挙兵後、大坂城に初めて入ったのは、伏見城の督戦に来た後の7月30日... ...続きを見る

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2017/06/10 10:57
三成の実像1936 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」14
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、各日記の7月23日条には、引き続いて、伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「今夜、伏見で大鉄炮(『大てつはう』)がことのほか鳴る」と記されています。  この記載について、白峰氏の解説には、「鉄炮の音と大鉄炮の音の違いを聞き分けることができたということか?」と... ...続きを見る

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2017/06/09 10:20
三成の実像1935 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」13
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「舜旧記」の7月23日条に宇喜多秀家が「豊国社へ参詣した」という記載があります。  宇喜多秀家はすでに同日記の7月5日条にも「豊国社に参詣した」と記されていますが、この記載について、白峰氏は次のように解説されています。  「7月5日の時点で宇喜多秀家は上方にいたことになる」  「こ... ...続きを見る

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2017/06/08 16:36
石田三成の実像1934 中野等氏「石田三成伝」46 北条攻め10 忍城攻め3 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めについて、「忍の攻城戦は、秀吉軍の圧倒的な物量作戦・組織力を見せつけるためのデモンストレーションであったと見るべきであろう」と記されています。  こういう見解も、中井俊一郎氏によってすでに唱えられており、その点も中野氏の同書で、一言言及があってしかるべきではないでしょうか。中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、次のように指摘されています。  忍城の水攻めについて、「多額のコストと労力を必要とするものであ」り、秀吉が水攻めに... ...続きを見る

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2017/06/07 10:18
石田三成の実像1933 中野等氏「石田三成伝」45 北条攻め9 忍城攻め2 
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、忍城攻めは三成の発案ではなく、秀吉の指示によるものだったという見解が示されていますが、それについて中井俊一郎氏の先行研究があるにもかかわらず、そのことについての言及がないことを拙ブログ記事で前述しました。中野氏の同書の参考文献として、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)も挙げられているのですから、中井氏の先行研究があることには触れるべきだと思います。中野氏の同書で他の学者の先行研究についてはたびたび言及されているのですから、なおさら... ...続きを見る

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2017/06/06 10:08
石田三成の実像1932 中野等氏「石田三成伝」44 北条攻め8 忍城攻め1 
 昨日、甲子園に阪神・日本ハムの交流戦観戦に行ってきましたが、その記事はフェイスブックで写真入りで掲載しています。   https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/05 10:13
石田三成の実像1931 中野等氏「石田三成伝」43 北条攻め7 館林城攻め
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動について具体的に述べられいますが、最初は秀吉に近侍していたものの、5月下旬に秀吉に命じられて、館林城ついで、忍城攻めに向かいます。  三成は館林城を開城させますが、10数年前、オンライン三成会の人々と共に館林城跡を訪ねたことがあります。今は土橋門が再現されているだけですが、かつて三成が攻めたところだと思うと感慨深いものがありました。むろん、この時には忍城跡や三成が本陣が置いた丸墓山古墳なども訪ねました。  三成の館林... ...続きを見る

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2017/06/04 11:01
三成の実像1930 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」12
昨日、本能寺で行われた「信長公忌」の最後の方に参拝してきましたが、その報告はフェイスブックで少ししています。本能寺の変によって、秀吉同様、三成の人生も大きく変わったと云えます。  https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/06/03 11:26
美術探訪10 「海北友松展」12 画龍の名手・朴大根書状 龍図が朝鮮側に
 「海北友松展」の「画龍の名手・友松ー海を渡った名声ー」では、北野天満宮・霊洞院・勧修寺などの「雲龍図」が展示されていましたが、それぞれ微妙に違いがあるものの、いずれもすさまじい気迫に満ちています。  また海北家に伝わる、慶長13年2月に記された「朴大根(パクテグン)書状(写)も展示されていましたが、図録には「『海北友松夫妻像』に付随する形で海北家に伝来した」書状であり、「友松の画名が朝鮮にまで及んでいたことをうかがわせる史料として伝わる」と記されています。  その書状の内容は「昔、素晴らし... ...続きを見る

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2017/06/02 10:14
三成の実像1929 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」11
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月22日条にも、各日記に伏見城攻めのことが記されています。  「言経卿記」の記載は、次のようなものです。  「伏見城へ夜毎(毎晩)夜毎(毎晩)だけ鉄炮を撃つ。宇喜多秀家の人数(軍勢)が伏見(城攻めの包囲攻撃中の陣)へ詰めることが完了し、晩より鉄炮を撃った。世上の雑説により大津から8... ...続きを見る

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2017/06/01 10:26
三成の実像1928 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」10
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月21日条には、各日記に伏見城攻めのことが記載されています。  「北野社家日記」には、「明日、北野惣中は一人も残らず出て垣以下をするように申し付ける。乱世であるので、用心のためである」「伏見は一段と乱世なので、人斬りがある、とのことである」と記され、白峰氏は「『乱世』という認識に注意す... ...続きを見る

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2017/05/31 10:13
三成の実像1927 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」9
白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、7月20日条には、日記各書には伏見城攻めのことが記されています。  「北野社家日記」には、「伏見に夜前・今日、鉄炮(の音)が鳴る」、「左大史孝亮記」には、「今日、伏見(城)松の丸あたりで火事があった」と記され、また「義演准后日記」には次のように記載されています。  「伏見城へ秀頼様の... ...続きを見る

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2017/05/30 10:31
受贈御礼 白峰旬氏「いわゆる小山評定についての諸問題」をはじめとする御論考
 白峰旬氏から新たなご論考をいくつか賜りました。この場を借りて、厚くお礼申し上げます。ご恵贈いただいたのは、次のご論考です。  「いわゆる小山評定についての諸問題ー本多隆成氏抜刷の御批判を受けての所見、及び、家康宇都宮在陣説の提示ー」(2017年発行『別府大学大学院紀要』第19号 抜刷)  「慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察(その一)」(2017年発行『別府大学紀要』第58号 抜刷)抜刷  「慶長5年9月13日の大津城攻めに... ...続きを見る

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2017/05/28 14:50
三成の実像1926 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」8
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月19日条に、「家康より奉行(衆)より(出した)十三ヶ條(=『内府ちかひの条々』)が流布し、(義演もそれを)一見した」と記されています。  この記述についての白峰氏の解説は次のとおりです。  「大名ではない義演が7月19日(『内府ちかひの条々』が出された翌々日)の... ...続きを見る

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2017/05/27 21:18
美術探訪8 「海北友松展」10 「八条宮智仁親王との出会い」 金碧屏風
 「海北友松展」の「第六章 八条宮智仁親王との出会いー大和絵金碧屏風を描くー」の会場に入ると、それまでの水墨画中心のモノトーンがちの世界とは、全く違った金色がまぶしいほどの華麗な世界が広がっていました。  展示されていた「浜松図屏風」と「網干(あぼし)図屏風」は、八条宮の依頼によって制作されたものですが、友松と八条宮との出会いについて、図録には次のように記されています。  「慶長7年(1602)、友松は細川幽斎や公家の中院通勝の推挙によって、八条宮智仁親王(後陽成天皇の実弟で桂離宮の創設者)... ...続きを見る

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2017/05/26 10:32
三成の実像1925 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「時慶記」の7月18日条には、細川ガラシャの自害についての記載があり、それは大坂へ後陽成天皇からの勅使として遣わされた広橋兼勝によって京都へもたらされたものであると記されていることを拙ブログ記事で前述しましたが、広橋については、「お湯殿日記」の7月18日条にも出て来ます。  すなわち、... ...続きを見る

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2017/05/25 10:52
美術探訪7 「海北友松展」9 「変わりゆく画風」2 講演会の解説
 「海北友松展」の「第五章 友松人気の高まりー変わりゆく画風ー」には、慶長4年以降、最晩年期までの水墨画が展示されていましたが、八条宮智仁(としひと)親王、亀井玆矩(これのり)、近衛信尹(のぶただ)の求めに応じて描かれた作品も展示されていました(亀井氏に贈った「飲中八仙図屏風」については前述しました)。 近衛信尹は、「瀟湘八景図」を注文主に代わって友松に依頼するという仲介者の役割を果たしていることを示す書状も展示されていました。  また「婦女琴棋書画図屏風」が展示されていましたが... ...続きを見る

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2017/05/24 10:06
三成の実像1924 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」7
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「言経卿記」の7月18日条に、細川ガラシャの自害のことが記されています。  すなわち、「世上の騒動は普通ではない。大坂にて細川忠興の女房衆(細川ガラシャ)が自害した。同じく息子12才、同じく妹6才等は母が切り殺させて殺したということである。(そして)私宅に火を掛けた。小笠原(秀清)・荒... ...続きを見る

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2017/05/23 10:29
美術探訪6 「海北友松展」8 「建仁寺大方丈障壁画」3「変わりゆく画風」1 友を失った影響
 「海北友松展」は昨日で終わりましたが、しばらくその報告は続けます。「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、[竹林七賢図」が展示されていました。  「竹林七賢図」とは、「中国・三国時代の末期、竹林に入って清談に耽った七人の賢者たちの姿があらわされている」と図録には解説されています。竹林の七賢については、高校の世界史でも漢文の授業でも出て来ます。  嵯峨美大で行なわれた講演会「海北友松の絵画を解析する」では、 「竹林七賢図」は、一筆描きのようで力強い描き方がされており、これは中国の... ...続きを見る

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2017/05/22 10:57
三成の実像1923 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」6
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、「義演准后日記」の7月18日条の次のような記載を一昨日付の拙ブログ記事を紹介しました。  すなわち、「前田玄以(前田玄以の名前の部分は塗抹されている)・増田長盛・長束正家の3人が家康へ(ここには塗抹された部分がある)條数(=『内府ちかひの条々』)にして江戸へ遣わした、ということである。... ...続きを見る

