石田三成の実像160 「関ヶ原探訪記」11 三成の陣跡の展望台

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 写真は笹尾山の展望台の手前から関ヶ原方面を撮ったもので、石田三成が眺めていたその時の地形とほとんど変わっていないのではないかと思われます。むろん、戦い当時は軍勢がひしめき合って、死闘を繰り広げていましたから、今の田園地帯の静かなたたずまいとは大違いですが。展望台に関ヶ原の戦いの陣形を描いたパネル版があり、ボタンを押すとナレーターの声が流れ、戦いの様子を物語られます。展望台の両側に三成の旗印が掲げられていました。
 確かにこの地点に立つと、関ヶ原が一望できますし、三成は一番いい場所を占めていましたから、西軍がみんな戦いに加わってくれれば、勝利できると確信したのではないでしょうか。吉川広家や安国寺恵瓊・毛利秀元たちが陣を置いていた南宮山は関ヶ原から距離が遠いものの、三成は当然彼らも戦いに参加してくれるものと思っていたでしょう。背後から東軍を突けば、壊滅させることができると踏んでいたでしょう。
 もっとも、私自身、何年か前に南宮山に登ったことがありますが、関ヶ原の方は全く見えません。恐らく当日の戦いの音も大きく響いては来なかったでしょう。しかし、それだからこそ、早く関ヶ原に駆けつけて東軍と一戦を交えたいと思った者も少なくなかったはずです。しかし、結果的には家康に内応していた吉川広家が兵を動かさなかったため、後ろに控えている毛利秀元・安国寺恵瓊たちも兵を出せませんでした。しかし、三成が総攻撃の合図にあげたのろしには気づいたでしょうから、なかなか兵を動かさない吉川広家に苛ついた者も少なくなかったでしょう。吉川以外はしぶしぶの傍観といったところでしょうか。後に長束正家は自害、安国寺恵瓊は三成たちと処刑されていますから、関ヶ原の戦いへの非戦を大いに悔いたに違いありませんれ。
 家康に内応していた吉川広家に対する不満も彼らや毛利軍の中で少なくなかったでしょう。毛利家は戦後存続できたものの、大幅減封され、家康にはかられたと思ったはずです。吉川広家も自分の取った策が最善の方法かどうか、死ぬまで思い悩んだかもしれません。
 ともかく、南宮山の諸隊が駆け下りて東軍と戦い、全面戦争に発展していたらと、詮無いことですが「たら、れば」思考にふけらずにはおられません。
 

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