石田三成の実像111 「連作短歌・無念関ヶ原」21 三成処刑
首斬らるる間際まで身を気遣へる君に信念の強さを見たり
身に悪しと柿の差し入れ断はりて君最期まで体をいとふ
神風の吹くやも知れずと君は望み捨てずにゐしか命果つるまで
身の不運嘆くことより豊臣家の行く末案じて死に行きたるか
三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に、10月1日に京都六条河原で処刑されました。乱を起こしたという罪人扱いであり、首に輪をはめられ、乗り物に乗せられて大坂・堺・京都の市中を引き回され、家康に歯向かえばこうなるのだという見せしめにされました。切腹という武士にとっては名誉な死に方ではなく、打ち首でした。
刑場に引き立てられてゆく三成は途中でのどの渇きを訴えますが、警護の者は近くにあった柿を手渡そうとしたものの、それは「体によくない」と言って断わります。文書などでは「柿は痰の毒」だという言い方がなされていますが、それは誤りで柿は体を冷やすから、下痢気味の三成にはふさわしくないと言ったのではないかと考えられますし、あるいは、柿は痰の毒ではなく、逆に痰の薬だという説もあります。三成は柿が痰の薬だと分かっていて、敢えてそう言って断わったというわけです。
処刑される前の人間が自分の体のことを心配しても仕方がないではないかと護送している者たちが嘲ったところ、三成は「大義を持つ者は最後まで自分の体をいとうものだ」と平然と答えたと言います。最後の最後まで望みを捨てなかった三成は、神風が吹くかと思っていたかもしれません。自分が生きなければ豊臣家の将来が危ういと考えていたはずです。西軍の主たる者が処刑されたり、逃亡したりしていますから、家康に立ち向かう者など出て来るとは考えられず、先に待っているのは豊臣家滅亡だけだという、どうしようもない思いに駆られていたに違いありません。
小西行長はキリシタンだったために、自害の道を選べず、北に落ち延び、岐阜県揖斐郡春日村の廃寺の庫裏で捕まりましたが、処刑される前、僧侶の回向を当然ながら断わっています。神の前に召されると信じていたのでしょう。三成も僧侶の回向を断わり、平生と変わらぬ姿で処刑されたと伝えられています。
安国寺恵瓊は京都で捕まりましたが、吉川広家のために南宮山から一歩も動けなくて、さぞかし残念だったでしょう。毛利家が吉川と恵瓊の二派に分かれていたのが致命的でした。彼自身も僧侶ですから、回向を断わり、慫慂として死につきました。
身に悪しと柿の差し入れ断はりて君最期まで体をいとふ
神風の吹くやも知れずと君は望み捨てずにゐしか命果つるまで
身の不運嘆くことより豊臣家の行く末案じて死に行きたるか
三成は小西行長・安国寺恵瓊と共に、10月1日に京都六条河原で処刑されました。乱を起こしたという罪人扱いであり、首に輪をはめられ、乗り物に乗せられて大坂・堺・京都の市中を引き回され、家康に歯向かえばこうなるのだという見せしめにされました。切腹という武士にとっては名誉な死に方ではなく、打ち首でした。
刑場に引き立てられてゆく三成は途中でのどの渇きを訴えますが、警護の者は近くにあった柿を手渡そうとしたものの、それは「体によくない」と言って断わります。文書などでは「柿は痰の毒」だという言い方がなされていますが、それは誤りで柿は体を冷やすから、下痢気味の三成にはふさわしくないと言ったのではないかと考えられますし、あるいは、柿は痰の毒ではなく、逆に痰の薬だという説もあります。三成は柿が痰の薬だと分かっていて、敢えてそう言って断わったというわけです。
処刑される前の人間が自分の体のことを心配しても仕方がないではないかと護送している者たちが嘲ったところ、三成は「大義を持つ者は最後まで自分の体をいとうものだ」と平然と答えたと言います。最後の最後まで望みを捨てなかった三成は、神風が吹くかと思っていたかもしれません。自分が生きなければ豊臣家の将来が危ういと考えていたはずです。西軍の主たる者が処刑されたり、逃亡したりしていますから、家康に立ち向かう者など出て来るとは考えられず、先に待っているのは豊臣家滅亡だけだという、どうしようもない思いに駆られていたに違いありません。
小西行長はキリシタンだったために、自害の道を選べず、北に落ち延び、岐阜県揖斐郡春日村の廃寺の庫裏で捕まりましたが、処刑される前、僧侶の回向を当然ながら断わっています。神の前に召されると信じていたのでしょう。三成も僧侶の回向を断わり、平生と変わらぬ姿で処刑されたと伝えられています。
安国寺恵瓊は京都で捕まりましたが、吉川広家のために南宮山から一歩も動けなくて、さぞかし残念だったでしょう。毛利家が吉川と恵瓊の二派に分かれていたのが致命的でした。彼自身も僧侶ですから、回向を断わり、慫慂として死につきました。
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