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2017/05/21 10:32
三成の実像1922 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」5
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  「義演准后日記」の7月18日条に、次のような記載があります。  「(以下のことを)伝え聞いた。昨日(7月17日)の夕方、大坂城西ノ丸へ毛利秀元が(秀頼様の)御守護のために入った、ということである。この中(丸ヵ)は家康の住宅の丸である」と。  この記載について白峰氏... ...続きを見る

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2017/05/19 11:19
石田三成の実像1921 美術探訪4 「海北友松展」6 「建仁寺大方丈障壁画」1 恵瓊の功績
「海北友松展」の「第四章 友松の晴れ舞台ー建仁寺大方丈障壁画」には、建仁寺大方丈に描かれた「雲龍図」「花鳥図」「竹林七賢図」などが展示されていました。  方丈の復興の経緯については、図録に次のように記されています。  「天文21年(1552)建仁寺の方丈は兵火によって灰燼に帰したが、それが再興されたのは慶長4年(1599)のことであった。東福寺の瑶甫恵瓊【ようほえけい】(安国寺恵瓊)の尽力によって安芸・安国寺の建物が移築され、寺の『顔』ともいうべき方丈がおよそ半世紀ぶりに姿を現したのである... ...続きを見る

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2017/05/18 10:14
美術探訪3 「海北友松」展5 「飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」 60歳過ぎて頭角
 「海北友松」展の「第三章 飛躍の第一歩ー建仁寺の塔頭に描くー」では、建仁寺の塔頭である大中院、霊洞院、禅居庵に描かれた絵が展示されていましたが、友松と建仁寺との関係について、図録には次のように記されています。  「60歳を過ぎた文禄・慶長の初め頃から、友松は頭角を現わし始める。その活躍の舞台となったのが、祇園にほど近い名刹、建仁寺であった。  当時、建仁寺には友松の支援者であった細川幽斎の甥にあたる英甫永雄(えいほようゆう)がおり、入寺した天正14(1586)から示寂する慶長7年(1602... ...続きを見る

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2017/05/17 10:25
石田三成の実像1920 「海北友松」展4 「歴代年譜景勝公」 秀吉が友松の絵を下賜
「海北友松」展の第二章「交流の軌跡」に、「歴代年譜景勝公」が展示されていましたが、図録の解説によれば、「文禄3年(1594)10月28日、景勝が秀吉を聚楽城下の自邸に招待したときの様子を克明に伝えた」ところが示されていました。  図録には、それに続けて次のように記されています。  「10月3日、増田長盛や石田三成を通じて秀吉の御成を取り付け、翌日には大坂で秀吉に謝辞を述べたことが同3日の記事がわかる。御成の当日は、唐絵の掛幅や池坊による立花三瓶などで飾り立てた座敷に秀吉を迎え、膨大な数量の品... ...続きを見る

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2017/05/16 10:20
石田三成の実像1919 「海北友松」展3「兼如筑紫道中記」2 是斎重鑑は猪苗代兼如
「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」で展示されていた「兼如筑紫道中記」には、石 三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されていますが、その作者について、図録の解説では、次のように解説されています。  三成の九州下向に「友松が同行したことは、『続々群書類従』所収の紀行文『九州下向記』や『阿保文書』所収の同『是斎重鑑覚書』(内容は同じ。末尾に是斎重鑑の署名がある)によって既に紹介されている有名な事績である。だが、その著者であり、三成や友松と旅をした是斎重鑑がいかなる素... ...続きを見る

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2017/05/15 10:27
石田三成の実像1918 「海北友松」展2 「兼如筑紫道中記」1 政務の一方風雅な旅
  「海北友松」展の「第二章 交流の軌跡ー前半生の謎に迫るー」では、友松の長男である友雪が描いた「海北友松夫妻像」や、友松の出自などを記した、孫である友竹の手になる「海北家由緒記」、友松との交流を語る史料などが展示されていましたが、一番興味が惹かれたのは、「兼如筑紫道中記」です。石田三成が海北友松と共に、九州に行ったことが記されている、初公開のもの(このことについては後述します)であり、図録の解説では、次のように記述されています。  「慶長3年(1598)夏、石田三成は秀吉の命を受け、小早川秀... ...続きを見る

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2017/05/14 11:04
石田三成の実像1917 中野等氏「石田三成伝」42 北条攻め6 嶋左近の役割
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際における三成の行動が書状などを通じて明らかにされていますが、5月25日付の東義久宛の三成書状の最後に、「嶋清興」の名が出て来ます。  すなわち、「なお、使者の嶋清興(左近)に詳細は申し含めているので、懇ろな手紙は控えます」と。  嶋左近については、中野氏によって次のような解説が加えられています。  「この頃にはすでに三成に属していたことが分かる。こののち、嶋清興は東義久(佐竹中務大輔)や小貫氏を充所として書状を発しており、『指出(さ... ...続きを見る

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2017/05/13 10:57
美術探訪2 「海北友松」展1・講演会「海北友松の絵画を解析する」2 菊慈童図・柏に猿図
 昨日、国立京都博物館で開催中の「海北友松」展を見に行ってきました。かなりの混雑ぶりで入館するまで20分程待ちましたが、作品や関連史料を時代別、テーマ別に展示することによって、友松の人生や作風の変遷などがわかるように配慮されていました。  先週の土曜日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」が行われ、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するというもので、絵画をスクリーンに写しながら解説されていましたが、「海北友松」... ...続きを見る

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2017/05/12 14:44
三成の実像1916 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」4
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていますが、その続きです。  7月18日付の「北野社家日記」には「伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた今夜、家康の衆が伏見の城に籠り、伏見にある奉行衆の家共に残らず城中より火を掛けた。今日、地震があった」と記されています。  この記述について、中野氏によって次のような説明が加えられて... ...続きを見る

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2017/05/11 18:14
美術探訪1 講演会「海北友松の絵画を解析する」1 無限定空間表現・幽遠法
5月6日、嵯峨美術大学での講演会「海北友松の絵画を解析する」を聴きに行ってきました。地下鉄で太秦天神川駅へ出、嵐電に乗り換え、車折神社駅から歩きました。歩いて10分足らずでした。  講演会はユニークなもので、美術史的見地から佐々木正子嵯峨美大教授が、動物学的見地から坂本英房京都市動物園副園長が、友松の絵画を解析するもので、新たな知見がいろいろと得られ、大いに勉強になりました。  友松は石田三成と関わりが深い絵師です。三成が筑前の直轄領の代官として九州に行った時に友松も同行していますし、同... ...続きを見る

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2017/05/09 11:43
三成の実像1914 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」3
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」(慶長5年3月〜同年12月)がまとめられていることを拙ブログ記事で前述しました。  7月17日は家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出された日ですが、その日付で書かれている日記の記述でいろいろ注目すべきものがあります。  「北野社家日記」には、「京、伏見でこのほか騒ぐ」と記されています。  この記述について、白峰氏は「家康家臣が伏... ...続きを見る

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2017/05/08 09:48
石田三成の実像1913 中野等氏「石田三成伝」40 北条攻め4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めの際の三成の動向について触れられていますが、天正18年(1590)2月28日に島津久保らとともに京を発ち、「4月3日に小田原付近に到着」しています。  一方の秀吉は、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動(天正10年6月以降)」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)によれば、「3月1日京都発」、「(4月)3日小田原着」と記されていますから、三成は秀吉に先立って出発したことになります。  この後の三成の居所と行動ですが、中野氏... ...続きを見る

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2017/05/07 11:07
三成の実像1912 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」2
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられていることは拙ブログ記事で前述しましたが、考察すべき記載がいろいろとあります。  慶長5年7月13日、「時慶記」に次のような記述があります。  「昨夜より伏見・大坂において風評・騒動(がある)と(いうので)これを尋ねるつもりである。(上杉討伐のために出陣した)陣立の衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのことであり、(このこ... ...続きを見る

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2017/05/06 10:22
石田三成の実像1911 中野等氏「石田三成伝」39 北条攻め3
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、北条攻めに関して、天正17年12月26日付の直江兼続・木戸寿三(元斎)充ての佐竹義宣書状が取り上げられています。その中で、三成のことも出てくるのですが、その書状について次のように解説されています。  「内容は、上杉景勝の上洛を祝し、上杉勢の伊達領(会津)侵攻を懇望する、というものだが、それに関連して蘆名義広の身上復活に降れている。蘆名家の復活自体は、もちろん秀吉自身の意向を前提とするものであり、秀吉は大関晴増(土佐守)を使者として、そうした意向を伝... ...続きを見る

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2017/05/05 10:27
三成の実像1910 白峰旬氏「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」1 
 白峰旬氏の「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号所載)の中で、その「時系列データベース」がまとめられ、30ページに及ぶ表として掲載されています。労作であり、「在京公家・僧侶などの日記」において関ヶ原の戦い前後のことがどのように記載されているのか、月日を追ってたどれるようになっています。時期は関ヶ原の戦いの半年前の慶長5年3月16日から、関ヶ原の戦いが終わって約3ヶ月後の同年12月24日にわたっています。  この「時系列ベー... ...続きを見る

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2017/05/04 10:57
石田三成の実像1909 中野等氏「石田三成伝」38 北条攻め2 いろいろな任務で多忙を極める
 当方のフェイスブックのアドレスです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/05/02 10:42
京都探訪288 金地院1 方広寺鐘銘事件の仕掛け人は崇伝ではない・伏見城の遺構の方丈
 最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方ばご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/05/01 10:54
お知らせ 石田三成の実像1908 中野等氏「石田三成伝」37 北条攻め1 名胡桃城事件
 昨日もお知らせしましたが、最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方はご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 ...続きを見る

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2017/04/30 10:44
お知らせ 石田三成の実像1907 中野等氏「石田三成伝」36 天正19年までの所領
 最近は、フェイスブックの方にも連日、記事を書いていますので、興味ある方はご一読くださればと思います。フェイスブックの方は本名で行なっています。アドレスは次の通りです。 https://www.facebook.com/toshiyuki.hisatomi.7 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成は「九州平定から関東派兵までの間に、7〜8万石程度の領地を得ていたと考えるのが自然であろう」、「二十代の後半で大名としての身分を獲得した」と指摘されています。その根拠と... ...続きを見る

