石田三成の実像123 石田善能寺の寺内町的な性格、父の小学校の校歌

 石田三成の弟の子が逃げ込んだ石田善能寺に検地帳が残っています。一つは天正検地帳と呼ばれるもので、1589年に書かれたものです。もう一つは慶長検地帳と呼ばれるもので、1609年に書かれたものです。いずれも祐尊という人の名が記されているということですが、最初の祐尊は近藤祐尊であり、慶長の方は娘婿の横田祐尊だと思われます。横田祐尊が石田三成の弟である光重の息子の光吉でした。1603年に寺が浄土真宗に改宗されていますから、その時点で石田三成の弟の子である光吉が入り込んだのではないでしょうか。
 石田善能寺がある大野町寺内の周りには土塁や堀が見られ、寺院を中心とした城郭都市であったと石田明乗氏は述べておられます。もっとも、寺内町というのはもともと浄土真宗の寺院を中心としたものであり、石田善能寺は浄土真宗に転宗されるまで天台宗の寺であったため、他の地方の寺内町が浄土真宗の寺であったこととは違っており、特異な例だそうです。明乗氏も、善能寺は「寺内町的」だという言い方をして、言葉を選んで使っておられます。中世においては、ここは軍事的整備がはかられた城郭伽藍であり、自治都市であった可能性が高いとも明乗氏は述べておられます。
 また石田明乗氏は、大野町寺内には天平時代以前の尺度で作られた条理制遺構が見られることも明らかにしておられます。全国的にもこういう条理制遺構は大和の一部などにしか見られないということでした。こういう特別な場所に、石田一族の一人が逃げ込んだというのも、偶然とは言え、歴史的に興味深い話です。
 なお、私の父の郷里の岐阜県本巣市糸貫町屋井にあった屋井城ですが、父親の出身小学校である土貴野(ときの)小学校の校歌にも屋井城のことが詠まれていると、父に訊いて初めて知りました。「屋井の城跡 絶えたれど 松はむかしを 語るなり」と始まるのです。なお、父は城跡の位置もよく知っていました。さすが地元の者だけに郷土の歴史的なことは詳しいものだと思い知りました。

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