石田三成の実像196 「佐和山城探訪記」1 ひそかに作って置かれていた石田地蔵

 
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 9月14日の午前中に娘と共に石田三成の居城があった佐和山に上り、その後、長浜城歴史博物館で開かれている「石田三成展」を見て、午後に虎姫町文化ホールでの花ヶ前盛明氏の講演「直江兼続と石田三成」を聴きに行きました。メインは講演会にあり、「石田三成展」も15日まででしたから、その講演会に合わせて行くことにして、佐和山探訪もそのついでにしました。昨年は佐和山城一夜城イベントを見に行きましたが、佐和山城自体には登っておらず、久しぶりの訪れになりました。
 佐和山へは法華口から登りましたが、まず、石田地蔵へのお参りから始めました。これらの地蔵はかつて江戸時代に佐和山にひそかに置かれていたものを井伊藩が探し出して1カ所に集めたと言われています。石田三成一族や家臣の者の霊を弔うために、心ある領民達がひそかに地蔵を作って、入山を禁止されていた佐和山に入り、あちらこちらに置いたということです。三成の善政ぶりがしのばれる話であり、石田地蔵と言われる所以です。
 石田地蔵は佐和山に近い、愛宕山にある仙琳寺の一角にもあり、十数体並んでいます。私も見せてもらったことがありますが、石田多加幸氏の「石田三成写真集」にも写真が掲載されています。石田三成は愛宕権現を手厚く保護したと言われています。三成はここに茶室を設けてよく茶会を開いたということです。石田地蔵は今はそれほどの数は残っていませんが、五百体にのぼったということです。
 佐和山の法華丸入り口近くにある石田地蔵は、写真でも分かるように、着飾った地蔵さんになっており、手厚く世話されていることが分かります。地蔵に込めた当時の人々の思いの厚さがうかがえますし、それが今もなお引き継がれていることに、感謝の念を覚えましたし、厳粛な気持ちにもなりました。
 関ヶ原の戦いに勝ち、石田三成の領地を引き継いだ井伊直政は、佐和山城に入城しますが、関ヶ原の戦いの時に受けた傷が悪化して、翌々年にそこで亡くなりました。後を継いだ直勝は、佐和山城を壊して、新たに彦根城を作り、佐和山は見捨てられました。石田三成につながるものを徹底的になくそうという意思が、佐和山入山禁止という形となって表れたのです。

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