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2017/04/29 11:14
 三成の実像1906 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」8
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、まとめとして、「諸大名の具体的な軍役人数(兵力数)について、日本側の史料以外からわかるのは貴重であり、今後は日本側の史料との比較検討を通して、その信憑性の有無を検討していく必要があろう」と記されています。  「十六・七世紀イエズス会日本報告集」において軍役人数がこれだけ記載されていることに、白峰氏の同論考を拝見して改めて驚きましたが、確かに外国側の史料だから... ...続きを見る

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2017/04/28 10:21
三成の実像1904 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」6
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  白峰氏の同論考では、「反家康としての石田三成・毛利輝元方の総動員数については、『多数の諸侯はただちに軍兵を率いて大坂の政庁(引用者注 大坂城)に集結した。その数はわずかの間に十万を超えた。』(Tー3、248頁)と記されていて、反家康方の軍事動員が成功して10万を超... ...続きを見る

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2017/04/26 15:44
大河ドラマ探訪471 「おんな城主 直虎」1 迫力不足・男だったとする新史料
 大河ドラマ「おんな城主 直虎」は毎回見ていますが、もう一つ迫力に欠けているのが難点ではないでしょうか。井伊家の話が中心ですから、壮大さがないのは致し方ないとは云え、最初の山場であるはずの桶狭間の戦いでも、歴史的な事件であるのにかかわらず、ダイナミックなところがありませんでしたし、今川義元が殺される場面もパスされましたし、信長も登場せず、失望しました。  最初は子役を使い、幼馴染のヒロイン、おとわ(井伊直盛の娘)と亀之丞、鶴丸とをうまく絡ませ、まるで韓国ドラマを見ているような雰囲気でした。亀之... ...続きを見る

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2017/04/25 12:17
石田三成の実像1903 中野等氏「石田三成伝」35  検地に関与2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)のものと推定される10月16日付の江州伊香郡富長庄の百姓に充てた三成・増田長盛連署状が取り上げられています。これは「裁許状」であり、その最初に「富永郷の給人の年貢の納め様について、あってはならないもめ事があって混乱が生じている旨、御訴訟があったので、以前からの御法度の要諦を田中吉政(兵部大輔)方へも先度申し遣わしている」と記されています。  このことに関して、中野氏の同書には、「訴えがあった近江国伊香郡富長庄は当時秀次領であ... ...続きを見る

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2017/04/24 16:31
石田三成の実像1902 中野等氏「石田三成伝」34  検地に関与1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正17年(1589)10月1日付で秀吉が三成と大谷吉継に充てた「検地御掟条々」が取り上げられ、「美濃国での検地実施に関わるものだ」と推定されています。  その根拠として、「この年には山城国と美濃国での検地の実施が確認されるが、秀吉は美濃国検地を想定して同じ日付で同内容の『条々』を片桐貞隆(主膳正)と石田正澄(木工頭)にも充てている」点が挙げられています。  この「条々」の内容について、中野氏の同書には、「300歩(すなわち1反)を基準面積としつつ... ...続きを見る

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2017/04/23 11:07
三成の実像1901 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられていますが、その続きです。  関ヶ原の戦いの直前における毛利秀元の兵力数について、「彼らは(引用者注 毛利秀元の軍勢)はそこでおよそ一万二千人くらいが城塞(引用者注 松尾山城ヵ)を修復し、出陣の準備をしていたと「イエズス会日本報告集」に記されており、「石田三成の人数書き立てにおいて、毛利秀就(... ...続きを見る

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2017/04/22 10:36
三成の実像1900 中野氏「石田三成伝」33 伊達政宗の会津蘆名領侵攻5 齋藤氏「戦国時代の終焉」
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年の伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家家臣の金上兼実に書状を送るなど、対応に追われていることが記されています。政宗は秀吉に使者を送りながらも、攻勢はやめませんでしたが、その背景として、政宗は「その後も佐竹氏を共通の敵とする小田原北条氏との紐帯は強まる傾向にあった」と中野氏の同書に記されています。政宗は北条氏との結びつきを強め、北条氏の存在を頼りにして、奥羽での攻勢を強めたものと思われます。しかし、秀吉がこの後、北条攻めを決定し、そ... ...続きを見る

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2017/04/21 10:41
石田三成の実像1899  中野等氏「石田三成伝」32 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して4
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して、三成が蘆名家のために尽力してきたことが記されていますが、結局、これは実を結びませんでした。  そのことについて、その経緯も含めて、中野氏の同書には次のように記されています。  「政宗は恭順を装いつつ、三成らに支持され越後国内の津川城に拠っていた金上盛実を9月中に降し、攻勢を続けることになる。蘆名家重臣金上盛実が一転して政宗に降伏し、伊達家に服従するという事態に至ったことで、これまで盛実を支持してきた上杉景勝や三成... ...続きを見る

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2017/04/20 09:15
白峰旬氏「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」5 朝鮮出兵3
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、小西行長は1万5000人の兵力数と記されているのに対して、「3月13日付の『陣立書』の軍団構成」(中野等氏『文禄・慶長の役』【吉川弘文館】所収)には、7000人とあって、数字に大きな違いがあります。  この点に関して、白峰氏の同論考では、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」の記載をもとに、「小西行長が先陣であったため」、九州の部将の中では「... ...続きを見る

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2017/04/19 09:37
石田三成の実像1898  中野等氏「石田三成伝」31 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して3
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達政宗が会津蘆名領に侵攻した時点における三成の動向についても触れられていますが、その続きです。 中野氏の同論考では、7月26日付の蘆名義広の家臣である金上盛実宛の三成書状が取り上げられています。その書状の冒頭に「去る6日付の書状が、本日26日に到着しました」とあり、盛実書状の返書であることがわかります。さらに「このたびのお父上の討ち死は、まったく思いがけないことで、(その無念さは)手紙に書ききれません。とはいえ... ...続きを見る

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2017/04/18 10:41
石田三成の実像1897 白峰旬氏「『イエズス会日本報告集』における軍役人数の記載について」4
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、関ヶ原の戦いの前後における軍役人数についても記され、考察が加えられています。  まず慶長4年、家康が秀吉の遺命を無視して諸大名と婚姻関係を結んだ時に、三成たち四大老五奉行が使者を派遣して家康を詰問した時に、家康は「己が諸国から三万の軍勢を召集し、これによって敵方の力に対してなしえた最大の兵力をもって固めた」という「イエズス会報告集」の記載について、白峰氏の同... ...続きを見る

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2017/04/17 10:18
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」3 朝鮮出兵2
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「諸侯四名を新王国の主君にすることを望」み、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられていると昨日付の拙ブログ記事で取り上げました。これに関して、今福匡氏の「真田より活躍した男 毛利勝永」(宮帯出版社)の中で、秀吉が天正20年(1592)5月13日付、次いで6月3日付で、長政と吉成に対して書状... ...続きを見る

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2017/04/15 21:28
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」2 朝鮮出兵1
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、朝鮮出兵に関して、「(引用者注 秀吉)は非常に信頼を厚くしていた諸侯四名を指名し」、「彼らを新王国(引用者注 中国大陸における新しい征服地を指すと考えられる)の主君にすることを望んだので、皆の者は大いに驚いた」という記載があり、その四名とは、キリシタンの小西行長、黒田長政、異教徒の加藤清正、毛利吉成であることが述べられています。  この史料には、清正は行長の... ...続きを見る

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2017/04/14 10:45
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における軍役人数(兵力数)の記載について」1 朝鮮出兵以前
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における軍役人数(兵力数)の記載について」(『別府大学大学院紀要』第18号所載)の中で、天正9年の織田信長の時代から、秀吉の時代(天正13年から18年の関白就任以後から朝鮮出兵より前の時代、天正19、20年の朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い、石垣原合戦に分けて、軍役人数がどのように記載されているのか記され、それに対する考察が加えられています。  信長の時代は「天正9年の事例が出てくるのみであるが、信長や柴田勝家のほかに武田信玄(引用者注 武田勝頼が正し... ...続きを見る

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2017/04/13 10:09
石田三成の実像1894  中野等氏「石田三成伝」29 伊達政宗の会津蘆名領侵攻に関して1
 昨夜の関西テレビの「ちゃちゃ入れマンデー」の中で、滋賀県が一押しする戦国武将として石田三成が取り上げられ、三成のCMも流されていました。もっとも、滋賀県では三成のことはあまり知られていないとして、数人の街頭インタビューも流されていましたが、確かに知名度は地元ではそれほど高くないのかもしれませんが、編集に意図的なものを感じました。この番組は出演者が言いたいことを言い合う場面が好きで、毎回見ているのですが。  さて、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正17年(1589)5月に伊達... ...続きを見る

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2017/04/12 11:05
石田三成の実像1893  中野等氏「石田三成伝」28 蘆名家の奏者
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が蘆名(あしな)家・佐竹家の奏者として活躍していることも取り上げられています。  それに関して、天正17年(1589)3月24日付の蘆名家宿老の富田氏実宛の三成書状が掲載されていますが、その内容について、「金上盛備(かながみもりはる)の上洛をうけ、三成は蘆名義広(佐竹義重次男、義宣弟)自身がすみやかに上洛する様に求めている」と記されています。  中野氏の同書では、金上盛備は蘆名義広の家臣であり、天正16年末に「上洛し、秀吉に誼を通じ」、「会... ...続きを見る

