石田三成の実像150 「関ヶ原探訪記」2 三成の復権    

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 写真は関ヶ原町に建っていた円筒形のモニュメントを撮ったもので、関ヶ原の戦いの様子が描かれていました。石田三成の旗印が大きく強調されていましたが、この反対側には徳川の葵の紋が描かれています。前に来た時にはなかったので、比較的新しいものなのでしょう。
 石田三成が徳川家康と並ぶ形で大きく取り上げられるようになったのは、2000年の関ヶ原400年祭の時からではないでしょうか。その年の大河ドラマ「葵 徳川三代」でも三成の復権がはかられていました。一回から三成が処刑される十三回までは、三成にスポットが大きく当てられており、敗者の側から見た歴史ドラマが展開されていました。
 その時の関ヶ原のイベントでも東軍と西軍が対等に扱われていましたし、大垣市でのイベントでも、辰巳琢郎が三成に扮して颯爽たる姿を路上の人々に見せていました。ちなみに、その時の家康役は宍戸錠でした。
 歴史民俗資料館の展示も両方に配慮した内容になっていますし、関連グッズも西軍東軍いずれのものもありました。私は関ヶ原せんべいと「平群谷の驍将 嶋左近」なる本を買いましたが、徳川の葵の紋と三成の旗印「大一大万大吉」が書かれた袋に入れてもらいました。
 今回、陣跡を多数廻ってみて改めて感じたことは、西軍の陣はしっかりとした場に設けられており、対する東軍の陣は今では町中の、ともすれば見失いそうな場所に置かれており、西軍は前もって関ヶ原が決戦の地になることを想定しており、決して家康におびき出されて関ヶ原に移ったのではないという印象を強く持ちました。小早川秀秋たちの裏切り、吉川広家の傍観などがなければ、戦いの帰趨がどう転んでいたのか全く予想がつかない状況でした。 両者合わせて十数万の軍勢が激突するというのは、かつて日本の歴史のうえではなかったことで(北条攻めでは大軍が動きましたが、あくまで局地戦が行われただけです)いかに家康といえども、少なくとも午前中は勝利をなかなか確信できなかったはずです。
 天下を二分する戦いにまで持って行ったのは三成の力ですし、わずか19万石の中大名がここまでやったということはもっと評価されていいのではないでしょうか。あまりに早く決着がついてしまったために、豊臣家臣団が東西に分断されてしまったために、三成のせいにされ、今でも三成が悪く言われることが後を絶ちませんが、敢えて巨大な家康に戦いを挑んだその心意気を買うべきでしょう。
 関ヶ原に立つと「つはものどもが夢の跡」という印象を強く持ちますが、三成の陣跡に柵が再現され、旗がたなびき、当時の様子をわずかなりともしのべるのが、せめてもの救いです。

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