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2017/04/11 11:47
石田三成の実像1892  中野等氏「石田三成伝」27 出羽庄内の問題に関わる
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が出羽庄内の問題に関わったことについても記されています。  まず出羽庄内の情勢ですが、「武藤(大宝寺)家の弱体化にともない、山形の最上氏へ依存しようとする勢力と、本庄繁長(越前守)を通じて越後の上杉景勝に接近する勢力との対立が深まっていた。天正15年(1587)の年末に武藤(大宝寺)義興が没すると、その跡に、本庄繁長がみずからの実子千勝丸(のちの義勝)を入れたため、これを不服とする親最上勢力が挙兵する。翌16年9月、本庄繁長はこの鎮圧を成功... ...続きを見る

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2017/04/10 10:07
白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」20 掃部の戦いの状況
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、3月27日付の拙ブログ記事の続きです。  その史料によると、明石掃部は敵... ...続きを見る

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2017/04/09 11:10
石田三成の実像1890  中野等氏「石田三成伝」25 三成の島津家指南4
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、前述したように、天正17年1月21日付の島津義久宛の細川幽斎・三成連署状が取り上げられていますが、「2日遅れの日付で、ほぼ同内容の指示が、義弘から国許の伊地知重秀(伯耆入道)に伝えられている」ことも記されています。  この書状について、次のような解説がされています。  「書き留めに『此旨可預御披露(このむねごひろうにあずかるべく)候、恐々謹言』とあるように、あくまで義久への披露状である。島津家中を政権の思惑に従わせる上で、義久の意向は絶対的であ... ...続きを見る

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2017/04/07 10:37
石田三成の実像1889  中野等氏「石田三成伝」24 三成の島津家指南3
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、琉球問題に関して、天正16年(1588)11月22日付の島津家家臣の伊地知(いじち)重秀に充てた義弘書状が取り上げられていることは前述しましたが、その書状の中で、こういう記述もあります。  「詳しい指示は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません」と。  琉球派遣の御使者については不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰ってい... ...続きを見る

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2017/04/05 10:27
石田三成の実像1888  中野等氏「石田三成伝」23 三成の島津家指南2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成の島津家指南について具体的に述べられていますが、その続きです。  天正16年(1588)8月12日付の三成・長岡玄旨(細川幽斎)充ての島津義久・義弘連署状の中で、「日向南郷(なんごう)を伊東氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取りなしを依頼している」と記されていることが取り上げられています。  このことに関して、「日向国内の島津領はかねてからの懸案であり、6月20日付の上井(うわい)秀... ...続きを見る

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2017/04/03 10:30
石田三成の実像1887  中野等氏「石田三成伝」22 三成の島津家指南1
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館には、三成が取次として島津家の指南的役割を果たしたことが具体的に記されています。天正15年(1587)の九州攻めでは、三成は降伏した島津家の人質として亀寿姫の受け取りに行ったり、当主であった島津義久の上洛に際して、同行し歓待したりしています。  中野氏の同書では、翌16年4月23日付の島津家家臣の新納忠元に充てた細川幽斎・三成連署状が取り上げられ、「新納忠元書状に対する返書であ」り、「内容は肥後一揆の平定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである」と記されていま... ...続きを見る

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2017/04/01 11:10
石田三成の実像1886  中野等氏「石田三成伝」21 毛利輝元と島津義弘の初上洛
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1588)7月の毛利輝元の初上洛についても触れられています。  「7月19日に大坂に入り、22日には初めての上洛を果たす。  輝元の宿所には上京の妙顕寺が充てられ、三成は浅野長吉とともに、秀吉の使者として23日の朝にここを訪れ、米1000石を呈上した。26日には返礼として、太刀一腰と銀子30枚を受けている」と。  典拠は、「毛利輝元上洛日記」です。この史料について、中野氏の同書には次のようなことが記されています。  「輝元が諸大名... ...続きを見る

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2017/03/30 10:39
石田三成の実像1885  中野等氏「石田三成伝」20 後陽成天皇の聚楽行幸
中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正16年(1586)4月14日から18日にかけて行われた後陽成天皇の聚楽行幸について触れられています。  その中で、「聚楽行幸に際して、関白秀吉はみずから禁裏に天皇を迎えに出る。秀吉の前駈として直臣が左右にそれぞれ三七騎配されるが、左列の先頭が増田長盛、右列は三成が先導した。儀礼上のこととはいえ、三成は増田長盛とともに、『関白家来の殿上人』の先頭に配されたことは注目してよかろう」と記されています。  増田長盛とともに「三成が先導した」という点に... ...続きを見る

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2017/03/29 12:00
三成の実像1884 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」19
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「石田三成一人が指揮していたわけではなかった」という記述があることに関して、3月22日付拙ブログ記事で、「こういう指揮に関する宣教師側の見方が事実であるとするなら、もっぱら三成らに限定して責任を負わせる戦後処理の仕方に意図的なものを感じさせます」というふうに記... ...続きを見る

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2017/03/28 21:13
三成の実像1883 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付拙ブログ記事の続きです。  関ヶ原の戦いについては、「1600年日本年... ...続きを見る

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2017/03/27 10:38
三成の実像1882 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いにおける明石掃部の奮戦と実戦の状況についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  大河ドラマ「真田丸」では明石掃部は明石全登という名前で登場し、大坂の陣での... ...続きを見る

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2017/03/26 11:31
三成の実像1881 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」17
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦い前後の毛利輝元の様子についても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  まず、関ヶ原の戦いの前の毛利輝元についての「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなも... ...続きを見る

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2017/03/25 10:55
三成の実像1880 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」16
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、関ヶ原の戦いについても、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  「1600年日本年報補遺」の記述は次のようなものです。  「翌日彼(引用者注 家康)は敵と戦闘を開始したが... ...続きを見る

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2017/03/24 10:32
三成の実像1879 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」15
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられていますが、昨日付の拙ブログ記事の続きです。  「1600年日本年報補遺」には、石田・毛利方は「... ...続きを見る

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2017/03/23 22:03
三成の実像1878 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられており、その内容を拙ブログで紹介してきましたが、しばらく間が空いてしまいました。これは2月25日付... ...続きを見る

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2017/03/22 21:44
石田三成の実像1877 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」13 小谷徳彦氏の報告 水口城をめぐって
「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の中の、甲賀市教育委員会事務局歴史文化財課の小谷徳彦氏の報告「姿を現した幻の城 水口岡山城」で、秀吉が天正13年(1585)4月、甲賀衆を改易処分にして、中村一氏を入封させ、水口岡山城を築城させたこと、その目的は甲賀の支配の拠点にし、東国支配の拠点にすることだったと説明されていました。城主はその後、天正18年に増田長盛、文禄4年に長束正家と替わりました。  関ヶ原の戦いで、長束正家は三成方に就いたため、水口城は家康方に攻められ、開城し、池田長吉が撤収します。... ...続きを見る

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2017/03/21 10:43
石田三成の実像1876 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」12 下高大輔氏の報告2 文禄4年城郭体制
  「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の下高大輔氏の報告で、文禄4年に三成が佐和山の城主になった後、惣構にし、城郭範囲を拡大したと説明されていました。城下町に外堀・町屋・金属工房を作ったことが挙げられていました。  文禄4年には秀次事件が起こり、そのことが大きな画期となり、それを文禄4年城郭体制の成立だと、下高氏の報告では述べられていました。秀次が居城としていた八幡山城は廃城となります。大溝城も廃城となり、その殿主を水口城に運び、本丸に東櫓を建てたということが、下高氏の報告の後に行なわれた小谷... ...続きを見る

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2017/03/20 10:25
石田三成の実像1874 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」10 松下浩氏の報告5 大坂城包囲網
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏の報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、近江に移封された徳川系大名の領地として、井伊直政の佐和山から彦根18万石、戸田一西の大津から膳所3万石が挙げられていました。両者とも最初与えられた城は廃城になりました。近江が徳川系大名の最西端だということについては再三述べられていました。報告の後に行なわれたパネルディスカッションの中で、下高大輔氏は、佐和山が井伊直政の居城になったのは、関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601)3月のことであり、直政自身はその翌年の慶... ...続きを見る

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2017/03/18 11:09
石田三成の実像1873 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」9 松下浩氏の報告4 軽視できない秀頼
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、家康、秀頼、秀忠の昇進レースについても説明されていました。三人の序列がレジュメに表にして掲載されていましたが、関ヶ原合戦が行われた慶長5年(1600)の時点で、家康は正二位内大臣、秀頼は従二位権中納言、秀忠は従三位前権中納言であり、慶長8年になると家康は従一位右大臣、秀頼は正二位内大臣、秀忠は従三位権大納言に昇進し、慶長16年になると、家康は従一位前右大臣、秀頼は正二位前右大臣、秀忠は従二位前内大臣になっていま... ...続きを見る

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2017/03/17 11:14
石田三成の実像1872 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」8 松下浩氏の報告3 豊臣体制の存続 
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、関ヶ原合戦後の政治動向について説明され、関ヶ原合戦後も豊臣家の影響力は依然として大きかったということについて、笠谷和比古氏の見解が紹介されていることは拙ブログで触れました。  慶長16年(1611)の豊臣秀頼と徳川家康の二条城会見に関しても、「徳川家康の優位が確立したものではない。家康は秀頼を庭先で出迎え、『互の可有御礼』(『当代記』)〜対等の礼儀〜を提案。上下関係を決定づけるものではない」と解説されていまし... ...続きを見る

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2017/03/16 21:46
石田三成の実像1871 映画「関ヶ原」に期待・「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」7 松下浩氏の報告2
 岡田准一さんが三成を演じる映画「関ヶ原」の8月26日の公開が待たれます。どんな姿が見られるか、いかに壮大な映画に仕上がっているか、楽しみです。もっとも、原作は司馬遼太郎氏の小説ですから、従来通りの描き方をされないか、懸念されます。家康=北政所=清正・正則ら武断派大名VS三成=淀殿=近江吏僚派という構図、関ヶ原の合戦は家康の問い鉄砲で決まったとするような戦いの経緯など。こういう点のおかしさは拙ブログで指摘してきましたが、そういう従来からの見解がそのまま踏襲されているのか、最近の研究成果が取り入れ... ...続きを見る

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2017/03/15 17:34
石田三成の実像1870 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」6 松下浩氏の報告1 徳川の近江の拠点
 写真は膳所城の天守閣跡碑を3月4日に撮ったものです。膳所城跡公園の中にあります。「大津から膳所へ」の現地探訪会の際に寄りました。前述したように、かつては本丸と二の丸は橋でつながっていましたが、寛文2年(1662)の大地震によって主要部が倒壊し、修復によって本丸と二の丸は合体しました。  このことについては、翌5日に行なわれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」の松下浩氏による報告「関ヶ原合戦後の近江」の中で、膳所城についての説明がなされ、上記の点についても改めて触れられていました。  膳所城... ...続きを見る

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2017/03/14 10:46
石田三成の実像1869 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」5 尾下成敏氏の講演5 二大老制
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が豊臣政権を支える存在だったということが指摘されていましたが、その根拠の一つとして、文禄元年3月、秀吉が名護屋に出陣した時、家康は伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣ら東国大名の指揮をとっていたことも挙げられていました。  秀吉が名護屋に向けて京から出陣するのは3月26日です(藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動{天正10年6月以降}《藤井氏編... ...続きを見る

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2017/03/13 21:11
石田三成の実像1867 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」3 尾下成敏氏の講演3 言経への家康の報酬
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、徳川の在京賄料としての近江9万石がいかに破格の待遇であったのかについては、前田家は1864石、上杉家でも1万石に過ぎなかったという例が挙げられていました。もっとも、近江の徳川領のまわりには、別の大名の所領があり、相互に監視させ、牽制させるのが秀吉の目的だったという指摘もされていました。  近江徳川領の支配を担っていたのは、近江出身者であり、美濃部右... ...続きを見る

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2017/03/11 11:41
石田三成の実像1866  中野等氏「石田三成伝」19 肥後一揆・古渓宗陳配流事件
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正15年(1587)8月に佐々成政が支配する肥後で起こった一揆に際して、三成が取次として島津氏との折衝に当たったことが記されています。細川幽斎も三成と同じく島津氏の取次です。  「秀吉は、島津家重臣の伊集院幸侃(実名は『忠棟』)を薩摩に下して、島津家の対応を指示する」が、「三成の名は一揆鎮圧を命じる秀吉の朱印状に見える」とあり、「(三成)自身としても10月21日付で、細川幽斎との連署状を新納忠元充てに発し、油断なく幸侃の指示に従うべきことを告げて... ...続きを見る

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2017/03/10 10:29
石田三成の実像1865 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」2 尾下成敏氏の講演2 家康関東転封の目的
 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」の基調講演である尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」の中で、家康が小田原攻めの後、関東に転封になったその理由について、秀吉が家康を左遷させたわけではなく、家康に関東とその以東の平和を維持させようとするためであったとする川田貞夫氏の見解が紹介され、講演でもそれに賛意が示されていました。その引き換えに家康は近江に9万石という破格の所領を与えられたと云います。この所領は家康が在京に必要な経費を用立てるためのもの、豊... ...続きを見る

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2017/03/09 21:20
石田三成の実像1864 「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江」1 尾下成敏氏の講演1 近江の徳川領
 5日にピアザ淡海で開かれた「シンポジウム 関ヶ原合戦と近江〜豊臣近江から徳川近江へ〜」を聴きに行きました。二日続いての大津行きになります。10時半から休憩をはさんで午後4時半まで開かれましたが、密度濃い内容でしたし、新たな知見がいろいろと得られました。基調講演と報告が三つ、その後パネル・ディスカッションがありました。  基調講演は尾下成敏氏の「豊臣政権と近江〜豊臣政権の中の家康・近江徳川領」でした。尾下氏の「上杉景勝の居所と行動」(藤井讓治氏の『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)... ...続きを見る

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2017/03/08 10:53
石田三成の実像1863 「現地探訪 大津から膳所へ」2 三成が繋がれたいちょうの木・膳所城の遺構
 写真は和田神社の表門を4日の「近江城郭」の現地探訪の際に撮ったものです。この表門は膳所藩の藩校である遵義堂の表門を移築したものですが、この和田神社には、拙ブログでも以前に紹介したように三成ゆかりのいちょうの木があります。関ヶ原の戦いの後、捕縛された石田三成が大津城に護送される途中、つながれて休憩したと伝わるいちょうの木です。今回の現地探訪の趣旨からは離れるので、この木についての説明はありませんでしたが、いちょうの木との再会は感慨深いものがありました。  この日の「近江城郭」の現地探訪ですが、... ...続きを見る

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2017/03/07 21:41
石田三成の実像1862 「現地探訪 大津から膳所へ」1 大津城外堀跡・中堀跡・本丸跡
  写真は大津城の外堀石垣とおぼしきところを3月4日に撮ったものです。連続講座「近江の城郭」の第五回の現地探訪で、大津城跡と膳所城跡をめぐって来ましたが、この石垣は当時のものではなく、後で作られたものだと、案内・説明役の滋賀県教育委員会の松下浩氏が語っておられました。   この日はJR大津駅で12時半に集合し、3時間半にわたって歩きました。  家康は関ヶ原の戦いの後、秀吉時代に作られた大津城を廃城にして、新たに天下普請で膳所城を築城しました(大津城が低地にあって攻められやすいという弱点がある... ...続きを見る

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2017/03/06 10:30
三成の実像1860 中野氏「石田三成伝」17 九州攻めの際の役割7 バテレン追放令 山本博文氏の見解
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「秀吉は6月19日付でいわゆる『伴天連(バテレン)追放令』の発令を行なうが、これへの三成の直接的関与についても詳らかではない」と指摘されています。  「バテレン追放令」については、山本博文氏の「天下人の一級史料」(柏書房)の「バテレン追放令」で詳しく論じられており、拙ブログでも以前取り上げたことがあります。  その中で、三成が関与したことを示すものとして、筑前の箱崎宮の座主が書いた「豊前覚書」の中に、「この御朱印状は、生駒親正殿と石田三成殿が御承... ...続きを見る

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2017/03/02 21:31
石田三成の実像1859  中野等氏「石田三成伝」16 九州攻めの際の役割6 博多の町割奉行
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が博多町割り奉行を務めたことについて、疑義が呈せられています。  すなわち、「博多復興を期した町割り奉行として、長束正家・小西行長・滝川雄利・山崎片家らの名が確認されるものの、三成の関与については必ずしも明確ではない」と。  三成が博多の町割奉行を務めたということについては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)の中で、次のように記されています。  「秀吉は三成にその博多の復興を命じている。この時の町割奉行は、三成を筆頭に長束正家... ...続きを見る

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2017/02/28 21:37
石田三成の実像1858  中野等氏「石田三成伝」15 九州攻めの際の役割5
 中野等氏の「石田三成伝」(サンライズ出版)の中で記されている、九州攻めの際の三成の行動の続きです。  「三成はその後も伊集院忠棟とともに大口進軍の指揮をとる。24日には曽木(そぎ)に至り、川内川の渡河地点あたりに達している」「また、三成は細川幽斎とともに、日向飫肥(おび)領を伊東氏へ引き渡すよう進めてきたが、島津側の対応が悪く、不快を感じている」「さらに、三成は安国寺恵瓊とともに大隅宮内(みやうち)に出張り、秀吉への敵対を続ける島津家中の北郷(ほんごう)時久(一雲)・忠虎父子と面談している」... ...続きを見る

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2017/02/26 11:19
三成の実像1857 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」14
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、三成・輝元側の関ヶ原の戦い前の軍勢の動向について、「1600年日本年報補遺」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が引用され、それについて考察が加えられています。  すなわち、「奉行側に味方していた者たちは、都へ通じるすべての街道を封鎖することを考... ...続きを見る

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2017/02/25 22:04
石田三成の実像1856 中野等氏「石田三成伝」14 九州攻めの際の役割4
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15(1587)5月8日に島津義久が秀吉に降伏した後も、「いまだ不穏な動きをみせる島津歳久(義久三弟)を抑えるため、三成は19日に島津家家老の伊集院忠棟(九州平定ののち剃髪して『幸侃』【こうかん】と号す)とともに祁答院(けどういん)に派遣される。この軍令は、伊集院右衛門大夫・石田治部少輔・木食上人(応其【おうご】)充ての秀吉朱印状というかたちで発せられた」と記されています。  伊集院忠棟と三成の関係について、中野氏の同書では、「こののち忠棟(... ...続きを見る

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2017/02/23 21:29
石田三成の実像1855 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割3
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正15年(1587)の九州攻めの際、「陣中見舞いをうけた三成は、この陣中から堺南北惣中に礼を述べ、戦況を報じている(大日本古文書『島津家文書』1196号)」と記されています。  三成は天正16年まで堺奉行を務めていましたから、堺からの陣中見舞い、その礼状はその務めの一環と思われます。拙ブログでも前述したように、三成は博多商人の還住を進めていましたから、こういうことからすれば、三成は貿易港としての堺、博多の重要性を意識していたと思われますし、それ... ...続きを見る

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2017/02/22 10:44
石田三成の実像1854 記事「海北友松の自筆受領書発見」2 友松と春日局と三成の子孫との関係 
 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に掲載された「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事ですが、4月11日から京都国立博物館で始まる「海北友松展」の案内も兼ねています。この受領書も展示されます。三成と関わりの深い人物だけに、是非とも行きたいと思っています。  友松の事績について、同記事には次のように記されています。  「友松は近江・浅井家の重臣の家に生まれ、狩野派に学んだ。建仁寺の大方丈の障壁画などを手がけ、寺の縦2メートルの大画面に巨龍2頭をダイナミックに描いた雲龍図... ...続きを見る

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2017/02/21 21:13
石田三成の実像1853 記事「海北友松の自筆受領書発見」1 友松と三成の接点 
 2月17日付の朝日新聞夕刊の文化欄に「海北友松(かいほうゆうしょう)の自筆受領書発見」と題する記事が掲載されていました。妙心寺で発見され、「同寺に納めた屏風の制作料についての書状で」、「受領書には友松の自筆で『お気遣いいただき、屏風を制作した報酬として銀子(ぎんす)一貫目並びに銀子二十枚という過分な額を確かに受領しました』なとど記され、落款・印象もあった」と書かれています。  この「受領書の内容は1992年発行の美術誌『國華(こっか)』(朝日新聞社)に紹介されていたが、所在は不明だった。同... ...続きを見る

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2017/02/20 10:41
旅行記88姫路・赤穂旅行2 姫路城2 藩主の変遷・落語探訪2 「皿屋敷」お菊井戸
 写真は姫路城の本丸(備前丸)広場から見た天守閣を11日に撮ったものです。天守閣から外の本丸広場に出ました。  現在の姫路城を作ったのは、関ヶ原の戦いの後、城主になった池田輝政でした。慶長6年(1601)から8年をかけて築城しました。それまで秀吉が築城した3層の天守閣がありましたが、それを壊して、新たな城として築かれました。池田輝政は関ヶ原の戦いの前は、三河吉田15万2000石の城主でしたが、戦後大幅加増され、播磨姫路の52万石の城主になりました。しかし、池田家は三代目の光政の時代になって、... ...続きを見る

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2017/02/19 12:58
旅行記87 姫路・赤穂旅行1 姫路城1 西の丸から天守へ 千姫が住んでいたのは10年
  写真は姫路城の西の丸から望む天守を11日に撮ったものです。  先週の今日、かつて大阪府立住吉高校で同僚だった人々と赤穂まで行って一泊しました。11日は昼前に大阪駅で集合し、まず姫路城へ向かいました。入口で長い行列ができていれば、時間の関係で入場は断念し、周辺を散策するつもりでしたが、幸い、待たずにすっと中に入れることができ、一通り見学できました。むろん、城内は大いに賑わっており、外国人の観光客も少なくありませんでしたが。少しでも白いうちに天守をじっくり見たいと思っていたので(一年半前に岡... ...続きを見る

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2017/02/18 10:47
石田三成の実像1852 中野等氏「石田三成伝」13 九州攻めの際の役割2
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、九州攻めの際の「秀吉の行軍はきわめて悠然としたものであった」と記され、その理由として「西下にことよせて主不在の宇喜多領および毛利領を親しく監察し、とりわけ毛利家に対しては圧力をかけておく必要があったからであろう」と指摘されています。  その途中、厳島社に参詣していますが、このことについて、藤井讓治氏の「豊臣秀吉の居所と行動」(藤井氏編『織豊期主要人物居所集成』【思文閣出版】所載)には、3月「17日廿日市着(『九州御動座記』『同国廿日市迄、但中一日... ...続きを見る

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2017/02/17 11:19
石田三成の実像1851 中野等氏「石田三成伝」12 九州攻めの際の役割
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、九州攻めに関して、天正15年(1587)2月17日付の筑前国上座郡の土豪の宝珠山隆倍に宛てた三成書状が取り上げられ、その現代語訳が掲載されています。  「仰っしゃるように、これまで書状をやりとりすることはございませんでした(ので、はじめての通信となります)。さて、今度黒田孝高(勘解由次官)殿があなたに対し、特別に知行などを充行われるようにと言上されました。早速(秀吉の)お耳にいれ、諒承されました。今後は黒田孝高の意向を疎かにせず、忠功を尽くされるべ... ...続きを見る

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2017/02/16 10:12
石田三成の実像1850 中野等氏「石田三成伝」11 多賀谷重経の取次
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正14年12月3日付の多賀谷重経宛の秀吉書状の内容が記されていますが、次のようなものです。  「石田三成に対する書状を披見した。関東・奥羽の惣無事のことをこのたび家康に指示したので、異議を差し挟むことのないように。もしこれに背く者があれば討伐する。なお、石田三成も申述するであろう」と。  この書状について、中野氏の同書では次のように解説されています。  「冒頭の文言から、三成が多賀谷重経の書状を取り次いでいたことが理解される。恐らく、結城晴... ...続きを見る

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2017/02/15 21:59
三成の実像1849 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」13
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、織田秀信が三成・輝元側に就いた時のことが、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に記され、その記述が取り上げられていることは前述しましたが、「我らがかの地にいた過ぐる日に」という表現があり、これについて、白峰氏の同論考... ...続きを見る

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2017/02/14 21:32
石田三成の実像1848 中野等氏「石田三成伝」10天正14年5月16日付直江兼続宛、25日付連署状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、天正14年(1586)5月16日付の直江兼続宛木村吉清・石田三成・増田長盛連署状が取り上げられ、現代語訳も掲載されて、その書状の内容について次のようにまとめられています。  すなわち、「三成らは秀吉と家康が縁者となったことを踏まえ、上杉景勝に対して早急な上洛を促している。家康との和議がなった今、東国もほどなく秀吉の支配下に入るであろうから、諸勢力の領域が確定する以前に上洛するのが得策だというのである」と。  秀吉の妹の旭(朝日)姫が家康に輿入れし... ...続きを見る

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2017/02/13 10:19
三成の実像1847 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「日本諸国記」には、福島正則について「この君候は内府様側の人であるから、その領内でもっとも戦さ... ...続きを見る

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2017/02/12 19:04
三成の実像1846 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」12
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、反家康勢力の連携についての「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き犯し... ...続きを見る

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2017/02/11 00:03
三成の実像1845 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」11
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、反家康勢力の連携についての「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  「彼らは内府様に自らの領国に留まるようにとの伝言を送り、幼君秀頼様に対し、またその父君太閤様の命に背き... ...続きを見る

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2017/02/10 15:10
石田三成の実像1844 中野等氏「石田三成伝」9 堺奉行就任は西国仕置と関連
 中野等氏の「石田三成」(吉川弘文館)の中で、三成が小西立佐とともに堺奉行に就任したのは、天正14年6月であり、その先行研究として、朝尾直弘氏の論考「織豊期の堺代官」が挙げられています。  三成を堺奉行に任命した秀吉の意図として、中野氏の同書で次のように指摘されています。  九州への出兵を前提とした「政権の西国仕置と密接に関連するとみるべきで」、「堺商人のもつ交易ルートは、そのまま前線の動きを支える兵站補給路として期待され、三成の奉行就任は、その掌握をもくろんだものであろう。また、これまで島... ...続きを見る

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2017/02/09 19:00
石田三成の実像1842 旅行記85 有馬温泉3 石垣、帯曲輪跡・秀吉の湯殿御殿跡・ねね邸跡・有馬籠
 写真は温泉寺の近く、極楽寺の「太閤の湯殿館」のそばの「石垣・帯曲輪跡」を3日に撮ったものです。その説明掲示板には次のように記されています。  「石垣は、自然石(割ったり削ったりしない石材)だけを用いる野面積(のづらづみ)と呼ばれる石積みで秀吉の活躍した16世紀後半の天正〜慶長年間に見られる特徴的な石垣づくりの技術です。石垣の上は帯曲輪と呼ばれる幅の狭い平坦面になっており、周囲には多聞塀と呼ばれる長屋づくりの塀や、隅の部分には隅櫓状の建物の跡が確認されています」と。  石垣の反対側には、豊太... ...続きを見る

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2017/02/07 22:01
旅行記84 有馬温泉2 親水公園・天神泉源・御所泉源・温泉寺・湯泉神社
 。 写真は有馬川の河川敷の親水公園を2月3日に撮ったものです。有馬川は滝川と六甲川がこの地点で合流しています。親水公園は阪神・淡路大震災があった1995年に作られました。写真に写っている赤い橋がねね橋です。親水公園は下に降りて歩くのがお勧めです。  「太閤橋」のそばの「ゆけむり広場」にある「茶人太閤像」は1582年に設置されましたが、「ねね像」が設置されたのはその15年後のことであり、作者はどちらも新谷英子氏です。「ねね橋」が架けられたのは、1996年のことです。  「太閤像」のそばに滝の... ...続きを見る

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2017/02/06 17:08
石田三成の実像1841 旅行記83 有馬温泉1 ねね像から太閤像へ 天正13年の湯治
写真は有馬温泉の太閤橋の近くのゆけむり広場に建つ「茶人太閤像」を2月3日に撮ったものです。  妻と有馬温泉に一泊してきました。妻は初めて、私は前に行ったことはありますが、三十数年ぶりのことで、その時は同僚たちと車で行き、一泊した後、次の日はコートを借りてテニスに興じたため、温泉街はほとんどぶらつかないままでした。今回は温泉街近辺を三時間半ほどかけてたっぷり散策してきました。  泊まったのは、有馬ビューホテル(「太閤の湯」が併設されています)。3日、ホテルをチェックアウトした後、坂を下り、... ...続きを見る

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2017/02/05 11:04
石田三成の実像1840 中野等氏「石田三成伝」8 天正13年12月28日付の上杉景勝宛書状
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正13年(1585)12月28日付の上杉景勝宛の三成書状が取り上げられています。秀吉書状の副状(そえじょう)であり、それまでの「三也」という署名ではなく、「三成」と記して実名を改めたと指摘されています。  秀吉の書状は、「上杉景勝が歳暮の使者として、富永備中守を上洛(あるいは上坂)させ」たことに対する「返礼の直書(じきしょ)」であると記され、三成の書状も口語訳されています。  この時期の情勢については、中野氏の同書で次のように記されています。 ... ...続きを見る

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2017/02/04 10:39
三成の実像1839 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」10
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前後の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介されていますが、その続きです。  家康が上杉攻めに向かう時「幾人かの奉行は内府様に従ったが、その歩みは緩慢であった。その一人は(... ...続きを見る

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2017/02/03 18:52
三成の実像1838 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」9
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられていることを拙ブログで取り上げました。  その「日本諸国記」の中に、家康が「(上杉)景勝宛に、貴... ...続きを見る

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2017/02/02 00:06
三成の実像1837 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」8
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、石田三成が挙兵する前の状況について、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)の記述が紹介され、それについての考察が加えられています。  すなわち、「(上杉)景勝は、三年間は領内に留まってもよいとの太閤様の許可を得ている... ...続きを見る

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2017/02/01 18:44
石田三成の実像1836 「長浜城跡・城下町跡」現地見学会3 知善院・外堀・山内屋敷・天守跡
  写真は長浜の知善院の表門を、22日の「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会の際に撮ったものです。長浜城の搦手(からめて)門を移築したと云われています。知善院自体は、浅井氏の小谷城から移した寺であり、長浜城の鬼門(北東)を守護する位置にありました。知善院の本堂の中には、大坂落城の時に持ち出された秀吉の木像が安置されていますが、今回は拝観しませんでした。  現地見学会は、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑(三ツ矢大神宮のところ)を見た後、西に進み(城下町の北限をたどる形で)、少し南下し、知善院にたど... ...続きを見る

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2017/01/31 12:38
石田三成の実像1835 須藤通光書状2 文禄5年のものか・惣構普請 
 三成が長浜町に人夫調達を命じた須藤通光書状ですが、太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)には、この書状について解説が加えられ、追而書(おってがき)に記されていることについて次のように記されています。  「長浜町は秀吉の城主時代から、諸役免除の特権を得ていたので、三成の人夫徴用を不当だと考えた町民らが、伏見の秀吉に訴えたのである。これを聞いた三成は、秀吉に直訴され面目を失ったと立腹してしまった」、「この後の顛末はわからない」と。  またこの書状が記された時期については、... ...続きを見る

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2017/01/30 10:24
石田三成の実像1834「長浜城跡・城下町跡」現地見学会2 境界石碑・須藤通光書状
 長浜城跡・城下町跡の現地見学会では、「大手門通り」の東の端を北に進み、大通寺の参道をさらに北上して、大通寺の山門のところに出ました。大通寺は長浜城下町の北東に位置しています。山門の前を左折して、長浜城の大手門を移築したとされる台所門に出ました。大通寺の境内の中を通って、城下町の北東の端に建つ、三ツ矢大神宮のところにある、長浜領の境界を示す江戸時代の石碑のところにたどり着きました。  写真はその石碑を撮ったものです。江戸時代はこの境界碑が長浜に30本建っていましたが、5本しか残っていないため、... ...続きを見る

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2017/01/29 10:15
「長浜城跡・城下町跡」現地見学会1 秀勝の墓・正方形の町の区画・長方形も・京都の町との類似性
   写真は長浜の妙法寺にある羽柴秀勝とされる人物の墓を22日に撮ったものです。長浜市長浜城歴史博物館長の太田浩司氏の案内・解説による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会で、まず曳山博物館のところから南下して妙法寺を訪ね、墓にお参りしたことは拙ブログで前述しました。秀勝は石松丸と呼ばれ、幼くして亡くなっていますが、母は一説には秀吉の側室の南殿と云われ、「竹生島奉加帳」に秀吉、石松丸、南殿の名が記載されています。秀勝とされる人物が埋葬されていた場所(妙法寺の境内)にも案内してもらいました。  現地... ...続きを見る

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2017/01/28 11:03
石田三成の実像1833 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」3 天正19年国割
 22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、秀吉による天正19年(1591)国割について次のように説明されていました。  小田原合戦後、徳川家康を関東に移封し、東海道・東山道に豊臣系大名を配置し、それまで近江にいた諸大名は東海道筋に移されます。具体的には、中村一氏を駿府に、山内一豊を掛川に、堀尾吉晴を浜松に、羽柴秀次を尾張に、田中吉政を岡崎にと。その代わり近江には奉行衆を配置し、近江の豊臣化がさらに進行します。  講義では、奉行衆の石田三成については触れられて... ...続きを見る

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2017/01/27 10:40
松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」2 元亀騒乱を経て近江支配へ、小牧・長久手合戦が画期
  22日に長浜で行われた、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」の中で、信長と近江との関係は、「元亀騒乱」によって大きく変わり、信長の近江掌握構想は破綻したと説明されていました。その発端は、元亀元年(1570)4月、浅井氏が離反したことであり、その理由について、浅井氏が信長に支配されることを危惧したことが挙げられていました。ついで同年9月には、大坂本願寺の檄文が発せられ、六角氏によって一向一揆を扇動し、同年12月の志賀の陣で、信長は浅井・朝倉に与した延暦寺と対立し、それが翌年9月の延暦寺焼... ...続きを見る

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2017/01/26 18:13
石田三成の実像1831 曳山祭りと羽柴秀勝の墓・ 松下浩氏の講義「信長・秀吉の近江支配」1
 写真は22日、松下浩氏による講義「信長・秀吉の近江支配」が行われた長浜の曳山博物館(講義は伝承スタジオにおいてでした)の看板を撮ったものです。  講義の後、太田浩司氏による「長浜城跡・城下町跡」の現地見学会がありました。これは連続講座「近江の城郭」の第4回の催しで、前回は昨年12月に行なわれた鳥居本公民館での講義と「佐和山城跡」の現地見学会でしたが、これについては拙ブログ記事で内容を取り上げました。  長浜に城を築き町を作ったのは秀吉ですが、「長浜曳山祭り」は秀吉の男子(秀勝)誕生の祝い金... ...続きを見る

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2017/01/25 18:56
三成の実像1830 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」7
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、石田三成失脚後、三成たちによる家康に対する陰謀の画策があったという記述が、「1599年〜1601年、日本諸国記」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)にあることが記されています。  すなわち、「内府様(徳川家康)はともかく非常に強力で、その政庁における... ...続きを見る

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2017/01/25 10:39
石田三成の実像1829  中野等氏「石田三成伝」7 左吉から治部少輔へ・矢沢綱頼宛の三成書状
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「左吉」から「治部少輔」に変わったのが確認できるのは、「宇野主水日記」の天正13年(1585)9月10日の記述であり、14日の条にも、秀吉の有馬湯治に従った面々の中に、「石田治部少輔」の名があることが記されています。  その前の8月には、秀吉は越中攻めに向かいますが、その時の三成の居所を示す史料はないものの、「これまでの三成の動きからして推すと、秀吉に近侍して越中攻めの陣中にあったものと考えたい」と推定されています。  この時に、秀吉、景勝、三成... ...続きを見る

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2017/01/24 19:05
石田三成の実像1828 中野等氏「石田三成伝」6 天正12年の事績・13年の紀州攻め・諸大夫成り
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、天正12年の三成について、「小牧の陣の前半は、秀吉の陣中に近侍していたようだ」が、「10月の後半以降は、秀吉自身が北伊勢の各地を移動しており、三成は必ずしも行動を共にしていたわけではなさそうである」と指摘されています。  その根拠として、11月27日の「江州蒲生郡今在家村検地帳」に「石田左吉」の署名が残っていることが挙げられており、「この段階の三成としては、みずから検地の場で指揮をとった可能性が高い」と記されています。「この段階」とことわっている... ...続きを見る

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2017/01/23 10:55
石田三成の実像1827  中野等氏「石田三成伝」5 天正11年に発した書状と「宇野主水日記」の記述
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、三成が一次史料として出てくるのは天正11年のことだと記されていることは前述しましたが、1月23日付の淡路の広田蔵丞宛の書状、2月7日付の越後西雲寺宛の木村吉清・増田長盛との連署状、3月13日付の近江称名寺宛の書状、6月28日付の狩野秀治・直江兼続宛の書状、8月16日付の狩野秀治・直江兼続宛の長盛との連署状が挙げられています。  これらの書状から、三成はまだ24歳という若さであるにもかかわらず、増田長盛・木村吉清と共に「対上杉交渉の実務を当初から担... ...続きを見る

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2017/01/22 18:48
石田三成の実像1826 堺めぐり5 千利休屋敷跡の記念碑・利休が暴利をむさぼっていた説への批判
  写真は千利休屋敷内に建つ、利休の事績を記した石碑を6日に撮ったものです。  利休切腹事件の時に、三成は京に戻っていなかったことが、白川亨氏の「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)で指摘されています。これも以前に拙ブログで紹介したことがありますが、「宗湛日記」の天正19年2月5日条に増田長盛、三成、大谷吉継が茶会を開いたという記載があり(11日には宇喜多秀家たちが茶会を開いたという記述もあります)、当時三成は博多におり、「その後、名護屋に赴いたであろうから、3月下旬以降でなければ帰坂できな... ...続きを見る

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2017/01/21 11:13
石田三成の実像1825 中野等氏「石田三成伝」4 昌幸と三成の相婿説3 最初の三也書状・若くして頭角
 中野等氏「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、昌幸と三成の相婿説が主張されていますが、昌幸と三成の結婚した年に15年程の大きな開きがあります。両方の妻とも、宇多頼忠の娘であれば、姉妹の間に大きな年齢差があります。この点を指して、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)の中で、「かつては昌幸の正室が宇多頼忠の娘であるとも言われたが、年齢などからして今は否定されている」と記されているのでしょう。  こういう年齢的な不自然さに気づかれた白川亨氏は晩年の著作「真説 石田三成の生涯」(新人物往来社)... ...続きを見る

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2017/01/20 11:01
石田三成の実像1824 中野等氏「石田三成伝」3 昌幸と三成の相婿説2 三成の結婚の時期
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と三成は、共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿説であったという説を唱えられ、宇多氏の本来の姓である尾藤氏は「信州中野郷を本貫とする」と述べられています この点について、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)の中で、「尾藤一族は、信州中野牧を本拠地とした武士集団であ」ると記されています宇多頼忠は、「弘治年間(1555〜58)信州から遠江の引佐地方に移動し、それから十年間?その地において今川家に帰属」し、「永禄3年(1560)、今川義元... ...続きを見る

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2017/01/19 18:38
三成の実像1823 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」6
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。  伏見にいる三成に対して、家康は「軍勢を率いてそこに到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約... ...続きを見る

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2017/01/18 10:05
三成の実像1822 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5
 白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中の、武断派七将による石田三成襲撃事件に関する、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)における記載の続きです。  『 家康が大坂城に入り三成を襲おうとしたため、「(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごし... ...続きを見る

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2017/01/17 11:52
三成の実像1821 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」5
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関しても、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)に詳しく記されていますが、的確に事態をつかんでいるところと事実誤認があるところがあることがわかります。  まず次のように記されています。  「... ...続きを見る

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2017/01/16 10:43
石田三成の実像1820 中野等氏「石田三成伝」2 昌幸と三成の相婿説を主張・その否定的な見解
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、真田昌幸と石田三成は、妻が共に宇多頼忠の娘であり、二人は相婿であったというかねてからの説が踏襲されています。すなわち、「頼忠の本来の苗字は『尾藤』であった。尾藤家は信州中野郷を本貫とするが、頼忠の兄と目される尾藤知宣(とものぶ)(甚左衛門尉、実名は『知定』などとも)が藤吉郎時代の秀吉に家人として仕えていた」と記され、「頼忠の女子の一人が真田昌幸に嫁いでいる。したがって、昌幸が10歳以上の年嵩だが、三成とは相婿の関係となる」と。  また「真田昌幸の... ...続きを見る

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2017/01/15 12:05
石田三成の実像1819 中野等氏「石田三成伝」1三成の鷹マニアぶりを示す、中納言宛の書状をめぐって
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、文治派とされる三成の姿を見直すものとして、三成が鷹マニアだったことを示す、某中納言宛の三成書状が最初に取り上げられています。この書状については、中井俊一郎氏 の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)で触れられており、中野氏の同書の参考文献でも、中井氏の「石田三成からの手紙」が挙げられています。  しかし、中納言が誰であるかについて、中井氏が織田秀信としているのに対して、中野氏は上杉景勝としています 。その理由については、中野氏の同書では示され... ...続きを見る

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2017/01/14 11:23
石田三成の実像1818 堺めぐり4「山上宗二供養塔 一会塚」・南宗寺と大徳寺からわかる利休との関係
写真は堺の南宗寺の塔頭の天慶院の前にある「山上宗二供養塔 一会塚」を5日に撮ったものです。山上宗二は千利休の高弟でしたが、小田原攻めの際、秀吉によって惨殺されました。利休が切腹させられるのは、その翌年のことです。 南宗寺に千利休一門の供養塔があり、山上宗二の供養塔も南宗寺の塔頭の天慶院にありますし、南宗寺を再建した(創建したのは三好長慶)のが三成と親しかった沢庵和尚であったことからしても、利休と三成の関係の親密さがうかがえるようです。  それは京都の大徳寺でも同じであって、利休は大... ...続きを見る

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2017/01/13 10:51
石田三成の実像1817 堺めぐり3 「さかい利晶の杜」・秀吉が利休の娘に懸想した話の疑問点
 写真は堺の千利休屋敷跡のすぐ西隣に建つ「さかい利晶(りしょう)の杜」の施設を撮ったものです。昨年オープンしたばかりで、このような建物ができているのは知りませんでした。千利休茶の湯館、与謝野晶子記念館などが中に入っていますが、今回は時間がなくて、観覧できませんでした。堺が生んだ二大偉人に関する施設ですから、近々改めて訪ねたいと思います。  千利休屋敷跡との間の道路も新しくなっており、ここが新たな観光スポットになっていることがわかります。 千利休屋敷跡の説明ガイドさんが、利休が切腹させられ... ...続きを見る

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2017/01/12 20:59
三成の実像1814 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」4
  白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、「(徳川)家康その他の大名たちは、皆が敵対心を捨てて固い友情が結ばれるように何も試みないわけではなかった」と記され、「石田三成と浅野長政の対立が起こった時... ...続きを見る

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2017/01/09 10:12
三成の実像1813 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」3
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、昨日付の拙ブログで記したように、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政の対立があったという記述があることが指摘されています。石田三成派については、白峰氏の同論考で、次のように記されています。  「石田三... ...続きを見る

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2017/01/08 10:51
三成の実像1812 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」2
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「1599年度日本年報」(『 十六・七世紀イエズス会日本報告集』)には、石田三成と浅野長政が対立したという記述があることが記されています。  すなわち、「当初は石田三成と浅野長政は表面上は友好関係(『外見上の友情』)を保っていたが、『憎悪を爆発』させて激... ...続きを見る

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2017/01/07 10:22
三成の実像1811 白峰旬氏「イエズス会日本報告集における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察」1
白峰旬氏の「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察ー関ヶ原の戦いに至る政治状況と関ヶ原戦い当日の実戦の状況ー」(『別府大学大学院紀要』第17号・別府大学史学研究会『史学論叢』第45号所載)の中で、「十六・七世紀イエズス会日本報告集」を精緻に分析して、関ヶ原前後の状況に対して考察が加えられています。その論考を拝読してまず思うことは、外国人宣教師の報告書とは云え、日本の当時の状況をかなり的確に捉えており、史料として重要だということを改めて認識したことです... ...続きを見る

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2017/01/06 09:44
石田三成の実像1810 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」15 公儀を使用したのは三人
  白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、阿部哲人氏の指摘などをもとにして、「西国を二大老・四奉行がまず掌握して、東国は大老の上杉景勝が掌握する、という豊臣公儀(石田・毛利連合政権)のダイナミックな全国支配のスキームを読み取ることができる」と指摘されています。  またやはり阿部氏の指摘に基づいて、「7月17日付長束正家・増田長盛・前田玄以連署状」と「内府ちかひの条々」が、「西国の諸大名だけでなく、東国の諸大名に対しても出されたことに... ...続きを見る

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2017/01/05 19:45
石田三成の実像1809 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点4 いくさのことを知らない三成?
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)では、三成の相手として初芽が出てきて、二人の関係も小説の重要な軸となっています。それはよいのですが、三成の妻子は登場しておらず、その点に不満を覚えます。映画「関ヶ原」でも、原作通り、妻子は登場しないのでしょうか。  もっとも、小説が書かれた時点では、三成の妻子のこと(正室との間に三男三女があったこと。側室については、今でもあまりよくわかっていません)については司馬氏はよく把握していなかったのかもしれません。妻子のことを精力的に調べられたのが故白川亨氏で... ...続きを見る

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2017/01/04 18:50
石田三成の実像1808 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点3 戦いの経緯・島津家の動向
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第五として、関ヶ原の戦いの経緯について取り上げ、その一つとして島津隊は三成に対する遺恨から戦いに加わらなかったと描かれているおかしさについて触れました。  島津隊は動かなかったのではなく、そもそも二番備であり、戦いに参加しようと思っていたら、小早川秀秋が裏切り、勝敗が決してしまっていたということが桐野作人氏の「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)の中で指摘されています。小説「関ヶ原」では、秀秋が裏切ったのは正午頃であり、それで西軍が崩れ始... ...続きを見る

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2017/01/03 15:31
石田三成の実像1807 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」の描き方の問題点2 おびき出され説・問い鉄炮
 司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)」の問題点の第四は、関ヶ原の戦いも、三成方は家康の作戦に乗せられ大垣城から関ヶ原に誘い出されたという展開になっていることです。これも徳川史観に基づいた捉え方であり、これに対して、三成方が関ヶ原の移動したのは、動きの怪しい小早川秀秋が松尾山に入ったためであり、秀秋を牽制することが目的であったという中井俊一郎氏の見解があり、そのことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されています。  問題点の第五は、関ヶ原の戦いの経緯についてです。なか... ...続きを見る

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2017/01/02 18:04
石田三成の実像1806 映画「関ヶ原」公開に対する期待と不安・司馬遼太郎氏の原作の問題点1
 昨年は「真田丸」で三成が重要な役割を果たしたということで、関連の講座・講演やイベントがいくつも行われ、結構の数参加しましたが、今年は岡田准一さん主演(三成役)の映画「関ヶ原」が公開されるということもあって、期待がふくらみます。  映画の内容が原作通りになるかどうかはよく分からないのですが、今回、改めて司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)を読み直しました。拙ブログでも記したように、この小説は自分にとって三成本の原点ともいうべき存在であり、愚直なまでに義を貫いた三成の姿が描かれていて悪くない... ...続きを見る

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2017/01/01 22:18
石田三成の実像1805大河ドラマ探訪470 「真田丸」137「三谷幸喜のありふれた生活・伏線を張る」
11月17日の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の「伏線を張るということ」は、文字通り「伏線」について説明されているのですが、その中で、「真田丸」の三成のことも触れられています。  すなわち、「石田三成が細川忠興に、干し柿を進呈するシーンがあった(これを柿Aとする)。実際に伝えられているエピソードを基に書いたのだが、三成には、柿に関する話が、実はもうひとつある。処刑される直前に、差し出された柿を、お腹を壊すといけないので断る有名なエピソードだ(これを柿Bとする)。柿Aを観た... ...続きを見る

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2016/12/31 13:10
大河ドラマ探訪469 「真田丸」136 九度山探訪4 抜け穴と伝わる真田古墳・さまざまな抜け穴伝説
 写真は真田の抜け穴と伝わる、九度山の真田古墳を撮ったものです。真田昌幸・信繁が住んでいた真田庵から東へ170メートル行ったところにあり、かつては信繁はこの抜け穴を使って大坂に行ったと言われていましたが、実際は古墳の入口であることが確かめられました。  しかし、信繁ゆかりの場所には、「真田の抜け穴」と伝わるものがいくつかあり、これも信繁の活躍から生まれた伝説(真田ならそういう抜け穴を作っていたのではないかという)の一つです。  2013年9月13日付の拙ブログ記事で、やはり、「真田の抜け穴」... ...続きを見る

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2016/12/30 11:26

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